【幕末維新 山口れきし散歩】 No.37 「瑠璃光寺五重塔」

▲いくつもの春を数えて(山口市香山町)

 藩政時代、毛利氏によって修復が重ねられてきた瑠璃光寺五重塔も、廃藩後は適切な維持管理がなされておらず損傷が著しくなっていた。

 そこで、この塔を修理するために立ち上がったのが平川要(ひらかわかなめ)であった。

 彼は、1838(天保9)年、大津郡三隅上村(現・長門市)の山本家に生まれ、後に阿武郡生雲村(現・山口市阿東生雲中)の平川家の養子となる。幕末には志士として奔走し、1882(明治15)年、山口県議会議員に選出された。この年、彼は保存事業の発起人となり趣意書を作成。寄付金を募集するが、3年後に志半ばでこの世を去ってしまう。

 その後、その遺志は総代らによって確かな形で継承された。

防長史談会山口支部長 松前了嗣

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