奥田民生プロデュース!PUFFYのカジュアルさはアマチュアのアバウトさと同じではない  大貫亜美と吉村由美だから伝わった “ゆるさ”

90年代、独特の存在感で輝いていたPUFFY

1990年代の音楽シーンは、テレビドラマとのタイアップによるメガヒットや、スタープロデューサーによるヒット曲の量産など、どこかシステマティックに産業化されていった時代という印象がある。

そんな時代に、独特の存在感を感じさせながら輝いていたのが “PUFFY” だった。

もともとはソニーのオーディションに合格して歌手、タレントとしてのデビューに向けて別々に準備活動をしていた大貫亜美と吉村由美が出逢って意気投合してユニットとして活動することになり、1995年にPUFFYが結成されたという。

当時は小室哲哉プロデュースによる一連のダンスミュージック、長戸大幸を中心としたチームプロダクトによる “ビーイング系” と呼ばれる一連のヒット曲がチャートを賑わすなど、ヒット曲を量産する “プロデューサー” に注目が集まっていた。

PUFFYのデビューに際してもプロデューサーが立てられた。それがユニコーンを解散してソロ活動をスタートさせていた奥田民生だった。

奥田民生はPUFFYを一過性の話題で終わらせるのではなく、長く活動できるグループとなることを意識してプロデュースしたという。しかし、1996年5月にPUFFYのデビュー曲としてリリースされた「アジアの純真」は十分話題性には事欠かない作品となっていた。

井上陽水ワールド全開の異色曲「アジアの純真」

PUFFYがデビューした1996年は、華原朋美の「I'm proud」、Mr.Childrenの「名もなき詩」、ウルフルズの「バンザイ~好きでよかった~」、玉置浩二の「田園」、松田聖子の「あなたに逢いたくて~Missing You~」など、さまざまなヒット曲が生まれているが、それらに比べても「アジアの純真」は異色の曲だったのだ。

奥田民生が手掛けたメロディ、そしてアレンジは軽快なロックテイストにあふれていて、聴いていると「プリーズ・プリーズ・ミー」などの初期ビートルズのポップなエネルギーあふれるサウンドに通じるインパクトと魅力が感じられる。

そのサウンドに乗せて歌われるのがまさに “井上陽水ワールド全開” と言うべき歌詞だ。もともと井上陽水の歌詞には、読んでも意味がわからず煙に巻かれてしまうようなシュールなものが少なくない。しかし、言葉としての意味はわからないのに、聴いているとなぜか違和感はない。それどころか不思議な言葉のイメージに心がゆすぶられたりもするのだ。

そんな陽水ワールドのマジックは「アジアの純真」にも遺憾なく発揮されている。たとえば、「北京、ベルリン~」と続く歌い出し。世界の地名などの名詞が羅列されていくだけなのだけれど、ちょっと韻を踏んでいるために、サウンドと一体となってリズミックで開放的なイメージが醸し出されていく効果をあげている。

悪く言えば歌詞全体につながりのない、“ただの言葉遊び” にも思える。しかし、これらの言葉から出てくるイメージはどれもキッチュな可愛らしさがあって思わず口ずさみたくなる。しかも、最後まで聴くとこのシュールな歌詞にもちゃんとメッセージがあることがわかる。それが最後の “今 アクセス ラブ” に集約されている。このフレーズがあることで、歌詞全体が “愛でつながっていこう” というメッセージであることが見えてくるのだ。

こうして考えてみると「アジアの純真」は表現するためにはかなり難易度の高い曲なのに、PUFFYはそれをなにも考えていないかのようにあっけらかんと歌ってしまっている。しかし、この歌い方だからこそ「アジアの純真」は聴き手にポジティブなメッセージをダイレクトに届けることが出来ているのだと思う。たぶん、他の技巧を凝らした歌い方ではこの曲のメッセージは、これほどリアルには伝わらないだろうと思う。

