戦地ウクライナの最大外国人部隊に元ヤクザ 戦う理由は「恩返し」と「筋通す」、その背景にあるものは

前線のジョージア部隊の小隊(ジョージア部隊提供・共同)

 ウクライナの首都キーウ(キエフ)で、呼び出された番地に行くと背の高い雑居ビルがあった。迷彩服をまとった男たちが大型ワゴン車から大量のペットボトルの飲料水や缶詰を運び出している。ここでいいのだろうかとじろじろ見ていると、自動小銃を携えた男が聞き慣れない言語で怒鳴り付けてくる。自分のことを説明した。「マムカに会いに来たんだ。約束がある」
 男は英語を解さないようだが、マムカという名前に反応した。駆け寄ってきた仲間と相談後、こっちに来いとビルの中に手招きされた。建物に近づくと、とても企業や商店が入居しているように見えない。ロビーには雑然と段ボールやごみ、小石が転がり、小銃を手にした男たちが遠慮のない視線を浴びせてくる。
 ビルの奥に入ると、昼間なのに真っ暗だ。電気をつけていない。先導する男に従って、おそるおそる暗闇の階段を上った。たどり着いたフロアも暗い。目をこらすとベッドが並び、複数の男が腰かけている。部屋を抜けると、明るい小部屋に出た。
 「日本のジャーナリストか。ようこそジョージア部隊へ」(敬称略、共同通信=角田隆一)

ジョージア部隊の徽章(共同)

 ▽少年は軍人を志した
 黒いあごひげを豊かに蓄えた男はマムカ・マムラシュビリ、44歳。部隊の司令官だと名乗った。
 ウクライナ軍には複数の外国人部隊が参加するが、ジョージア(グルジア)部隊は最大の部隊として知られる。ここが詰め所だ。
 簡素な部屋にはベッドと執務机、応接セットがある。壁には無数のピンを刺したウクライナの地図。展開する部隊を指しているのだろうか。開封された加工食品やブドウなど果物が机に無造作に置いてある。ソファのそばには真新しい自動小銃が立てかけてあった。

ジョージア部隊司令官のマムラシュビリの執務室=2月12日、ウクライナ首都キーウ(共同)

 大男数人に囲まれ、やや緊張する。「ジョージアは日本では美しい国として知られている。相撲力士も有名だ」と語りかけた。それまでひと言も発しなかった案内役の1人が大笑いして握手を求めてきた。
 ジョージアは黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方に位置する、ロシアの南隣の国だ。宗教、言語、民族が入り交じる地域で、古くからキリスト教国として栄え、独自の言語と文字、文化を育んできた。だが19世紀以降、ロシア帝国、そしてソ連に支配され、1991年に独立を回復。日本では大相撲史上初の欧州出身の関取、黒海や元大関の栃ノ心の出身地として知られる。

ウクライナとジョージアの位置関係

 マムラシュビリになぜジョージア人がウクライナで戦うのかと聞いた。「ジョージアは独立後、何回もロシアと戦争してきた。私自身も14歳の時に軍人だった父とともにロシア軍の捕虜になった」。1990年代以降、ロシアを後ろ盾とする領内の南オセチア、アブハジア自治共和国の分離独立勢力と衝突を繰り返してきた。1992年の紛争で捕虜になり、3カ月間拘束された。解放されたマムカ少年は軍人を志した。

ジョージア部隊司令官のマムラシュビリ(それぞれ右)と父。1993年と2017年の写真(ジョージア部隊提供・共同)

 「私は過去30年間、ロシアと戦っている。ジョージアはソ連崩壊後、ロシアに侵略された初めての国だ。だから(侵攻前後に)ウクライナで起きたことを正確に理解できる」
 ジョージア国防省の政治顧問をしていた2014年、ウクライナ東部で親ロシア派との紛争が始まると、有志とともに駆け付け、外国人部隊として正式に契約を結んだ。「1990年代の紛争時、ウクライナから義勇兵が来てくれた。われわれにとって、とても象徴的なことだった」。その恩返しの意味もあるという。
 ジョージア部隊は2023年2月時点で約1800人。スカッドと呼ばれる、技能が高い12~20人が所属する小隊が約30あり、各地のウクライナ軍旅団に組み込まれている。威力偵察や強襲など危険な任務を担う。マムラシュビリ自身もスカッドを率いる。「ウクライナ中を走り回っているよ。昨日の深夜、(東部ドネツク州の激戦地)バフムトから帰ってきたばかりだ」。残りは歩兵部隊として後方支援などにあたる。
 「基本的に軍経験者だけ採用する。ロシアと戦うのがわれわれの最も重要な原則だ」。従軍経験がない志願者は他の外国人部隊に紹介するという。「ロシアは世界中で問題を起こしているテロ国家だ。日本だってロシアに占領されているだろう」

部下に指示を出すジョージア部隊司令官のマムラシュビリ=2月12日、ウクライナの首都キーウ(共同)

