最後の300勝投手“草魂”鈴木啓示さんが感じた自身の意外な弱点とは プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(15)

1978年9月の日本ハム戦で10試合連続完投勝利を挙げた鈴木啓示さん。このシーズンは25勝で2年連続3度目の最多勝に輝いた=後楽園

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第15回は317勝を挙げた鈴木啓示さん。歴代1位の560本塁打を浴び、何度踏まれても立ち上がる“草魂”を座右の銘とした偉大な左腕は、自分の意外な弱点を吐露した。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽一番悔しかったのは野村さんの遅いダイヤモンド一周

 私はプロへ入った時にノーコンやった。それが終わってみれば無四球試合の日本記録を作っとる。やっぱり日生球場(大阪市中央区にあった本拠地球場)のおかげ。何が幸いするか分からんですよ。あの狭い球場(両翼約90メートル)やから、やっぱりコントロールに気を付けた。打球が詰まってもホームランが入るからね。
 私は560本の被本塁打王ですけど、打たれて一番悔しかったのは野村克也さん。打った瞬間に私の方を見て「(スタンドに)入ったやろ」っていう顔をして走り出す。もうホームインしたなと思うてサードの方を向いたら、野村さんはまだ二塁あたりをよちよち走ってるわけや。ピッチャーが一瞬にして味わう最大の屈辱はホームラン打たれた時やねん。その屈辱が一番長いのが野村さんや。ダイヤモンドを一周すんのに、ものすごくが遅かったから。他の選手の倍は長かった。「嫌やな、このおっさん、今度は絶対打たれたくない」と思うたね。

1966年、近鉄に入団した鈴木啓示さん。85年の引退まで317勝を積み上げた。

 ▽土砂降りの日の入部テストは廊下で投げた

 夢がありましたんや。将来プロ野球選手になりたいというね。そのために、ある程度野球の強い高校に行かなきゃいかんと。われわれの時代は滝川か育英が兵庫県の名門やったんです。あそこに行っとったら、3年間に1回は甲子園に出られると。だから滝川を受けたんですが、落とされたんです。私、当然通ると思うたんや。中学時代の成績は常に真ん中より上やったから。でも、合格発表で私の番号がないんですよ。子ども心に「よーし、逃がした魚は大きいと言わしたろ」とライバル校の育英に行った。
 育英の第2次試験までに、県立高校の試験がありました。(出身地の兵庫県西脇市にある)西脇高校は進学校やから、例えば中学3年が180人ぐらいいて、少なくとも50番以内に入っとかないと合格しないと言われたんですよ。僕は70番ぐらいやったから無理やと先生が言うとったのに、私、合格したんです。両親が酒屋をしとったから、先生は「鈴木君、そんな遠い育英に行かんでも西脇高校で野球して、家の手伝いもできるやないか。その方がお父さんもお母さんも喜ぶで」って言いはったんです。私としては絶対にプロ野球選手になりたかった。田舎やから、西脇までプロのスカウトは見に来てくれへん。都会の学校は常にマークしてくれるやろと。
 育英の第2次試験の受験票を出した時点で西脇高校の合格がボツになるんです。補欠の子を上げないかんから。育英を受けて合格しなかったら、行くとこなくなるわけです。それで育英へ入部テストで行った。土砂降りの雨の日でね。廊下でピッチングしたんです。先輩キャッチャーが受けて、室内やからパーン、パーンと、ええ音がするわけですよ。育英の監督が「この子、ええな。無条件で取る」って言うてくれはったですよ。

2021年11月、兵庫県西宮市内でインタビューに応じる鈴木啓示さん

 ▽「あれっ、ピッチングって力が要らんな」

 当時は1年生のピッチャーだけで40人ぐらい入った。育英の練習はめちゃくちゃきつうてね。「おまえら新人、これから毎日300球ずつ投げえ」って言われたんですよ。私は中学まで軟式野球で、硬球なんか握ったことないのに。「300球投げたら、どないしたらええんですか」って監督に聞いたら「後は走っとけ」って言われた。走るより投げとる方が楽かなと思うてね、嫌々やけど300球投げとった。そうすると、へばっとるから力抜けて、ええボールが行きよるんです。理にかなった、体に負担のかからないようなフォームになってきて。力んで投げとったら肘、肩とか腰とかに何か負担がかかっとったみたい。ところが200球過ぎて、ちょっとセーブした状態の投げ方をしたら「あれっ、ピッチングって力が要らんな」と思うたんです。うまく体を使うたらボールは行くやないかと。その時に、こつを覚えたんです。ピッチングってタイミングやなと思えた。投げ方の「な」だけでも覚えたかなという感じ。
 40人の投手うち、3年間で残ったんは2人だけ。あとはみんな肘や肩を痛めたとか脚を痛めたとか、野手に転向したとか、やめてしまったとか。私は両親に感謝です。強い体に生んでくれました。耐えられるだけの体力とか、そういうものを生まれながらに備えてもろうとったね。

