高さ約12メートルの建物の屋上を乗り越え、濁流が目の前に迫る―。東日本大震災の津波が、宮城県南三陸町の防災対策庁舎を襲う写真。町職員を含む43人が犠牲となった。写真はそこにいた職員が撮影したものだ。庁舎は骨組みだけを残し「震災遺構」として同じ場所に立つ。発生から12年。訪れた人々はどういう思いを抱えているのか。1枚の写真を手に、初めて遺構の周りを歩いた。当時中学生で震災を直接知らない私に、多くの人が大切な思いを伝えてくれた。(共同通信=安本夏望)
▽夫が生きた証し
遺構は志津川湾からほど近い復興祈念公園にぽつりとたたずむ。ひしゃげた鉄骨が津波の威力を静かに物語っていた。周りを囲むように8メートルほどかさ上げされた土地に商店街が立つが、様子はここからうかがえない。「庁舎だけを見ろ」と言われているようだった。
1月の月命日、小野寺喜美子さん(69)は祈りをささげていた。あの日、南三陸消防署の副署長だった夫の庄一郎さんは災害対応のため庁舎へ。避難した屋上で津波にのまれた。約1週間後、安置所で対面した夫は「立派な表情をしていた」。現実とは思えず、言葉が出なかったという。
自宅のある隣町から毎月通い、手を合わせた。月日を重ねるうちに、心が少しずつ落ち着くようになった。遺構は夫が「生きた証し」として大切な場所だ。「1カ月の始まりは11日」といい、「しょうちゃん、また来っからね」とほほ笑んだ。遺構をゆっくりと見上げる姿に、亡き人を思う気持ちがにじみ出ていた。
▽「どん底に落ちる」ような寂しさ
「海が怖い」。公園の丘で、町を見つめていた佐々木美香さん(63)がつぶやいた。夫と両親を含む家族5人を津波で亡くした。十三回忌の法要を終え、高台から初めて故郷を眺めると、かつての記憶がよみがえった。
役場の脇にあった庁舎を見ると町職員だった夫を思い出し、駅の跡地には家族との記憶が残る。「もう視界に入れなくていい」と口にした。
震災後、海から離れようと内陸部に移り住んだ。現在は家族や友人らと穏やかに過ごす。それでも夕暮れ時、「どん底に落ちる」ような寂しさに襲われる。いつまでも残る傷の深さを垣間見た。
▽「自分の古里に置き換えて」
震災の象徴でもある防災対策庁舎は、保存を巡り町民の意見が二分、結論が先送りにされたまま「震災遺構」として残った。
近くのかさ上げ地にある商店街で写真店を営む佐藤信一さん(57)は、震災前からこの「海と山に囲まれた美しい古里」を写真に収めてきた。そしてあの日、巨大な波が庁舎に押し寄せる瞬間もレンズ越しに見た。
「悪い夢なら覚めてくれ」。そう願ったが、愛する古里は一変した。津波の恐ろしさを写真と言葉で伝える。庁舎が現存することで「真意が伝わる」と語る。「自分の古里に置き換えて、考えてほしい」
遺構の周りを歩いた後、取材ノートを見返すと、この場所で出会った人たちが伝えてくれた実直な思いが連なる。一つ一つを何度も読み返すと、地元の家族や友人の顔が浮かんだ。