「奇跡の少年」呼ばれるのが嫌だった、重圧と葛藤の12年 東日本大震災、児童74人犠牲の大川小で生還

 地元の若者らと震災伝承などに取り組む任意団体を立ち上げた只野哲也さん(右)=2023年1月、仙台市

 「奇跡の少年」。東日本大震災で児童74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校で、集団避難中に助かった4人の児童のうち、当時5年生だった只野哲也さん(23)に付いた呼び名だ。報道各社が相次いで取り上げ、翌年以降も事あるごとに取材が押しかけた。「奇跡の少年と呼ばれるのが嫌だ」。特別視されることに疲れて取材から距離を置きたいと思ったこともあった。重圧と葛藤の12年を振り返った。(共同通信=安藤和也)

 ▽地域に根差した学校
 石巻市釜谷地区は、震災前には500人ほどが暮らしていたのどかな地域だ。大川小は海から内陸に約3・7キロで、北上川と山に挟まれた小さな集落にあった。川ではシジミが捕れ、学校の裏山ではシイタケ栽培の実習が行われる田舎の風景が広がっていた。運動会は地区の一大イベントで、地区対抗の綱引きは大人も子どもたちと一緒に楽しんだ。地域に根ざした学校だった。

 ▽避難まで50分、目指した先は
 2011年3月11日午後2時46分、東北地方を最大震度7、石巻市は震度6強の揺れが襲った。大川小の全校児童は108人で、只野さんは5年生の教室にいた。体が投げ出されるような強く長い揺れが続き、ようやく収まると、担任の先生の指示で校庭に避難した。すぐさま石巻市に大津波警報が発令され、教員らは対応を話し合った。「山さ逃げよう」と訴える子もいたが、なかなか結論は出ず、児童らは50分近く校庭にとどまり続けた。避難を始めたのは午後3時36分、新北上大橋のたもとにある堤防付近の、通称「三角地帯」を目指すことになった。だが移動を始めた直後の午後3時37分、川をさかのぼり堤防をあふれた津波が児童らをのみこんだ。

 津波で壊滅的な被害を受けた大川小(下)と北上川(左から右上)。手前が「裏山」=2011年3月28日、宮城県石巻市で共同通信社ヘリから 

 列の先頭付近にいた只野さんは、三角地帯につながる県道に出る直前で異変に気付いた。津波そのものは見えなかったが民家が粉砕されている。「ここにいたら死んでしまう」。背後からごう音が迫る中、必死に来た道を引き返した。山に駆け上がった瞬間、背中に強い衝撃を感じて記憶が途切れた。

 ▽不安と恐怖の夜
 気が付くと体は泥に埋まっていた。身動きが取れず、見つけてくれた同級生に助け出された。服はぬれてはだしの状態で、3月の寒さに体が震えた。このままでは凍え死ぬと思って「助けて」と大声で叫んだ。運良く市職員と合流でき、裏山に逃げた地域の人らも合流して、10人以上と山で一晩を過ごした。津波で打ち上げられたお菓子を見つけて分け合い、たき火をして暖をとった。何度も津波の音がする不安と恐怖の夜だった。

 翌朝、山から下りる林道で、大川小ではただ1人生き残った教諭と、小学3年の男の子と出会った。何とかみんなで付近の自動車整備工場にたどりついた後、病院に運ばれた。

 避難開始時に校庭にいた児童は76人。助かったのは4人だけだった。4人が今も見つかっていない。

 ▽初めての取材
 津波はあらゆるものを奪い去った。大川小3年だった妹の未捺さん=当時(9)、母のしろえさん=当時(41)、祖父の弘さん=当時(67)、多くの友だち、当たり前の日常、母校…。挙げればきりがない。気持ちの整理はつかなかった。

 約1週間後、避難先の石巻市河北総合センター・ビッグバンで、新聞記者に話しかけられた。学校で何が起きたのかを見たまま、体験したままを話した。取材って何なのかもよく分からなかったが「聞かれたから答えた」という感覚だった。大川小で助かった児童の証言は貴重で、記事は3月20日、紙面に大きく掲載された。

 ▽殺到する取材
 大川小で生き残った児童がいた―。この記事は世間を騒がせ、只野さんには報道機関の取材依頼が殺到した。学校の校門で「出待ち」されたのは本当に嫌だったが、聞かれたことには答え続けた。報道をきっかけに只野さんは「奇跡の少年」と呼ばれるようになった。

 小学生のころの只野哲也さん=2012年2月、宮城県石巻市

 そして、少しずつ違和感を抱え始めた。多くの同級生が犠牲となった中で、自分が助かったのはたまたまだと思っている。決して特別な人間でも、すごいことを成し遂げたわけでもない。周囲からは「目立ちたがり屋」と言われたこともあった。友だちから悪気なく「てっちゃんは取材が得意だもんね」と言われた時は、すごく傷ついた。それでも取材には応じ続けた。子どもながらに、生き残った人間として「語らなければいけない」という義務感があったからだ。

 ▽「奇跡の少年」演じる自分

 月日がたっても取材はあらゆるタイミングで受けた。3月11日だけでなく、毎月11日の月命日や年越し、卒業式などだ。そんな中、2014年に「大川小が解体される」という話を聞いた。ガラス張りの渡り廊下やホールは壊れたままで、もう見たくないという人もいた。だが、多くのものを失った只野さんは「愛する母校まで失いたくない」と思った。同じく校舎を保存したいとの思いを抱いた卒業生らが集まった「チーム大川」で、仙台や東京、地元で行われた校舎の保存を巡る住民同士の意見交換会で思いを訴えた。

