「横田めぐみさんは北朝鮮で生きている」失踪から19年2カ月後に伝えられた衝撃の情報 母・早紀江さんは聖書手に「魂を和らげ静めた」

「無事でいてほしい」と、行方不明になっている横田めぐみさんの安否を気遣う父親の滋さん(左)と母親の早紀江さん=1997年2月3日、川崎市川崎区

 「行ってきます」。1977年11月15日朝、新潟市に住んでいた中学1年の横田めぐみさんはいつものように明るく自宅を出て、近くの中学に通った。だが13歳だった少女は帰宅することがなく「煙のように消えてしまった」(母早紀江さん)。それから19年2カ月余りたった97年1月末、衝撃的な情報が寄せられた。
 「お嬢さんが北朝鮮に連れて行かれ、生きているという話がある」
 早紀江さんに戦慄が走った。「生きていたんだ」と最初は喜んだが、すぐに「どうやったら連れ戻せるのか」と不安が膨らんだ。新たな苦難に直面した早紀江さんは、聖書を手にして心の支えにした胸の内を明かしてくれた。(聞き手、共同通信編集委員・三井潔)

 ▽天地がひっくり返る驚き

 長く不明のままだった娘の消息を知らされたのは「青天のへきれき」で「天地がひっくり返る驚き」だった。
 国会議員の秘書からお父さん(滋さん=2020年に87歳で死去)に連絡があり、一部の報道機関の取材も受けた。韓国に亡命した北朝鮮工作員の「証言」が発端だったと聞いた。
 「良かった」。一報を耳にした時は心の底から喝采した。しかし安堵は疑念に変わる。「なぜ北朝鮮にいるのだろう」「病気はしていないだろうか」。疑問や懸念が次々と浮かび、顔面神経痛に悩まされた。胸がどきどきして背中がぞくぞくした。「めぐみは海の向こうの国交のない隣国にいるのか」。動転して気持ちが不安定になり、何度も倒れそうになった。

家族旅行で弟たちと一緒に写真に納まる横田めぐみさん。バレエの練習のために、普段でもよくつま先立ちのポーズをしていた=1974年、広島県呉市の音戸の瀬戸公園(あさがおの会提供)

 1988年のソウル五輪前には大韓航空機爆破事件があり、北朝鮮の金賢姫工作員が拘束された。李恩恵とよばれる日本語教育係の存在が判明し、後に教育係は拉致された田口八重子さん=失踪時(22)=と分かった。94年には、北朝鮮の核開発を巡り朝鮮半島が緊迫した事態もあった。
 別世界の閉鎖国家が急に目の前に立ちはだかった。国際的な謀略の渦にのみ込まれた気がした。この時目にした聖書の一節が、動揺する自分に、神の恵みを待つ平安と勇気を与えてもらった。

 「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇(くす)しいことに 私は足を踏み入れません。まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました」(詩篇131章1、2節)

 まさに「及びもつかない大きなこと」「奇しいこと」に巻き込まれた気がした。古代イスラエルの名君ダビデが神に祈る言葉を何度も目で追った。自身の罪深さと限界を自覚する王が、神にすべてを委ねる姿勢に琴線が触れた。

横田めぐみさん手編みのマフラーの感触を確かめる早紀江さん=川崎市

 ▽求められた覚悟

 私たち一家はこの時、「覚悟」を求められた。めぐみの名前を明らかにするかどうかだった。家族の意見は真っ二つに割れた。
 私は反対だった。「もし名前を公表したら(北朝鮮に)消されてしまうかもしれない。それで終わりになる」と主張した。情報が閉ざされた隣国への懸念があったからだ。
 だがお父さんは違った。「匿名だと一時的に話題になるだけですぐに忘れ去られてしまう」「YMさんだけでは信ぴょう性が薄い。危険があるかもしれないが、公開して世論に訴えたほうがいい」。普段は穏やかなのに珍しく強い口調だった。
 めぐみの4歳下で双子の拓也や哲也も大反対だった。「もし殺されたらどうするのか。お姉ちゃんがかわいそうだ。自分の娘を危険にさらすのは父親ではない」
 だが夫の考えは揺るがなかった。「北朝鮮に対して日本がこれだけ情報を持っているとアピールできる」。夜中まで議論し最後は全員が夫の意見に従った。苦渋の判断だった。
 この時期、当時住んでいた川崎から新潟を訪ねる機会があった。かつて住んでいた家は更地になり、ザクロと梅の木、格子戸の門だけが残されていた。既に30歳を超えているめぐみは、日本海の向こうでどう過ごしているのか。胸が締め付けられた。

