【日本三大悪女】北条政子・日野富子・淀殿が「悪女」と呼ばれたのはなぜか?

世界三大悪女でよく挙げられるのが、西太后、マリー・アントワネット、クレオパトラですが、日本三大悪女は誰でしょうか? さまざまな疑惑がある源頼朝の北条政子(ほうじょうまさこ)、応仁の乱を引き起こしたとされる日野富子(ひのとみこ)、豊臣家を滅ぼしたといわれる淀殿(よどどの)です。今回は、3人が「悪女」と呼ばれるようになった理由に迫ります。

源頼朝と北条政子の像

一夫多妻が当たり前だった時代に夫の浮気を許さなかった「北条政子」(鎌倉時代)

鎌倉幕府の象徴「鶴岡八幡宮」

鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻として知られる北条政子。昨年度の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、小池栄子さんが北条政子を演じて、注目を集めました。さて、そんな北条政子はどんな人生を送ってきたのでしょうか?

現在の静岡県伊豆市の豪族「北条時政(ほうじょうときまさ)」の娘として生まれた政子は頼朝と結婚。それから、頼朝が鎌倉殿になるまで、政子の実家が最も貢献したといっても過言ではありません。それに政子も協力していました。現在では考えられないかもしれませんが、当時は夫が妻の実家の力や財力を使うのは、当たり前のことだったのです。

その一方で、政子は嫉妬深く気性が荒いことでも知られていました。2代鎌倉殿である頼家を妊娠中に、頼朝が亀の前(かめのまえ)という愛人のもとへ通っているとわかると、亀の前の邸宅を破壊したそうです。それだけでなく、亀の前を匿っていた頼朝の秘書を遠江国(おとうみのくに)に流罪にしたとか。政子は夫に愛人がいることが許せなかったのです。

また、頼朝の子どもは、正妻・北条政子との子ども以外、愛人の大進局(だいしんのつぼね)の子「貞暁(じょうぎょう)」ひとりでした。この貞暁は仏門に入り、妻も子どももいません。それは夫が愛人を作ることを許さなかった政子のせいだといわれています。

悪女に仕立て上げられた!? 応仁の乱の一因を作った「日野富子」(室町時代)

足利義政によって造営された「銀閣寺」

1440年、足利将軍家と密接な関係だった公家の日野家に生まれた日野富子は、16歳で足利義政(あしかがよしまさ)の正室になります。結婚してから4年後、待望の懐妊。しかし、第一子は死産もしくは産後すぐに亡くなってしまいました。その後、長い間、子どもに恵まれず、義政の弟「義視(よしみ)」を後継にすることに。ところが、その翌年に富子は第二子「義尚(よしひさ)」を生みました。

富子は義尚を将軍にするため、山名宗全(やまなそうぜん)と結託し、義視と後見人・細川勝元(ほそかわかつもと)と対立。これが応仁の乱の一因に。そして、この乱は10年以上も続き、京都が焼け野原になってしまいました。

その間、富子は高利貸し、米の投機のほか、京の出入口に関所を新設して関税を取り、私腹を肥やしていました。富子が稼いだお金は現在の金額に換算すると60〜70億だといわれています。また、この乱により、義政と富子の仲は冷え切り、義政が義尚に将軍の座を譲ると、2人は別居します。

ところが、将軍になった義尚は、富子を疎うようになり、政務を顧みず、酒色に溺れて、25歳で急逝。すぐに義政も死去します。悲しみに暮れた富子でしたが、義視と富子の妹の子ども「義材(よしき)」を次の将軍にしようと画策。見事、義材を将軍にすることに成功したものの、なんと義材も富子と対立します。

そこで富子は細川政元(ほそかわまさもと)や伊勢貞宗(いせさだむね)と共謀して、義材の出征中に明応の政変を起こします。その後、義政の甥「義澄(よしずみ)」が将軍になりましたが、1496年に富子が死去。室町幕府は衰退の一途をたどりました。

とはいえ、銀閣寺を建設するなど、芸術と文化に夢中だった夫の義政が政務を疎かにした分、富子がその役割を果たしたとも考えられています。さらに、富子が貯めた莫大な資金の使い道ははっきりとわかっていませんが、火災で焼けた朝廷の御所の修復にあてるなどしていたそうです。

波瀾万丈な人生を歩んだ、大坂城のおんな城主「淀殿(茶々)」(安土桃山時代)

淀殿が女城主だった大阪城

淀殿(茶々)は「戦国一の美女」といわれる織田信長の妹「お市の方」と、北近江の戦国大名「浅井長政(あざいながまさ)」の間に生まれた三姉妹の長女です。生まれてから、小谷の城で生活していましたが、父と叔父(織田信長)が対立。長政は、戦に敗れて自害します。その後、お市の方が柴田勝家と再婚して、北の庄へ引っ越します。ところが、柴田勝家が秀吉に討たれ、妹たちとともに、豊臣家に引き取られることに。

淀殿が20歳を超えた頃、豊臣秀吉の側室のひとりになります。ほどなく身籠もり、1589年に第一子「鶴松(つるまつ)」を出産しますが、大坂城に移った後、鶴松は3歳で残念ながら急逝します。ですが、第二子「秀頼(ひでより)」を授かったことで、淀殿の地位は盤石となり、名実ともに大坂城のおんな城主になりました。子どもがいなかった秀吉の正室「北政所(きたのまんどころ)」よりも、強い権力を持っていたのです。

また、秀吉死後の大阪の陣では、徳川家康が淀殿を人質に差し出すように秀頼にいいます。そうすれば、一大名としての豊臣家の存続が約束されていたのです。ところが淀殿はこの申し出を拒否。籠城して戦ったものの、秀頼とともに自刃して、豊臣家は滅びます。

前述の2つの出来事から、「淀殿=悪女」という説が出てきたようです。

日本三大悪女の共通点は?

日本三大悪女の共通点は、いずれもその当時、最も目立つポジション(将軍の正室など)にいた女性で、時代に翻弄されたということ。世間の注目を集める存在だったからこそ、それぞれが持つネガティブな面が強調され、悪女と呼ばれるようになったのかもしれませんね。

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