 ▽アジア系の顔をした人物「自分は…」
 ジョージア部隊は7割がジョージア人で、残りは33カ国の出身者からなる。米国のほか、英国、ドイツなど欧州、オーストラリア、日本などアジア太平洋地域からも参加者がいる。
 日本からは現在、3人が所属する。マムラシュビリは「日本人は2014年以降、合計10人以上が参加している。日本人の特徴は勇敢で規律があることだ」と話す。これまで部隊に所属した日本人に戦死者はおらず、現在、前線のスカッドに2人所属しているという。
 この建物に入るときに、アジア系の顔立ちをした人物を見た。「日本人ですか」と思わず声をかけた。「ええ、そうです」。男性は硬い表情で言った。メディアの取材は苦手だろうか。マムラシュビリに取材の仲介を頼んだ。無線で呼ばれた日本人男性はハル(仮名)と名乗った。「自衛隊出身ですか」と聞いた。「自分はヤクザをやっていたんです」

ジョージア部隊に所属するハル(仮名)=2月12日、ウクライナ首都キーウ(共同)

 少年時代は荒れていたという。16歳の時、誘われて暴力団に入った。以来、組を転々とした。最後は大阪の暴力団に所属。宗教団体に爆発物を仕掛け、爆発物取締罰則違反の罪で10年間服役した。服役前、組を離れた。「10年刑務所にいて、人格が変わりました。しゃばに出てからも昔の知り合いが気づかなかったほどです」
 服役後、四国で林業作業員として約2年間働いた。作業中、足に大けがをして自動車関連の会社に職を得た直後、ロシア軍がウクライナに侵攻した。
 「未来のことを考えたらロシアが勝つことは許されないと思いました。他の義勇兵と同じ動機です。微力でも、こんな自分の経験でも生かせたらと思ったんです」。世話になった社長や親しい友人だけに打ち明けた。昨年4月、ウクライナの隣国ポーランドを経由し、ウクライナに向かった。英語は「まったくダメ」、初めての海外だった。

 ▽猛攻受けても残留の道を
 ジョージア部隊に所属する前は、ウクライナ軍直属の外国人特殊部隊にいた。西部リビウの義勇兵の受付事務所では軍の経験がないことを理由に入隊を渋られた。「知り合った英国人兵士らが推してくれたんです。(背中の)入れ墨を見せてやれと言われ、事務所で見せたら『気合があるな』と入隊を許されました」
 中部ジトーミルで2カ月ほど訓練し、前線に投入された。同僚とは翻訳アプリでコミュニケーションを取り合った。
 昨年8月、東部ルガンスク州の要衝セベロドネツクの近隣リシチャンスクに偵察部隊の一員として派遣された。「ロシア軍に手痛い歓迎を受けました。感覚がまひして、塹壕の中で笑うしかないほどの砲撃でした」。執拗な砲撃で、3班30人ほどいた外国人部隊では少なくとも4人が死亡。苛烈な攻撃におじけづき、多くの隊員が帰国。隊は解散となった。
 それでも残った理由を聞いた。「まだ戦争が続いているのに、帰るのは筋が違うと思いました。親しくしてくれた米国人も亡くなりました。かたきを討つまで残らないと」。隊の解散後は、ウクライナ人の友人宅に居候した。以前誘ってくれたジョージア人のつてをたどり、昨年11月にジョージア部隊に移籍した。

ジョージア部隊に参加する兵士の出身国の旗(ジョージア部隊提供・共同)

 今は前線に赴くために、1日6時間ほど市街戦の身のこなしなど訓練を続ける日々だ。「ジョージア人は士気が高い。以前の隊と違って力を抜くことをしない」。現在は訓練中のため無給で、預金の取り崩しや支援者からの寄付で生活している。
 筆者は前線近くの砲声を聞いただけで足がすくんだ。取材しても全く集中できない。前線に赴くのは怖くないのだろうか。「死んだら死んだとき。もともと犯罪をしていたので、(戦争で)役に立てなかった方が怖いです」
 戦争は終わりが見えない。いつ帰るのだろうか。「ずっといる予定です。勝つまでいたい」。戦争が終わった後の予定はないという。
 去り際、マムラシュビリは「ハルさんには経験がないが、度胸はある。とても期待している」と話した。
 マムラシュビリとは、ジョージアについても少し雑談した。カフカス地方のワイン造りの歴史は古い。冷蔵庫を開いた彼は「塹壕で部隊の兵士が醸造した自家製のワインだ」と2リットルのジュースのペットボトルに詰めた白赤のワイン2本を受け取るように促した。
 「私は格闘家だから飲まないが、君の仲間たちと飲んでくれ。ジョージアのワインは最高だぞ」。事務所で振る舞われた赤ワインは素朴だが、確かにうまかった。

ジョージア部隊が塹壕で作った自家製ワイン=2月12日、ウクライナ首都キーウ(共同)

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