復興進む町で、一様ではない被災者の思い 東日本大震災12年 26歳の熊日記者が肌で感じた〝被災地の今〟

津波にのまれ、赤い骨組みだけが残った宮城県南三陸町の防災対策庁舎。12年前の「あの日」、最後まで住民に避難を呼びかけ続けた当時24歳の女性町職員を含む43人が犠牲になった場所だ=2月上旬

 東日本大震災から12年を迎える宮城県南三陸町を今年2月、全国の地方紙の若手記者と共に、熊本日日新聞社の東誉晃[たかあき]記者(26)が訪れた。整備が続く新しい景色の町で被災者の話を聞き、4月で7年となる熊本地震の復興とも重ねた。「ハード面の復興が進んでも、被災者の心の復興は、これほど人それぞれに違うのか」。震災発生時は中学2年生だった東記者が、肌で感じた〝被災地の今〟をリポートする。

車窓から見た仙台市の沿岸部に立つ津波避難タワー=2月上旬、宮城県
仙台空港のターミナルビル1階の柱には、津波が到達した高さを示す線があった=2月上旬、宮城県名取市

 ■町並みに立つ避難タワー

 2月7日昼、飛行機で仙台空港に到着した。テレビで見た、波にのまれる滑走路の光景がかすかに脳裏によみがえった。

 空港ターミナルビル1階では、津波が到達した「高さ3・02メートル」を示す線や、いざという時、高台への避難を促す看板が目に留まった。災害の教訓を「次」につなごうという現地の人々の思いを実感した。

 2月8日午前8時過ぎ。河北新報社(仙台市)が手配してくれた車で仙台市中心部を出発した。30分ほどで海寄りの地区に入ると、新しい住宅や商業施設が立つ町並みに交じって、6~10メートルの鉄骨製の津波避難タワーが複数立っていた。

 各タワーには毛布や非常食などを備蓄して津波に備えている。こうしたタワーや津波避難ビルは、東北地方だけでなく、南海トラフ巨大地震などに備えて全国で整備が進んでいる。

 沿岸部には約6メートルの盛り土をして堤防機能を持たせた「東部復興道路」が延びていた。防潮堤や高速道路の「仙台東部道路」などと併せた多重防御によって、津波の威力を軽減する仕組みだ。

 ただ、この防御でも宮城県が想定する最大クラスの津波が来た場合は地盤沈下などと相まって、沿岸の一部は高さ10メートル以上浸水するという。河北新報社がウェブ上で無料公開している浸水想定マップを見ながら「やはり高台避難だけではなく早めに内陸部へと逃げるべきだ」と強く感じた。

公園として整備されたかつての南三陸町中心部。商店街(右奥)などがある土地は約10メートルかさ上げされている=2月上旬、宮城県
かさ上げされた高台から眺めたかつての南三陸町の中心部。町役場跡地などは公園になり、沿岸部には堤防が建設されている=2月上旬、宮城県

 ■公園の真っ赤な骨組み

 宮城県北東部の南三陸町に入った。地震の約40分後に最大23・9メートルの津波が押し寄せ、建物の約6割が全半壊。人口1万7千人ほどの町で、死者・行方不明者は831人に上った。

 カキやワカメなど水産資源豊かな志津川湾に面し、海抜数メートルの低地に住宅街や役場、病院などが集まっていたという。そのほとんどが津波で流されたため、復興政策に従って町部を高台に移転。海や川沿いには8メートルを超える堤防が連なり、かつての町中心部は人が住まない公園になっていた。

 公園内に立つ真っ赤な骨組みがむき出しとなった建物が目を引いた。かつての南三陸町防災対策庁舎だ。「大津波が予想されますので、急いで高台へ避難してください」。自身が津波にのまれるまで住民に避難を呼びかけ続けた当時24歳の女性職員を含む43人が犠牲になった場所。解体を望む遺族の声もあるため、震災遺構として保存するかどうか議論は途中で、震災後20年を迎える2031年3月10日まで宮城県が管理することが決まっている。

高野会館の前で当時の状況を説明する佐々木真さん=2月上旬、宮城県南三陸町(撮影・河北新報社)
高野会館の前で当時の状況を説明する佐々木真さん=2月上旬、宮城県南三陸町(撮影・河北新報社)
津波が直撃した高野会館。左上には津波が到達した高さを示す看板が設置されている=2月上旬、宮城県南三陸町

 ■津波は何度も押し寄せた

 海岸から約200メートルの平地に立つ震災遺構の旧冠婚葬祭場「高野会館」へと移動した。高齢者多数を含む300人強が屋上などに避難。15メートル以上の津波が屋上近くまで押し寄せたが寸前で難を逃れて助かった。

