津波から命からがら逃げ延びた少女はいま 「釜石の出来事」から12年、笑顔で語り部を続ける理由

「あそこに私の中学校がありました」。スタジアムのバックスタンド(奥)を示す川崎さん

 東日本大震災で発生した津波に多くの命がのみ込まれていく中、地域の伝承にならって高台を目指し、難を逃れた子どもたちがいた。後に「釜石の出来事」と呼ばれる。舞台となった岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町には、当時の中学生の案内で避難路を追体験できるプログラムがある。

 追体験プログラムの出発地は、釜石鵜住居復興スタジアム。2019年のラグビーW杯の会場となった施設だ。津波で全壊した釜石東中の跡地に建設された。敷地内の広々とした駐車場にはもともと、同じく全壊した鵜住居小があった。

 「私が通っていた中学校はバックスタンドの辺りにありました」。出迎えてくれたのは、震災伝承と防災学習の拠点「いのちをつなぐ未来館」スタッフの川崎杏樹さん。鵜住居町で生まれ育ち、震災発生時は釜石東中の2年生だった。 大学進学でいったん離れたものの「被災した古里の役に立ちたい」と、卒業後にUターン。2020年から避難追体験プログラムの「語り部」を担当している。

 川崎さんに導かれ、さっそく徒歩で高台を目指した。同町は12年前、高さ11メートルの津波に襲われた。町民の6割近い580人が死亡。家屋の7割が被災した。川崎さんの家族は全員無事に避難できたが、知人が犠牲になっている。

 あの日、約600人の小中学生が無事だったのは「津波を想定した避難訓練を年1、2回続けてきた成果」だと川崎さんは言う。三陸地方は明治以降、東日本大震災までに10回の津波に襲われてきた。「津波常襲地」とも呼ばれる。その地域で語り継がれている言葉は「津波てんでんこ」。津波が来たら、てんでんばらばらになっても逃げなさい―という意味の方言だ。

 川崎さんは震災発生時、体育館でバスケットボールの練習中だった。ジャージー姿で外へ飛び出したものの立っていられず、地面にしがみつくように伏して揺れが止まるのを待った。全生徒が校庭に集まり、避難先に指定されている高齢者施設(海抜4メートル)までの800メートルを小走りで移動。当初は校舎の屋上へ避難していた鵜住居小の児童も中学生にならって高台を目指した。

 だが、避難した先も安全ではなかった。「あそこを見てください」。川崎さんは岩肌がむき出しになった崖を指した。震災時、大きな岩が崩れる落ちるのを目の当たりにした。「ここにいたら死んでしまうよ」。居合わせた大人の叫び声に突き動かされ、みんなでさらなる高台を目指した。直後、背後で大きな地鳴りのような音が響く。津波がすさまじい速度で迫ってくるのが見えた。

 「家がバキバキと音を立てて壊れ、のみ込まれていった」と川崎さん。津波は黒く、下水が混じったような異臭がしたという。「死ぬかもしれない」。差し迫る死に直面した子どもたちは、まさに、てんでばらばらになって急坂を駆け上がった。小学生のきょうだいの手を引いて逃げる同級生もいた。

 地震の発生から約30分。川崎さんたちは別の高齢者施設(海抜15メートル)を経て、さらに先の峠(同44メートル)にいた。復興スタジアムから約1・6キロ離れた場所。津波が寄せては返す光景を繰り返し見た。最初に避難した高齢者施設は1階部分が冠水したことを後に知る。とどまっていたら、命はなかっただろう。「生死を分けたのは、誰もが地震の後に津波が来ることを理解していたから。迷わず高台を目指し、さらにその先にも向かえた」。きっぱりと言い切った。

 つらい体験のはずなのに、川崎さんのガイドは最後まで快活な声で続いた。笑顔を絶やさない理由を尋ねると、「やっぱり、気になっちゃいましたか」とばつが悪そうに片目をつぶった。「あの日を振り返るのはつらいです。けど、体験を聞いてくれる子どもたちには落ち込んで帰ってほしくない。避難の大切さを知ってもらうことが何より重要だから」

 これまでガイドした子どもたちから届いた感想文が、心を強く支えてくれるという。「逃げるのが尊いことが分かった」「家族に話した」。津波の体験を風化させないため、あえて笑顔の語り部を続ける。

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