 自分の中で変化に気付いたのもこの頃だ。取材の回数を重ねるうちに受け答えに慣れて、要領を得るようになっていた。多くの記者は自分に「奇跡の少年」「被災者」「遺族」の姿を求めている。必要とされる「答え」が何となく分かるようになっていた。同時にこの変化は、自分自身を苦しめた。亡くなった同級生に手を合わせるため大川小に向かう道中で、「今日は囲み取材にどう答えようか」と考えるようになっていた。「命日って何のため?」

 ▽取材から遠ざかる
 周囲の視線もだんだん気になるようになってきた。あまりにも多くの取材を受けたため、「奇跡の少年」「大川小の只野哲也」「大川小のてっちゃん」は多くの人が知っている。ひょっとしたら周りの通行人も自分のことを知っていて、陰口を言っているかもしれない。そんなことまで考えてしまうようになった。

 3月11日は取材で頭がいっぱいの自分、奇跡の少年像を演じようとしている自分、周囲の視線を気にして生きている自分、全てが嫌になって精神的に追い詰められた。そして地元の大学に進学後の2019年ごろ、全ての取材から遠ざかる決断をした。「取材や、丁寧さに欠ける大人との関わりから解放されたい」との思いが、もう抑えきれなくなっていた。

 只野哲也さん。「奇跡の少年」と呼ばれることに重圧や葛藤を感じ、取材と距離を置いたこともあった=2023年1月、仙台市

 ▽行きたくなかった成人式
 だが、それで全てが解決したわけではなかった。大学についてしっかり調べずに進学してしまい、勉強に追われる日々や自分をだまして通学することに疲れ果てていた。

 2020年には成人式を迎えるが、行っても「マスコミに囲まれるだけ」と冷めていた。結局は行くことにしたものの、気持ちは重かった。ところが震災を生き延びて再会した友人、中学校、高校の友だちは大学や仕事の話をとても楽しそうに話していた。「自分は今を本当に楽しめているだろうか」。友人の姿を見て、大学を中退する決意をした。

 ▽広島訪問
 2021年には大きな気持ちの変化があった。8月、前から行きたいと思っていた広島に足を運んだ。原爆ドームや資料館を見て、被爆者の話を聞くと、大川小での経験と共通点があることに気付いた。戦争と震災の違いはあるが、どちらも救えたかもしれない命を落とした点では「人災」で、自分たちの意識次第で未来を変えることもできるのではないか。自分の中で「大川小とは何か」を客観視することができた。

 同時に、原爆の悲惨さを伝える建物があり、そこでの出来事を伝える人がいてこそ、今日の広島があると強く感じた。大川小の校舎は、地元の子どもたちの思いが住民に届き、震災の記憶や教訓を次世代に残す「震災遺構」として保存することは決まっていた。しかし、津波の爪痕を色濃く残した校舎は、何も手が加えられず雨漏りし、床は剝がれ劣化が進んでいた。「仲間とともにもう一度活動したい」。心が動いた。

 震災遺構として整備された宮城県石巻市の大川小。奥は北上川(ドローンから)=2023年2月

 ▽「未来を拓く」団体設立
 翌年2月、石巻市で、自身が代表を務める任意団体「Team大川 未来を拓くネットワーク」を設立した。「チーム大川」と、大川小校歌のタイトル「未来をひらく」を組み合わせ、大川小を未来の命を救うための場所にしたいとの願いを込めた。メンバーは若者を中心に約15人。今野憲斗さん(23)は大川小の同級生で、地震発生直後に母が迎えに来て帰宅したため助かった。

 佐藤周作さん(25)は大川小出身ではないが、大川地区の子どもらの心のケアや学習支援に取り組んでいた父と一緒に、只野さんと多くの時間を過ごしていた。自分にとってなくてはならない仲間とともに、伝承活動や、南海トラフ巨大地震で津波被害が想定される地域での講演、イベントの企画などあらゆる活動に取り組む。災害による犠牲を減らすことと、災害があっても子どもたちが安心して過ごすことができる場をつくることが目標だ。2023年は伝承活動ではなく、地元以外も含めた地域コミュニティーの在り方について、自分たちが深く学ぶことに比重を置く1年にしたいという。

 只野哲也さん(右)と大川小校舎を訪れた今野憲斗さん=2022年2月、宮城県石巻市

 団体発足を機に、遠ざけていた取材も徐々に応じ始めるようになった。ただし、本気で「大川」と向き合ってくれるかどうか、お互いに納得できる記事や番組を作ることができるかどうか、長期的に関わることができるかどうかなどを慎重に確かめていくつもりだ。

 地元の若者らと震災伝承などに取り組む任意団体を立ち上げた只野哲也さん(右)=2023年1月、仙台市

 ▽人生をかけた夢
 2022年8月、「おかえりプロジェクト」と名付けたイベントを開催した。大川小の中庭に、震災当時の児童数と同じ108の紙灯籠を設置。発光ダイオード(LED)照明で浮かび上がったのは、児童たちがよく集めていた「四つ葉のクローバー」だ。「亡き友や、地元を離れた人たちが安心して帰ることができる場所となるように」と企画した。参加した子どもたちが元気に、楽しそうに駆け回る姿が印象的に見えたという。

 大川小を照らす追悼の紙灯籠を見つめる只野哲也さん(中央)ら=2022年8月、宮城県石巻市

 大川小は震災遺構に指定され、家が立ち並んでいた周辺の地域は災害危険区域となって更地が目立つ。今は子どもたちが走り回る姿もない。だからこそ、只野さんは人生をかけた夢を見つけた。「大川にまたみんなが集まるコミュニティーをつくる」。まだ歩み出したばかりだ。

 高知県黒潮町の町立大方中で講演する只野哲也さん=2022年6月

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