子どもの頃に憧れたジャイアンツ、それを上回った地元愛。元中日の岩瀬仁紀さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(17)

2018年9月、史上初の1千試合登板と407セーブを記録し、声援に応える岩瀬仁紀さん。同年限りで引退した=ナゴヤドーム

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第17回は1002試合登板と407セーブの歴代1位記録を誇る岩瀬仁紀さん。高校から大学、社会人、プロと長い球歴を全て出身地、愛知のチームで過ごした名リリーフ左腕は「フランチャイズプレーヤー」の名にふさわしい。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽立ちはだかった大学リーグ安打記録の壁

 自分は愛知大へピッチャーで入ったつもりだったが、当時の監督に「野手だったら1年生から使ってやる」と言われた。やっぱり試合に出たかったんで、じゃあバッターで、野手でやっていきますと。打撃がいいのは監督は分かっていたみたい。僕が出ていた(愛知・西尾東高時代の)試合のテレビ中継で解説をしたらしい。投手への未練はそんなになかった。試合に出られる方の喜びが大きかった。(バットが)金属から木製に変わりましたけど、最初の頃は怖いもの知らず、知らぬが仏って言うか。とにかく打者で成功しようと思い、プロもバッターで目指していた。
 愛知大はちょうど投手が足りなかった時で、自分がやっちゃ駄目ですかと言ったところ、じゃあやってみろと。それから両方やりました。3年の春の大会が終わってから投げ始めた。今思えば、よくできましたよね。球速は140キロ出なかったくらい。リーグにDH(指名打者)制はありましたけど、ピッチャーの時はDHを外しました。

愛知大時代の岩瀬仁紀さん。外野手でのドラフト候補だった=1995年6月撮影

 愛知大学リーグの最多安打記録、125本を自分では抜けると思っていた。クリアできたら、もしかしたらプロへ行けるんじゃないかなと言う気持ちはあった。けれど抜くことができなくて(通算124本)。最後も、もう1打席回ってくるかなというところで、目の前でゲッツーになって試合終了。絶対抜けると思っていたので、何かそういうところが勝負弱いのかなと思ってしまった。
 だったら未知数のピッチャーの方が可能性が大きいんじゃないかと。社会人も投手で入れてくれるところを探して、NTT東海(当時)に話をいただいた。後で聞いたら、駄目だったら打者で、というので採ったそうです。大学で「二刀流」をやっていなかったら安打記録を普通に抜いていたかもしれない。そうなれば投手を選択してなかったから全く違った人生になっていたでしょうね。愛知大に投手がそろっていたら、やることもなかったですし、いろんなことが重なりました。
 大リーグで二刀流の大谷翔平はありえない。規格外で何も言えない。高校のエースで4番が、そのままの感覚でやっているのがすごい。普通はどちらかしかできない。専門職になって、それを極めるしかないですから。両方するというのは想像を絶する。それができる大谷というのは、生まれ持った才能がすごすぎる。プロは片方の練習だけでも必死こいて結果が出るか出ないか。それを(投打で)出せるというのは、まずは周りに認めてもらえないとできないことですから。大谷が片方に集中したら、どうなるんだろうとも思う。

ルーキー時代の1999年9月、広島戦で救援する岩瀬仁紀さん。新人シーズンは主に中継ぎながら10勝を挙げた=ナゴヤドーム

 ▽大学から社会人、プロまで地元でプレーできたのは助かった

 NTT東海に入社後は根本的なところから変わりましたね。練習から違います。走る量が天と地の差がありました。アップだけでも、かける時間が違ったんで最初は面食らいました。会社に行かなければ午前中から練習で、行っていれば午後から6時、7時まで。寮なんで食事を気にすることはなかった。野球漬けの環境になりました。やっぱり基礎体力でしょうね、変わったのは。高校、大学と、そんなにきついところではなく、社会人で一気にそれだけの練習をこなすのは相当大変でしたけど、自分が変われた。
 ただ、1年目は故障ばかり。最初はぎっくり腰をやった。パンクしましたよね。完全に練習量の過多です。肩(の状態)もそんなに良くなかったんで、全然試合で投げられなかった。逆に投げなかったことで体が強くなった。焦りはなかった。なるようにしかならないと。トレーニングコーチの方が「絶対に岩瀬にバットは握らせない」って指導してくれたおかげで今があります。投手で何とか、という思いが強かったみたいです。
 2年目になり、春の大会で当時の強豪チームを完封した。(金属バット使用の)打高投低の時で、一気に名前が売れて周りが騒ぎ始めた。そこで(プロ入りが)決まっちゃったようなもんです。自分の中では実感が全くなかった。球速は投げるたびに上がり、145キロぐらいになった時はプロを自覚し始めた。基本的には真っすぐとスライダーだけ。何が武器っていうのはなく、気付いたら抑えていたというか。
 一番調子が良かったのは春先で、都市対抗大会の予選の前に首を痛め、投げられるか投げられないか、ぎりぎりの線でやっていた。チームに貢献していないんで心残りはある。(補強選手で出た都市対抗の本戦も)完治せずにいたので、内容が乏しかった。5回3失点ですかね。春先の好成績があったんで、自分としては非常に悔しい結果です。力が出し切れなかった。

