「3.11震災」で父を亡くしたJリーガー、アスルクラロ沼津MF菅井拓也の決意とは。

2011年3月11日午後2時46分、最大震度7の巨大な地震が東日本を襲った。

この東日本大震災で、当時大学生だったアスルクラロ沼津MF菅井拓也は宮城県内で被災し、尊敬する父を津波で亡くした。大震災の被災を経て、Jリーガーとして奮闘する菅井の姿に迫った。

(取材日:2023年1月4日)

震災から約1週間後、父との「再会」

菅井は小学1年から四郎丸スポーツサッカー少年団でサッカーを始めた。その後、団員が多い袋原スポーツサッカー少年団へと移ってサッカーに励んだ。四郎丸小卒業後はベガルタ仙台ジュニアユース、聖和学園高校を経て東北の強豪仙台大へと入学。当時は教員を目指しながら大学サッカーに打ち込んでいた。

――仙台大サッカー部に入部してレベルの高い環境でプレーしていました。

「そうですね。高校と違って身体的な強さ、ゲームのスピード感や強度も違いました。最初はBチームに所属しましたけど、夏前にAチームに上がりました。全国大会で何かできる実感はありませんでした」

――入部してからプロサッカー選手を意識し始めた?

「大学ではプロチームとの練習試合も多くて、頑張れば(プロに)行けるんじゃないかなと思って。自分が思っているより近い存在だと感じました。大学2年のときはセンターバックとセンターフォワード以外のポジションを経験しました。サイドバックが多かったかな。自分は(一つのポジションで)スペシャリストになれないので、ポジションにこだわらないでやっていました」

現在は本職のボランチ以外にCBも器用にこなすなど、沼津で見せるユーティリティ性は仙台大で築かれた。プロも意識しながらサッカーに打ち込む中、大学1年の19歳の冬にあの震災を経験した。

――3.11が発生した時はどこでどう過ごされていたのでしょうか。

「あのときは部活が終わって部室にいました。地震には慣れているつもりでしたけど、想像を超えてくる揺れがあって、部室から出て『逃げなきゃ』と思いました。みんなでグラウンドにしゃがんでうずくまって…。グラウンドの照明もしなっていて、折れてくるんじゃないかと思いました」

――壮絶でしたね…。その後は自宅へ帰れたのでしょうか。

「電車で通学していたので帰れませんでした。帰れたのは次の日ですね。部室で帰れない選手たちと一晩泊まって、(暖房については)ベンチコートもあったので。お母さんとはその日のうちに連絡ができて、無事を確認できました。朝に(双子の)弟と、チームメイトの3人で自転車を使って帰りました」

――仙台大がある船岡(※柴田郡柴田町)から仙台市だと20㎞は優に超えますね。

「4時間くらいかかったのかな。道中で用水路や田んぼを見たらガレキがここまできているんだと思いました。大学近くのコンビニはガラスも割れていて、会計も電卓でしていたぐらいでしたから」

――お母さまとは帰宅後に再会しましたが、お父さまはまだ安否が分からなかったと。

「お母さんが11日に連絡を取って、お父さんから『現場の仕事を終えて、いまからすぐに家に帰るよ』と言っていたみたいです。僕も状況をよく理解できていなかったので、お母さんに『すぐ帰ってくるんじゃない?』と軽く言ってしまった。それをいまでも後悔しています。そんな軽い話ではなかったので、(いまでも)記憶に残っていますね」

水道設備の仕事をしていた父・勝己さん(享年47歳)は、地震による津波によって帰らぬ人になった。この巨大な自然災害は災害関連死を含めて死者1万9759人、行方不明者2553人と甚大な被害を出した。まだ19歳だった菅井は、愛する家族を失う壮絶な経験をした。

――お父さまと再会したのはいつごろでしたか。

「約1週間後だったと思います。お母さんが情報を得るために遺体安置所まで動き回っていました。(利府町にあった遺体安置所で再会した際は)ショックでしたし、約1週間帰って来なかったので、予想はできていましたけど…。急だったので、僕も何がおきたか分からなかったし、最後に何を話したかも覚えていません。僕も部活があって、父も仕事があったので、会う機会も減ってきていました。もう少し話していれば良かったと思います」

――お父さまとの印象深い思い出はありましたか。

「元々どちらかといえば無口な父親だったので、背中で見せるタイプでした。言葉よりも姿勢で見せていたと思います。小学校のときの話で、父は野球をやっていて、サッカーを全くやったことがなかったですけど、シュートは枠に打てとよく言われていましたね。『枠に打たないと入らないし、枠だよ』と言われていたことがとても印象に残っています。なので、小さいころは試合に来てほしくなかった(苦笑)。今でも記憶に残っていますね」