 「恐怖はなく、夢や映画を見ているようだった」

 当時、高齢者の避難誘導に当たった元南三陸町社会福祉協議会職員の佐々木真[しん]さん(51)が、あの日の記憶を語ってくれた。

 「層が厚く、高さのある波が一気に来るんです。がれきが混ざった濁流で…。バキバキと音を立て、ガス臭かった」。迫り来る波は16波を数え、「屋上まできたら」と死を覚悟した時間もあったという。

 隣接する病院からベッドに乗ったまま流されてくる患者や、縄で体をくくり付けた電柱ごと波にさらわれた人…。届かないと分かっていながら必死で手を伸ばし、泣きながら見送るしかなかった佐々木さんだった。寒さの中、みんなで身を寄せ合って一晩をすごした。

 町はハード面の復興が進み、自身も生活再建を果たした。それでも、亡くなった同級生のことを思うと苦しく、被災によって膨らんだ金銭的負担が頭をよぎることもあり、心は晴れないという。「なんかすっきりしない。死ぬまでもやもや感を抱えたままかもしれない」

若手記者たちの取材に、東日本大震災からの12年を振り返る大沼ほのかさん=2月上旬、宮城県南三陸町(撮影・河北新報社)

 ■「カフェ開業したい」と笑顔で

 震災当時、中学入学目前だった大沼ほのかさん(24)にも話を聞けた。南三陸町の沿岸部・歌津[うたつ]地区にあった自宅が津波で流され、被災者の受け入れに積極的だった北海道江別市に2年間避難。その後、地元に戻ってきた。

 高校を卒業後、宮城県農業大学校在学中に研修した南三陸町の内陸部にある入谷[いりや]地区の風景や生活が、津波で失った歌津地区と重なった。「好きだった時間を取り戻したい」。震災から8年後の2019年に新規就農して、モモやクリを育てている。

 大沼さんが取材を受けるようになったのはここ1、2年のことだ。「前は何でも震災に結び付けられるのがいやだった。でも、語ることが自分の心の整理にもつながると思った」と心境の変化を明かした。

 22年からは農業体験も受け入れ、地域振興にも精力的に取り組む。「震災は切っても切れないが、震災だけ知ってどんより帰ってもらうのは悲しい」「乗り越えて頑張っている人がいて、楽しいことがあることも知ってもらいたい」。自身が入谷地区での生活に癒やされたように、「素の自分に戻れる」農園直営のカフェを開業することが夢だと、最後は笑顔で語ってくれた。 ■東北での取材を終えて

 初めて訪れた東北だった。津波の威力を物語る構造物の前では足がすくみ、犠牲となった人の姿を想像して胸が締め付けられた。心の復興のスピードが一様ではないことを実感し、ひと言では表せないそれぞれの現在地を可能な限り伝えたいと思った。

 熊本地震関連の取材で2022年3月、熊本県益城町の木山仮設団地で知り合った女性(72)に連絡を取ってみた。東日本大震災の5年後に起きた熊本地震からも7年が経過しようとしている。仮設団地は3月末で閉鎖される。

 取材当時、女性は夫と2人で仮設住宅で暮らしていた。退去後の住まいが決まらず思い悩んでいたが、22年11月に同じ益城町内に中古の一戸建てを購入し、娘家族も交えて、にぎやかな8人暮らしをやっとスタートできたという。

 週に1度、新しい地域で体操や脳トレをする集まりに出かけているそうだ。「仮設にいた頃は心配ごとばかりだったが、今は自分の時間を楽しむ余裕がある」と明るく話した。

 女性に、記者である私に対する要望を聞いてみた。女性は「ちょっと困った、悩んだ時に話を聞いてくれる存在であってほしい。必ずしも答えを求めているわけではないが、それだけで救われることがある」と話してくれた。被災者や読者から近い存在であり続けること。目には見えないその「ちょっと」が、災害報道で書くべきことを示してくれるかもしれない。 ■「記者講座@南三陸」

 読者との双方型報道に取り組む全国の地方紙などでつくる「JODパートナーシップ」では、2011年の東日本大震災から10年の21年から、震災報道の協働企画「#311jp」に取り組んでいる。今回、河北新報社の「震災報道若手記者プロジェクトチーム」の協力で、被災記憶の伝承や取材経験の蓄積などを目的に「記者講座@南三陸」を開催。2月7~9日の3日間のプログラムで、18社から集まった20代、30代の若手記者26人が宮城県南三陸町を訪ねて被災者を取材、感じたことをお互いに発表するなど交流もした。

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