1975年、横田滋さんが旅行先の山口県萩市で撮影した家族写真。右端が娘のめぐみさん

 ▽韓国で北朝鮮工作員と面会、板門店に立つ

 この年の3月中旬、お父さんと初めて韓国を訪れた。北朝鮮から亡命した工作員安明進氏と面会し、板門店にも足を運んだ。
 安氏は工作員養成機関の行事で88年、紺のスーツに白いブラウスを着て、笑顔で周囲と話していた「めぐみ似」の女性を見たと語った。上官が「新潟で少女の拉致に関与」し、自身も秘密活動に従事したことも語り、涙ぐんだ。政府の拉致認定にもつながる貴重な証言だった。
 「めぐみと早く会いたい」
 再会への思いは募るばかりだった。
 この時期、北朝鮮の朝鮮労働党幹部が、韓国に亡命するというニュースで現地は緊迫していた。ソウルから板門店への道中、多くの戦車や武装兵がいた。恐怖で体が震えた。
 「朝鮮戦争は休戦しているだけだ」。分断国家の現実をまざまざと見せつけられた。板門店に立つと、無表情の北朝鮮兵が目に入った。遠くで北朝鮮のプロパガンダを放送する大音響が聞こえた。
 「めぐみはこの向こうにいるのか」
 38度線を目の前にすると悲しみがこみ上げてきた。「めぐみちゃん」。思わず大きな声で叫んでいた。応答はない。よく覚えていないが、お父さんは泣きじゃくっていたはずだ。「翼があれば飛んで行って助けたい」。娘もきっと「飛んで帰ってきたい」と思っているはずだ。

横田めぐみさんのコートを手にする早紀江さん。1977年11月15日、拉致された日の朝の登校時に早紀江さんが着ていくのを勧めたコートだ=川崎市

 ▽広がった支援の輪

 韓国から帰国後の3月下旬、同じ苦しみを抱える親らが集まり、拉致被害者家族会を結成した。お父さんが代表になり、全国各地で救出を訴える署名や講演、政府への陳情に奔走した。
 家族会の当初のメンバーは、有本恵子さん=失踪時(23)=や蓮池薫さん(65)の両親ら9家族。同じ境遇の人が「なぜこんなにたくさんいるのか」と驚いた。新潟に住む蓮池さんの両親は、雨の日も雪の日も海岸線を夫婦で捜し回ったと明かしてくれた。私は日本地図に針を落とし「針先のどこかにめぐみがいるはず」と涙に暮れた日々を思い浮かべた。
 皆、愛する息子や娘を抱きしめられなくなって久しい。苦しみや悲しみを共有し家族との再会に向け、手を取り合って動き出せたのは「救い」だった。

横田めぐみさんの救出を訴え、自宅マンションの住民たちと署名活動をする両親の滋さんと早紀江さん=2002年11月2日、JR川崎駅前

 「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
 神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は決して揺るがされない」(詩篇62章1、2節)

 再びダビデの言葉を心に刻んだ。息子に裏切られるなど次々と襲いかかる苦難を、神への祈りを欠かさない謙虚さで乗り切る一節だ。心の重荷が下り、勇気づけられた思いだった。
 支援団体「救う会」が各地にでき、新潟時代からのキリスト教仲間も00年、東京で「祈り会」を立ち上げてくれた。
 広がる支援の輪は、私にとって「やぐら」となった。新たな闘いの渦中にあって心の中で繰り返しつぶやいていた。
 「私は決して揺るがされない」

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