【そもそも.】「杜の都・仙台」って?ケヤキになった意外過ぎるワケ

最近耳にする新しい言葉、聞いたことはあるけれど、なかなか深くは知らない言葉を〝そもそも〟からお伝えしていく。

青空に恵まれ、新緑が気持ちいい季節となったが、今回のテーマはこちら。

なぜ杜の都?

まずは杜の都のシンボル、定禅寺通で伺った。

Qなんで杜の都っていう?

街の人

「全然分からない…なんでですかねぇ…」

「緑が多い印象がある。私が関東にいた時は、向こうの人は杜の都って」

「仙台に住んで一番良かったなと思う季節。大好き!」

Qなんでケヤキ?

「なんでかなぁ?」

「写真とってSNSに上げたくなるような気持になります。映えると思います。なんでケヤキか…植えやすいんですかね?」

始まりは「伊達政宗の飢餓への備え」

仙台市、百年の杜・推進課の水嶋課長に伺ったところ、緑が増えるきっかけは400年前に遡るそう。

初代・仙台藩主の伊達政宗が飢餓に備えるために、栗、梅、柿といった実のなる木を植えるように奨励したのが始まりという。

そこから時は流れ江戸から明治へ移り、明治42年=西暦1909年。

初めて「森の都」という表記が当時の観光案内書にあると言う。

ただ、森の字はよく見るものと違っている。

当初は「森の都」だった

これについては記録も限られていておそらくということだが、

仙台市の水嶋課長によると、「森」という漢字の森は自然に生い茂った木々を意味するということ。

その一方でお馴染みの杜は人の手で作り上げた木の群がりを意味するということで、杜の都は住民が育んでいるもの、というニュアンスを出したのではない…かなということ。

ただ、伊達政宗の時代から続いた仙台の杜は昭和に失われてしまう。

空襲で仙台の街は焼け野原に

太平洋戦争、仙台でも空襲があり仙台の街は焼け野原となってしまった。

その復興の過程で仙台の杜は青葉通や定禅寺通の街路樹へ形を変えていったという。

なぜケヤキ?

これについては意外な話が水嶋課長から伺うことができた。

「実は…ケヤキではなく、トチノキになる可能性もあったんです」

戦後、焼け野原になった仙台をもう一度〝杜の都〟にとなった時に、青葉通り沿いに木を植えようとなったそう。

その時に候補となったのがトチノキかケヤキ。

木の大きさや枝ぶりからこの2つになったが、どちらがいいか、国に相談したところ、仙台東照宮の近くの国が管理する林の中に、ちょうどケヤキの幼木があったという。

トチノキもあったがトチノキはかなり大きな木でもってくることができなかった。

ちょうどいい大きさのケヤキがあったので「これを植えたらどうか」という話になり、ケヤキを植えることになったそうで。

もし、この幼木がトチノキだったらトチノキ並木になっていた可能性もあったということ。

そして、1971年に市民投票で仙台市の木に選ばれたという。

そもそも、杜の都・仙台って?

「先人達が守り続けてきた誇るべき愛称」

未来にも大切に受け継いでいきたい。

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