2005年10月、当時のプロ野球記録となる46セーブ目を挙げてガッツポーズする岩瀬仁紀さん。初めてのセーブ王にも輝いた=ナゴヤドーム

 中日から実際に話が来た時はうれしかったですね。しかも逆指名で、地元球団に評価されたんで。でも正直、不安しかないですよね。状態が戻ることなく(社会人野球が)終わってしまったんで。今だから言えますけど、中日以外に巨人から話が来ていたらどうなっていたかなというのはある。子どもの頃はジャイアンツファンでした。おそらく、それでも中日に入っていたとは思う。地元の方がやりやすいというのもある。高校から大学、社会人と経由していたら、どこかで(故郷を)出るはずなんですけど、運良く地元にチームがあった。ずっと愛知県で野球ができたのは自分にとっては助かりました。環境を変えたくなくなってしまい、フリーエージェント(FA)の時も他球団でという気持ちになれなかった。遠征で行くには楽しいところもありますけど、やっぱり住むとなったら別です。名古屋は実家が近いですから。

岩瀬仁紀さんは五輪に2004年アテネから2大会連続出場。08年8月、北京五輪の台湾戦で力投する=五棵松球場

 ▽積み重ねてきたものが崩れそうな時に、どう踏みとどまるか

 プロ入りして同級生(井口資仁ら)に負けたくないという気持ちはありました。知名度は向こうが上かも知れないけど。社会人で根本的な体がつくれたんで、キャンプやシーズンを乗り切るだけの体力があったし、何年も続けてやれた。不安が拭えたのは(中継ぎで)3年ぐらいやってからですかね。周りから「毎年これだけ投げたら、けがをする」と言われても、自分は絶対にやり通すという気持ちだった。いずれは先発でという思いはありましたが、抑えになって、その考えは全くなくなった。
 言い方は悪いですけど、現役中は1日を流れ作業にしていた。自分をロボット化した感覚で、毎日同じスタイルにできるのが一番楽なので。やっぱり人間がやっていることだから感情もあるが、そういったところをいかに消せるか、結果が悪くてもトータルで(成績を)出せばいいと、いかに思えるか。それは1年間やった経験があるからできるんで、それに至るまでは大変でした。(救援に)失敗する時は必ずあるし、いかに失敗を繰り返さないかというところの戦い。一度やられると今まで積み重ねてきたものが壊れそうになる。崩れそうになるんですけど、どう踏みとどまるか。誰でも調子が良い時は抑えられるんで、打たれた時に次の試合をどう抑えるかが一番難しい。
 だから、ヤクルトの高津臣吾監督の使った「絶対大丈夫」という言葉は、選手側からしたら、すごくありがたいですよね。監督やコーチが自分をどう思っているんだろうと気になるところで、絶対大丈夫と言ってくれると自信を持ってマウンドに上がれるし、バッターも自信を持って打席に入れますからね。そういった暗示じゃないですけど、あれはすごく効果的だったと思う。

インタビューに答える岩瀬仁紀さん=2021年12月、名古屋市で撮影

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 岩瀬 仁紀氏(いわせ・ひとき)愛知・西尾東高―愛知大―NTT東海からドラフト2位で1999年に中日入団。1年目から救援で登板を重ね、セ・リーグの最優秀中継ぎ投手に3度、最多セーブに5度輝く。2010年6月、通算250セーブに達して名球会入り。18年限りで引退。前人未到の1002試合登板と407セーブ。04年アテネ、08年北京の両五輪日本代表。74年11月10日生まれの48歳。愛知県出身。

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