1969年2月のキャンプで、阪神から近鉄に移籍したバッキー(左)と投球について話し合う鈴木啓示さん=宮崎・延岡

 ▽甲子園大会で敗退の夜、実家で父親に追い返された

 2年の秋に近畿大会で優勝して、1965年の選抜大会出場が決まった。私は大会ナンバーワン投手、1億円左腕と言われたんや。それまでは上尾高校(埼玉)の山崎裕之さん(元西武)とかが高校生で最高の契約金5千万やった。優勝候補筆頭や言われて、初戦で徳島商業にホームランを打たれた。高校生活最初で最後のホームランや。全国放送のテレビの中で1―3で負けた。その時に私が言うたことを後になって記者に聞いたんやけど「甲子園は負けて大きくなるとこや」って、やせ我慢したらしいわ。そんな生意気なこと、ほんまに言うたんやろか。

1984年9月、鈴木啓示さんは南海の主砲、門田博光さんから通算3千奪三振をマーク=大阪

 その晩、実家へ帰ったら、おやじが「何しに帰ってきたんや。うちの敷居をまたぐな。あれだけ期待されとって大恥かいて、ようぬけぬけと帰ってくるな。今から送ってくわ」って。もう電車がないわけや、12時過ぎやから。私を車に乗せて神戸の下宿まで、あの時分、高速道路もないから2時間半ほどかかりよった。おふくろがええフォローしよったな。車の中で泣きながら「けいちゃん、お父さんは憎くてこんなことしてるん違うよ。あんたのために何とか一人前になってもらいたいと、心を鬼にして言うてんねやから、悪うとったらあかんよ」ってね。よーし、おやじ見とれよ、これから一人前になったるわと思うた。

 ▽性格までつかんでくれていた大監督

 私が入った時の近鉄は弱かった。常に下位やったから「おまえら近鉄とちゃう。地下鉄や。初めっから潜りっぱなしやないか」と言われた。(74年に)西本幸雄さんが監督で来られて、勝つチームになっていきましたね。優勝してもおかしくない感覚のチームになったんやないか。
 79年にやっと日本シリーズに出られたが、長い間辛抱したのに、第1戦の先発投手が私ではなかった。誰やて聞いたら、井本隆が「5日ほど前に言われました」というわけや。「何やねんこれ、俺が第1戦いくんちゃうんかい」と思うたんや。私は第2戦やった。あの時、敵は広島打線やない、味方ベンチの西本さんが敵やと思うて投げたもん。やっぱり鈴木やなというところを見せたいなとね。試合で完封し、勝利インタビューで「見たか、おやじ(西本監督のこと)」って言うたんや。公共電波を使うて大人げないこと言うて、今思い出しても寒気がするわ。えらいあほなこと言うたもんやな。西本さんが引退後に言いはった。「スズ、おまえはな、これ(持ち上げるしぐさ)したらあかんねん。どっちか言うたら、かーんとたたいといた方が牙をむきよんねん。その方がおまえはええねん」ってね。私の性格までつかんでくれてはった。さすが大監督や。
 翌年の広島との日本シリーズは私が2勝して近鉄が3勝で王手をかけた。第7戦になり、西本さんに「おいスズ、このシリーズはおまえ中心。シーズン中にしたことないと思うけど、リリーフでいくで。頼むで」って言われてね。それでリリーフで打たれて負けたんや。西本監督は日本シリーズに8回出て、日本一に1回もなってない。近鉄で何とか日本一になってもらいたかった。申し訳なかったな。私は持ち上げられた時は結果が悪い。甲子園で選抜大会に出た時もそうやけど、もてはやされるとあかんねん。

2002年1月、野球殿堂入りが決まって笑顔の鈴木啓示さん(右から2人目)=東京都文京区の野球体育博物館(現野球殿堂博物館)

      ×      ×      ×

 鈴木 啓示氏(すずき・けいし)兵庫・育英高からドラフト2位で1966年に近鉄入団。69、77、78年に最多勝。77年4月に200勝へ到達した。ノーヒットノーラン2度。317勝と3061奪三振は歴代4位。78無四球試合と被本塁打560本はプロ野球記録。85年に引退し、93年から95年シーズン途中まで近鉄監督を務めた。47年9月28日生まれの75歳。兵庫県出身。

© 一般社団法人共同通信社