――大黒柱のお父さまが亡くなったことで経済的に苦労なされたのでは。

「サッカーをやめなきゃいけないのかなと思っていました。だけど、お母さんが僕ら(双子の弟・慎也さん)にサッカーをやめる選択肢を与えなかったからサッカーを続けることができました。お母さんは頑張って働いてくれました。遠征費も用具代も、二人分の生活費もかかって、お母さんが働いてやりたいことをやらせてくれた。すごく感謝しています。ほとんどの試合を応援に来てくれました。今でも沼津に一人で来ますし、頑張らないといけないと思っています」

震災後、サッカーに打ち込んだ菅井。献身的なプレーで常勝の仙台大を支えるも、全国大会では目立った結果を出すことができなかった。卒業も迫り、プロチームから声はかからなかった。JFLヴァンラーレ八戸入団後は2015年にベストイレブンに選出されるなど、アマチュアトップリーグを代表する選手となった。

――大学進学後は当時JFLだったヴァンラーレ八戸に入団しました。

「大学卒業後は行くところがなくて、進路が決まっていないときに他大学の監督から話が行って、八戸から声がかかりました。当時は東北にゆかりがある選手も多く、同じ東北の人間というのもあると思いますけど、拾ってくれた八戸のために頑張ろうと思いました」

――当時は仕事をしながらサッカーをしていたのでしょうか。

「午前中に練習して、午後はコールセンターの仕事をしていました。慣れるまで時間がかかりました。ただ僕らのレベルや環境を考えたら、それが当たり前だと思ってやっていました」

「挑戦」「責任」「安定」という3つの選択肢。選んだのは…

――八戸で3シーズン過ごされた後、J3のアスルクラロ沼津へ移籍しました。移籍のきっかけを教えてください。

「(八戸で過ごした)最後の年の夏ぐらいに先輩から『出て行ったほうがいい』と言われて移籍を考えるようになりました。出て行ったほうがいいというのは『拓也がこの先八戸にいても、来シーズンも何もなければ試合に出られるだろう。ただ拓也の向上心やサッカーに対する姿勢を考えたら、一度よそのチームに行って、ゼロからスタートしたほうが選手として成長するんじゃないか。八戸に残ることがいい、悪いではなく、サッカー選手として考えたらそっちの方がいいんじゃないか』と言われました。それがきっかけで移籍を考えるようになりました」

――そして沼津からオファーが来たと。

「2年目にJFL選抜に入らせてもらって、(選抜チーム内に)沼津の選手がいました。沼津が(Jリーグへ)上がるときに自分から『どうですか?』と聞いたこともあって、すぐオファーを出して頂けました。同時にソニー仙台(JFL)からもオファーを頂いて、(八戸に所属していた)弟はソニーへ行きました。ただ八戸に残ることも考えました。八戸では当時キャプテンをさせてもらっていて、八戸を(Jリーグに)上げなきゃと思っていました。だけど自分のサッカー人生でチャレンジしたい気持ちもありましたので、沼津へ移籍しました」

――かなり葛藤されたのですね。

「Jリーガーに憧れていたというよりも、上のカテゴリーでやってみたいというのが大きかったです。上のカテゴリーで上手くなりたい、成長したいという思いが強かったです。姉と相談して『沼津は挑戦、八戸は責任、ソニー仙台は安定』とその3つを言われて、自分で整理してチャレンジしました」

――決意を持って移籍されたんですね。

「移籍するにあたって八戸が良い成績を残したときに残れば良かったとか、沼津で出られなかったり、沼津の成績が悪くなってしまえば、よそのほうが良く見えてしまう。だからこの決断、移籍を成功に結びつけられるように頑張りたいと思っていました。(結果的に)すぐ試合に出られたので良かったと思っています」

――沼津へ移籍して良かったことは。

「Jリーガーとしての姿をお母さんに見せられたことは良かったと思います。Jリーガーは限られた人しかなれない。特別な場所とよく言われるので、そういう姿を見せられて良かったなと思います」

Jリーガーとなった菅井(※18番のキャプテン)。プロサッカー選手として自身の被災体験を多くの人に話すようになった。自然災害による被害者をより少なくするために、自身ができることを全力で伝え続けている。

――改めて復興した地元宮城の様子を見て思うことはありますか。

「(復興は)まだまだだと思いますけど、震災のつめ跡を残しつつ、風化させないようにどんどんきれいになっています。ちょっとずつですけど、元より良くなっていると思います。今の時代に必要とされているものをつめ跡を残しつつ、風化させないことが一つの大事な部分だと思います。(震災を)風化させないと感じますし、新しい商業施設や公園でもそういった部分を感じます」

――今後Jリーガーの立場としてご自身の経験を多くの方々にどのように伝えていきますか。

「Jリーガーの立場なので発言しないといけないと思いますし、伝えないといけないと思います。チームでも防災イベントに参加させてもらっています。静岡でも地震があると言われているので、防災意識は非常に高まってきています。僕のつたない経験を話す機会を設けてもらって、話させてもらっています。なかなか震災を経験した人の話を聞く機会はないと思うので、できることは限られていますけど、できることをやっていきたいと思っています」