“脱力系” と言われたPUFFY自然体の存在感

「アジアの純真」のデビューヒットに続いて、PUFFYは「これが私の生きる道」(1996年)、「サーキットの娘」「渚にまつわるエトセトラ」(1997年)とリリースする曲を連続してチャート1位に送りこんだ。

これらの曲はどれも、PUFFYの二人の飾らないキャラクターもあって、親しみやすい楽しさを強く印象付けてくれたし、その個性はメガヒットが次々と生まれていった時代のなかでも異彩を放つものだった。

僕自身も感じていたことだけれど、PUFFYの存在感は、いわゆる小室系をはじめとするダンス系ともバンド系とも違っていたし、渋谷系などのサブカルシーンとも違う、けれどそのどこにでも行けるような自在さを感じさせるものだった。

見ようによってはプロっぽくない自然体の二人は、やる気があるのかないのかもわからない “脱力系” と言われたりもしたが、このよそ行き感のなさが、リスナーにとっては自分たちにきわめて近い存在と感じられるポイントでもあり、他のアーティストたちとは一味違う彼女たちの存在感に親しみを覚えた人も少なくなかったと思う。

しかし、PUFFYから伝わるカジュアルさはけっしてアマチュアのアバウトさと同じレベルのものではなく、彼女達が音楽シーンにおける独自の立ち位置と個性を示すために獲得した表現スタイルとでもいうものだったのだろうと思う。

例えば、一見ぶっきらぼうにただ歌っているだけとも感じられるその歌唱スタイルも、プロデューサー奥田民生の指導であえてノンビブラートのストレートな歌い方でトレーニングしているとも聞く。そして楽曲に関しては、この歌い方でなければ伝わらないニュアンスが確実にあるのだ。

これはPUFFYに限ったことではないけれど、よく言われる “上手い歌” というのが必ずしも曲の “想いを伝える歌” だとは限らないと感じることがよくある。

音程が正確であること、声量があること、音域が広いことなどは、良い歌を歌うために使える要素ではあるけれど、けっしてそれが即ちいい歌の表現ではない。音程が不安定だったり声量があまりなかったりしても、個性的な歌唱によって聴き手を感動させる歌い手は確実にいる。

そういう歌手の “伝わる歌” を聴くと、上手そうに歌うことと、曲の “魂” を伝えることは違うことなのだと思い知らされることも多い。

PUFFYの歌唱スタイルは「アジアの純真」をはじめとする楽曲の “想い” を、まさにあるべき形で伝えてくれるものだった。

少しうがった言い方をすれば、この唱法によってPUFFYは、バブル崩壊に始まり阪神淡路大震災、オウム真理教事件などの社会不安を抱えていた1990年代中期という時代に、他のアーティストとは違う距離感でリスナーに寄り添ってポジティブな元気をくれる特別な存在となっていたという印象がある。

もしPUFFYの歌唱スタイルが違うものだったら、それはもうPUFFYではないし、彼女たちの一連のヒット曲が四半世紀を越えてこれほど人々の心に残るものにはなっていなかったのではないかとも思う。

PUFFYが一過性のタレントにならなかった理由とは?

そして、もうひとつ注目しておきたいのが、彼女たちは、その自然体をその後も維持し続けているということだ。

奥田民生はPUFFYを一過性のタレントにはしないという方針でプロデュースしたという。けれど、それは彼女たちの楽曲が話題になることを嫌うということではない。そうではなく、一過性のブームが過ぎた後でも、しっかりとアーティストとしての活動を続けていけるようにする―― ということだったと思う。

実際、その後も別のイメージチェンジをすることもなく活動を続け、国内だけでなく、アメリカや海外でもファンを獲得し、さまざまなアーティストとのコラボレーションも展開するなど、マイペースでクオリティの高い活動を続けている。

そうしたPUFFYの軌跡は、一見シロウトっぽく見えたり、やる気がなさそうに映ったりする彼女たちのスタイルが個性そのものであり、それがインターナショナルレベルで受け入れられた…… いやその表現スタイルこそが国境や時間を越えていくしなやかな活動を可能とする武器になっていたということを示しているという気がする。

カタリベ: 前田祥丈

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