ロシア軍ミサイルの「打ち上げ花火のような音」が未明の静寂破った 侵攻初日、ウクライナにいた記者が1年後に現地を再訪してみると…

ロシアによるウクライナ侵攻開始から1年となり、キーウ近郊ブチャの共同墓地を訪れ、泣き崩れる女性=2023年2月24日(撮影・遠藤弘太、共同)

 ロシアによるミサイル攻撃の重く低い音が夜明け前のウクライナ首都キーウ(キエフ)の静寂を破った昨年2月24日。私はそこにいた。あれから1年。何が起き、今はどうなっているのだろうか。開戦の日に戦場となったキーウの現場を歩き回った。(共同通信=伊東星華)

積み上げられた焼け焦げた車両=2023年2月14日、キーウ近郊ホストメリ(撮影・遠藤弘太、共同)

 ▽あの日
 当時、キーウ中心部のホテルに宿泊していた私は本社からの電話でたたき起こされた。取材メモには「午前4時49分」とある。ロシアが「特別軍事作戦」を始めたと知らされた。テレビをつけたが、前日のニュースばかり。いったい何が起きているのか、寝ぼけた頭で、スマートフォンで情報収集していると、午前5時過ぎからどーんという打ち上げ花火のような低い音が遠くから、断続的に何度も聞こえた。
 同僚は別のホテルに泊まっている。合流するため屋外に出た。がらがらだった早朝の目抜き通りは、あっという間に避難しようとする車でいっぱいになった。道のりは1キロ強。歩いて向かう間にも爆発音が響き、「キーウ中心部も攻撃されるのでは」と恐怖を感じて、スーツケースを引っ張りながら思わず小走りになった。
 夜が明けてからは随所で黒煙が上がるのが見え、空からは軍用機のエンジン音が何度も響いた。比較的安全とみられた西部に向かう幹線道路は車で埋まり、反対車線には逆走の車列さえできていた。

2022年2月24日、ウクライナの首都キーウ市内で立ち上る黒煙(撮影・伊東星華、共同)

 同僚と合流し、共にキーウから退避することを決めて出発した。西部リビウまでの約500キロを車で19時間半。到着した頃は既に日付が変わり、25日午前9時半を回っていた。

キーウから西部に退避する車の列。左側の反対車線には逆走の車列もできた=2022年2月24日(撮影・伊東星華、共同)

 ▽最初の攻撃
 あの未明に何があったのか。あの日から何がどう変わったのか。今年2月、キーウを再訪した。この目で確かめたかった。
 キーウ東郊約20キロのブロワリにある軍事施設を訪れた。侵攻初日に真っ先に攻撃を受けたという。ウクライナ軍の後方支援を担う拠点として、現在も施設への立ち入りは許可されなかったが、約200メートル離れたゲートからでも被害の様子がうかがえた。

キーウ、ブロワリ、ホストメリの位置

 4階建ての建物2棟の屋根がなくなり、別の1棟は最上階の中央部分がえぐられ無残な姿になっていた。ゲートで警備していた兵士によると、宿舎と管理棟だという。損壊した様子を撮影しようと思ったが、破壊されたものでも戦時の軍事施設は機密度が高く、軍発行の記者証を提示しても許可は下りなかった。
 施設の周囲の通りはコンクリートブロックや鉄製の障害物が今も置かれている。ロシア軍の侵入に備え、いつでも検問所を設置できるようにするためだ。

キーウ東郊約20キロのブロワリにある軍事施設周辺の道路脇には障害物などが残されていた=2023年2月19日(撮影・鷺沢伊織、共同)

 大型トラックや乗用車が行き交う大通りの近くには未使用の火炎瓶十数本が残されており、戦争中なのだと実感した。
 施設の2キロ先に住むウィクトリア・クリクンさん(60)と夫は2月24日の午前4時半ごろ、3回の「大きな爆発音」で目が覚めた。自宅の窓からは立ち上る赤い炎や黒煙、車で逃げる近所の人々の姿が見えたが、戦争ではなく、ガス爆発事故だと思ったという。
 しばらくして病院で緊急対応していた看護師の親戚から、兵士6人の遺体が運ばれたと知らされ「戦争が始まった」と実感したと語る。

キーウ東郊約20キロのブロワリにある軍事施設周辺を散歩するウィクトリア・クリクンさん(左)と夫=2023年2月19日(撮影・鷺沢伊織、共同)

