『エッソウルトラフロースープラ(2002年)』名機“3S”の最後を有終の美で飾ったスープラ【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、2002年の全日本GT選手権を戦った『エッソウルトラフロースープラ』です。

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 1994年、全日本GT選手権(JGTC)が本格的に幕を開けたこの年より参戦をスタートしたJZA80型のトヨタ・スープラ。このスープラの心臓部には、1994年にエントリーしていた一部のプライベーター車両を除いて一貫して、2.0リッター直列4気筒ターボエンジンの3S-GTが収められていた。

 この“3S”搭載時代は2002年まで、およそ9シーズンにもおよぶ長きに渡って続いたのだが、その間にスープラは3度のタイトルを手にしている。1度目は1997年のカストロール・トムス・スープラ、2度目は2001年のauセルモスープラ、そして3度目、3S搭載時代のフィナーレとなった2002年に王座に輝いたのが、今回紹介するチームルマンの走らせた脇阪寿一、飯田章組のエッソウルトラフロースープラだった。

 このエッソを含む2002年型のスープラは、基本的に2001年型の細部を煮詰め開発され、特にリヤの足まわりレイアウトに変更が加えられたモデルとして誕生した。

 2002年1月30日に、まずTRDの開発車両を用いてシェイクダウンテストが行われたのだが、ここでマシンが跳ねてしまう問題が発生。跳ねについては比較的ホイールベースの短いスープラでは毎年発生していたことでもあったのだが、チームルマンではこれを変更されたリヤの足まわりが原因だと分析した。

 これに対応すべくダンパーのレイアウトを変更したものの、2002年の開幕戦が行われるTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)を舞台にした事前テストでは、この変更がTIの路面とマッチせず、跳ねの状況が悪化してしまった。

 開幕戦に向けて可能な範囲での調整は施したものの、対策はやはり十分ではなく、予選13位、決勝でも10位フィニッシュという結果に終わった。この惨敗を受けて、富士スピードウェイで開催された第2戦に向けて、リヤのサスペンションアーム類をすべて変更。それが功を奏して予選ではポールポジションを獲得することに成功した。

 決勝ではペナルティなどもあり一時順位を大きく落としたものの、最終的には2位でチェッカーフラッグを受け、開幕戦での大不振から脱したのだった。続く第3戦のスポーツランドSUGOラウンドでは、リヤのロワアームやアップライトにさらなる改良を施して挑んだ。予選こそ6番手というポジションだったものの、決勝では着実に順位を上げていき、トップでチェッカー。見事シーズン初勝利を飾った。

 その後、マレーシアのセパンサーキットで開催された第4戦では、さらにリヤの足まわりのモディファイを進めるも大苦戦。決勝で2度のタイヤバーストに見舞われてノーポイントに終わったものの、再度リヤサスペンションを改良して臨んだ第5戦の富士では、70kgのウエイトハンデを搭載しながらも7位入賞を果たした。

 さらに改良を重ねながらツインリンクもてぎが舞台の第6戦、MINEサーキットで開催された第7戦と連続で4位に入賞し、ランキングトップという好位置で最終戦へと望むことになった。

 最終戦の舞台となったのは、鈴鹿サーキット。ここでエッソはポールポジションを幸先よく獲得し、貴重な1ポイントを得ることに成功する。決勝ではトップ3が1秒以内にひしめくバトルを繰り広げなから、3位でフィニッシュ。1ポイント差ながらシリーズチャンピオンを手にした。

 翌2003年になるとJGTCの車両規定が大きく変更され、スープラはもっとも規定上有利と判断した大排気量NAエンジンへと換装し、再びの王座獲得に向けて、歩みを進めていくのだった。

こちらはノンタイトル戦だが、2002年の鈴鹿1000km(インターナショナルポッカ1000km)で優勝した脇阪寿一、飯田章、脇阪薫一組のエッソウルトラフロースープラ。
2002年の全日本GT選手権最終戦鈴鹿サーキットで3位表彰台を獲得したエッソウルトラフロースープラ

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