「よし分かった」と稲盛さん。世界的な経営者になっても親族への感謝を忘れない。10年続いた懇親「稲盛会」、最後は100人以上が集まった

稲盛和夫さん

 京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が2022年8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。

■稲盛勝也さん(80)

 10歳上の稲盛和夫さんは“はとこ”に当たる。和夫さんの祖父・七郎さんが私の祖父・市郎の弟。和夫さん一家は空襲で焼け出され、終戦前後は鹿児島市小山田町のわが家で暮らした。

 当時10代前半だった和夫さんは、隣の小屋で家族と寝起きしていた。両親の畩市さん、キミさんの他に子どもも多く、窮屈だったのだろう。七郎さんは裏の崖にあった小さなトンネルの中で寝ていた。食糧事情が悪く、キミさんが着物を売り、米や食料に換えてきてくれた。両家で何でも分け合い、助け合ったそうだ。

 この頃の和夫さんは、相当なやんちゃ坊。乗って遊ぶ「カットイ車」を手作りして、近くの坂道で友だちと競走していた。親が呼んでもなかなか帰ってこなかったと聞いている。

 その和夫さんが大きな会社をつくり、有名な経営者になった。「小山田からこげな立派な人が出た」というのが私たちの誇りだ。

■稲盛たづ子さん(81)

 1987(昭和62)年、小山田の家がもらい火事で焼けた時、既に社長になっていた和夫さんが、わざわざ見舞いに来てくれた。家までの山道は大きな車から降りて、歩いて上って来たと聞いた。

 キミさんと畩市さんは、よくわが家へ遊びに来た。今も庭に祭っている古い石像に手を合わせて「和夫のひらめきは、このおかげかもしれん」と話していた。

 勝也さん 平成の初めごろ、畩市さん、和夫さんと会ったときのこと。畩市さんが「和夫は1人でここまでこられたわけやない。親戚みんなに世話になったことを忘れたらいかん」と言った。和夫さんはその場で「よし分かった」と、親族の集まりを開くと約束した。

 たづ子さん それが92年ごろから10年続いた親族懇親会「稲盛会」。初回は城山観光ホテル(当時)に18人が招待された。足の弱ったしゅうとめを、和夫さんがひょいと抱き上げて椅子に座らせたので、何と優しい人かと思った。2回目からはホテル京セラが会場だった。次第に参加者が増え、最後は全国から100人以上が集まった。交流も余興の準備も楽しかった。相撲取り節のため手作りした化粧まわしは大切にとってある。

 勝也さん 「小山田獅子踊り」を披露した時は、和夫さんも笑顔で舞台に上がってきた。稲盛会は私たち親族の大切な思い出だ。

稲盛和夫さん(右から3人目)が親族を招いた「稲盛会」の一幕。稲盛勝也さん(同2人目)は地元の小山田獅子踊りを披露した=1998年9月、霧島市のホテル京セラ(稲盛勝也さん提供)
「稲盛会」で披露する相撲踊りのため手作りした化粧まわしを持つ稲盛勝也さん、たづ子さん夫妻=鹿児島市小山田町

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