 ▽「許せない」
 ロシアは侵攻初日、キーウ郊外だけでも複数の地点を空爆した。ウクライナ軍基地があったキーウ北郊約30キロのホストメリ空港もその一つで、早朝に激しい攻撃を受けた。
 空港近くのアパートに住むナターシャ・アントニュクさん(47)は午前6時半前、ミサイルによる大きな爆発音が基地から聞こえたという。戦争が始まったと気づき、車で一時避難した。自宅の窓やドア、アパートの屋根が爆発の衝撃で壊れ、別の場所で経営していた食料品店も全壊した。
 別のアパートに住むマザイさん(50)は、爆発音で起こされ、道路に避難しようとする人が大勢いるのを見てパニックになったという。

破壊された集合住宅の前にたたずむエンジニアのマザイさん=2023年2月14日、キーウ近郊ホストメリ(撮影・遠藤弘太、共同)

 バルコニーからは、ロシア軍がヘリコプターからライフル銃を撃つのが見え「まるで映画のようだった」と振り返る。近くのアパートがミサイルで攻撃されたのを見て、地下シェルターに逃げ込んだ。
 気温0度前後の日が続くが、ホストメリのアントニュクさんの自宅には電気や暖房などのライフラインが戻っていない。炊飯はガス供給が再開している近隣の台所を借り、服を重ね着して寒さをしのいでいる。「プーチンを許せない。ここで起きたことを忘れることはない」と怒りをぶちまけた。

キーウ近郊にあるホストメリ空港近くの破壊された集合住宅=2023年2月14日(撮影・遠藤弘太、共同)

 ▽警戒は続く
 1年ぶりに戻った首都にはウクライナ各地からの避難者が集まる。一方で、街中は休日を子どもと過ごす家族連れが見られ、カフェやレストランも営業を再開している。昨年10月以降、ロシアによる電力施設への攻撃を受けて中心部でも停電が頻繁に発生したが、今年2月中旬からは世界遺産となっているキーウ中心部の大聖堂や修道院の夜間ライトアップが復旧した。

ライトアップされ、暗がりに浮かび上がるキーウにある聖ソフィア大聖堂=2023年2月20日(撮影・遠藤弘太、共同)

 しかし街の雰囲気はどことなく暗い。ミサイルや無人機(ドローン)の飛来を知らせる空襲警報が時折けたたましく鳴り響き、市民らはそのたびに地下鉄駅や地下シェルターに身を寄せる。

2023年2月23日、空襲警報が出されたキーウで、スマートフォンで情報収集したり足早に地下へ向かったりする人たち(撮影・伊東星華、共同)

 戒厳令は解除されておらず、午後11時~午前5時までは外出禁止になっている。午後9時にもなれば出歩く人はまばらだ。侵攻前は日の入り後に実施していた目抜き通りの百貨店や市役所の夜間ライトアップは取りやめになっている。
 やや高台になった場所にある大統領府の周辺の道路には検問所が設けられており、周囲には有刺鉄線も張り巡らされている。関係者以外は、立ち入りはおろか、撮影もできない厳重な警戒だ。立ち止まっていただけで警備の兵士に声をかけられ、カメラやスマートフォンで撮影した写真を見せるよう求められた。

キーウ中心部の独立広場=2023年2月19日(撮影・遠藤弘太、共同)

 やはり中心部にある聖ソフィア大聖堂前の銅像には空襲から守るための覆い物と高さ数メートルの柵が設けられている。聖ミハイル黄金ドーム修道院前の広場には前線から運んできた、破壊されてぼろぼろになったロシア軍の戦車が並び、見学しに来た人の撮影スポットと化していた。

キーウ中心部の広場に置かれたロシア軍の戦車=2023年2月19日(撮影・遠藤弘太、共同)
ロシア軍の軍用車両や戦車が展示されているキーウ中心部の広場。週末になると大勢の人たちが見物に訪れる=2023年2月23日(撮影・遠藤弘太、共同)
キーウ中心部にある聖ソフィア大聖堂前に立つ銅像。ロシアの空襲から保護するため覆い隠され囲いが取り付けられた=2023年2月20日(撮影・伊東星華、共同)

 そして迎えたあの日から1年後の2・24。予期されていたロシアの大規模攻撃は行われなかったが、愛する人を亡くし、悼み、泣く声が各地で聞こえた。

キーウ中心部の広場を訪れた女性。「1年前の恐怖を思い出すと泣いてしまう」と涙を拭った=2023年2月24日(撮影・鷺沢伊織、共同)
ロシアによるウクライナ侵攻から1年となり、キーウ近郊ブチャの共同墓地を訪れ涙を流す遺族ら=2023年2月24日(撮影・遠藤弘太、共同)
聖ミハイル黄金ドーム修道院の外壁に掲示されている、犠牲となったウクライナ兵士らの写真=2023年2月24日、キーウ(撮影・鷺沢伊織、共同)

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