戦後、街中には戦争や原爆で親を失い、路頭に迷った子どもたちがあふれていた。終戦から2年後、本県で最初の県立孤児院(後の児童養護施設)として開設された向陽寮(現在は光と緑の園 向陽寮)。多くの戦争孤児を引き取り、社会に送り出したが、当時の記録はあまり残っていない。愛情に飢えた子どもたちに家族のぬくもりをどう伝えたのか。初代寮長の手記や元寮生らの話を基に戦後福祉の足跡をたどった。
1948年の国の調査によると、戦争孤児は全国で12万人を超えていた。路上で物乞いをし、闇市で盗みを働...
長崎新聞
「親がいないやつらにひどい扱いをしても苦情がこない。そう考えていた雇い主は多かった」。向陽寮を出た後...
長崎新聞
「嫌だった。なんでこんな所に入らなければいけないんだと」 幼いころに両親を病で失い、長崎市戸町の伯母...
長崎新聞
父の顔は知らない。母は5歳だった頃、病気で死んだ。戦中戦後、あちこちの家をたらい回しにされた。佐賀県...
長崎新聞
「肝っ玉が大きい、何事に対しても尻込みしない人だった」。向陽寮の初代寮長、餅田千代の長男健(たけし)...
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