――万が一の震災に対してやるべきことはありますか。

「備える部分は大事だと思います。(震災)当時は車がないと情報を集められなかったので、ガソリンが大事になってきます。朝早く母と僕とでガソリンをもらいに並んだこともあるので、(ガソリンが)半分になったら入れています。そういうちょっとずつですけど、水や食料だけじゃなく、知識も備えることが大事になってきます。(地震が発生したら)すぐに動けないので、いくら知識があっても(すぐに)動けません。ただ蓄えることはできますので、そこが大事だと思います」

――菅井選手にとって3.11はどのような思いで過ごされていますか。

「震災当時は大学できつい走りがあったときに、お父さんが上から見ていて恥ずかしくないように頑張らないといけないと思いながら走っていました。サッカーができる当たり前が、当たり前ではないです。当たり前にサッカーができる環境と、100%打ち込める体に感謝して日々やるだけだと思います。人なので浮き沈みはあると思いますけど、毎年3.11がくる度に思い返します。もう一回心の整理じゃないですけど、立ち返って頑張れる、頑張らないといけないと思わせてくれる日、出来事だと思っています」

あの震災から12年—。震災で傷ついた青年は、沼津の地でJリーガーとして多くの人に夢や希望を与える存在となった。昨季は主将を務めただけに、今季にかける思いは人一倍強かった。

――今季にかける思いを教えてください。

「昨シーズンは照明問題があって順位関係なくJ3ライセンスがはく奪されるという前代未聞の事態が起きるかもしれないという状況の中にありました。クラウドファンディングや、いろいろ方々から協力して頂かないとライセンスをもらえない状況でした。そういった部分で結果を出さないといけないと思っていました。クラブも選手も覚悟を持って挑んだシーズンでしたけど、成績からいえば思ったような成績を残せませんでした。みなさんが期待してクラブに支援して頂いた中だったので、非常に申し訳なく思っています。取らせて頂いたJリーグライセンスがありますので、2023シーズンはみなさんの期待と思いに応えていきたいです」

――沼津では7シーズン目になります。

「もしかしたら3.11の前後にホーム開幕戦の試合があると思います(※2023年1月4日取材時点)。僕の同級生に家が流されたり、被災した友達もいます。J3でもいまも働きながら頑張っている地元(宮城)の選手がいて、(彼らに)刺激を与えられる存在になれればいいなと思います。頑張っている姿を見て自分も頑張らなきゃなとちょっとでも思ってくれればいいです。7シーズン目になりますけど、家族も応援してくれますし、試合に出て少しでも活躍できる姿を1試合でも多く、ワンプレーでも多く見せられるように頑張りたいです」

――亡きお父さまも試合を観られていると思います。

「上で見てくれていると思いますし、サッカー選手としても、恥ずかしくない人間になりたいと思います」

――新監督に中山雅史さんが就任されます。

「ゴンさんが監督なのでいい方向にチームが向かっていけるきっかけができています。選手がどう変わっていくかだと思うので、ギラついて頑張りたいです。僕は選手で4シーズンぐらい(ゴンさんと)一緒にやっています。ただ指導者のゴンさんは知らないので、どういうことを伝えてサッカーをしてくか、今は分かりません(※2023年1月4日取材時点)。ただ中山雅史という素晴らしい人間は変わらないので、ゴンさんのために頑張りたいと思っています。最初のチームでいい成績で少しでも多く勝たせたいと思っています。みなさんも期待していますし、選手が頑張っている姿をどんどん見せていきたいです」

――今季のチーム目標を教えてください。

「まず今季は目の前の試合に一つでも全力で準備して、クラブや選手だけでなく応援している方々とみんなで勝ちたいですね。沼津はサッカーの不毛の土地と呼ばれることがあります。中部、西部はサッカーが盛んで、静岡県の中ではサッカーがあまり根付いていないです。J2は中部、西部が盛り上がっていますので、J3も負けじと東部地域で頑張っていきたいです」

――最後に個人の目標を教えてください。

「試合に出るだけではなくて活躍したいですね。その先に結果はついてくると思うので、数字も意識してやっていきたいです。よく考えすぎんなよと言われるので、一人で考えすぎず楽しくやっていきたいです」

最愛の家族を亡くす経験をしたが、諦めず前を向き続けてきた。震災を乗り越えたJリーガー菅井拓也は、多くのものをサポーターに届けてきた。

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アスルクラロ沼津は3月12日(日)に今季ホーム開幕を迎え、カターレ富山と対戦する。節目の日の翌日に支え続けた人たち、サポーターに勝利と笑顔を届けてみせる。

菅井拓也

1991年8月2日生まれ(31歳)
アスルクラロ沼津所属

2023 明治安田生命J3リーグ 第2節

アスルクラロ沼津 vs カターレ富山(愛鷹広域公園多目的競技場)

2023年3月12日(日)14時キックオフ!

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