「本山家文書」目録公開へ 江戸期の長崎「町乙名」の史料群2例目 近世都市研究の進展に寄与

「本山家文書」の史料の一部(長崎市長崎学研究所提供)

 江戸時代の長崎で各町の行政を担った地役人「町乙名」のうち、本石灰町で18世紀半ばから幕末まで代々務めた一族に関する史料群「本山家文書」について、計約1600点に上る史料の目録が3月末公開される。目録は史料の研究活用に不可欠だが、同文書の全貌が把握できる目録はこれまでなかった。史料群を分散して収蔵している東京と長崎市の研究機関、長崎大などの専門家が、2021年度から目録作成の共同研究を進めていた。

本石灰町にあった乙名屋敷(橋本医院)とされる写真

 江戸期の長崎80カ町のうち、町乙名の大規模な史料群が確認されているのは「桶屋町藤家文書」と本山家文書の2例だけ。同文書の内訳は「踏み絵」に使われた江戸期の住民台帳「宗門人別改帳」などの帳簿類、明治期の政治家・板垣退助の書状や古写真など多岐にわたる。目録完成により、近世長崎都市研究の新たな進展が期待される。

「本山家文書」の古写真のうち、板垣退助とみられる男性(古写真はいずれも東京大史料編纂所古写真プロジェクト提供)

 町乙名は、長崎奉行の下で町ごとに1人が置かれ、町政をはじめ貿易、警備など都市運営の実務を担当した。本山家は17世紀半ばに唐津生まれの初代が長崎に定着。18世紀半ばに4代当主が初めて本石灰町の町乙名に就いた。本石灰町は江戸後期には700人ほどの町民が住み、比較的大きな町だった。
 同文書は現在、東京大史料編纂(へんさん)所(東京)が約1450点、長崎歴史文化博物館(長崎市)が約100点、同市長崎学研究所が約80点をそれぞれ収蔵。共同研究には長崎大(同)の木村直樹教授、長崎外国語大(同)の藤本健太郎講師と、収蔵している各機関の研究者が参加していた。

テニスラケットを持った女性

 現存する史料は本山家が戦前に長崎を離れた際、長崎に残る一族の下に移され、その後家財整理のため一部が手放された。2000年代に古書市場に史料が出現し始め、まとまった史料群として認識されるようになった。07年には一族が保管してきた約千点が同編纂所に寄託された。
 内訳では、19世紀前半の「宗門人別改帳」や、町内の人の流出入を記録した「人別送り状」が現存。ほかに土地台帳に当たる「検地帳」、本石灰町に課された唐船関係の仕事などの行政史料もある。古写真は幕末、明治期に写真家、上野彦馬の写真館で撮られた本山家関係者の肖像など約100枚。板垣退助は本山家と縁戚関係だった。

大浦慶とみられる女性

 木村教授によると、近世長崎の都市研究はこれまで桶屋町藤家文書の分析が中心だったが、職人が多く住んだ桶屋町に対し、本石灰町は遊郭のある丸山町に隣接した繁華街で特徴が異なる。木村教授は「今までは桶屋町の動向が長崎の町の動向とイコールだったが、本山家文書が加わることで、本当の姿がより具体的に見えるはず」と話す。
 長崎市長崎学研究所が3月末発行する紀要「長崎学」第7号で本山家文書を特集し、木村教授の論文や目録、古写真コレクションなどを公開する。東京、長崎の同文書は今後デジタル化し、一括して検索、閲覧できるようにすることを目指す。


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