三國清三シェフはなぜあえて「三流」と自称するのか 昨年末に人気店「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店、今後どうする?

インタビューに答える三國清三シェフ=東京都渋谷区

 誰もが一流と認めるフランス料理の三國清三シェフ。自らの半生を振り返った自伝「三流シェフ」(幻冬舎)を出版した。なぜあえて「三流」を名乗るのか。37年続けた名店「オテル・ドゥ・ミクニ」(東京・四谷)を閉め、どこに向かうのか。思うところを聞いた。(共同通信=中村彰)

 ▽68歳の決断

 2022年12月28日、オテル・ドゥ・ミクニはその歴史を終えた。オーナーシェフの三國さんはどうして決断したのか。

 「僕、今68歳で再来年70歳なんです。死ぬまで現役だと思ってるので70歳からのキャリアをどう作ろうかと。一般的に大体60(歳)ぐらいが大体、われわれの味覚とかのピークなんですね。70歳になるとデスクワークとか、リタイアっていう。世の中的にも今100歳の時代って言われてて、70代からどうやって現役を全うするか。70からキャリアの再スタートを逆算すると去年の12月で閉めないと。(オテル・ドゥ・ミクニの建物を)全部解体したりするのに2年ぐらいかかるんですよ」。リスタートを見据えての決断だった。

 三國さんの人生の節目節目で、鍵となる人物との出会いがあった。その出会いは偶然の産物ではなく三國さん自らが切り開いたものだった。

 中学校を卒業後、札幌の米穀店で働きながら調理師学校に通っていた時代。学校のマナー研修で訪ねた名門・札幌グランドホテルの調理場に飛び込み「働かせてください」と直談判した。

 才覚を現し、程なくワゴンサービスを任されるまでになったが「神様のような存在」だった帝国ホテルの村上信夫料理長の下で何としても働きたくて、札幌グランドホテルの総料理長に紹介状を書いてもらい飛び込んだ。

師の村上信夫氏と(柴田書店「皿の上に、僕がある。」から)

 キーパーソンを見極め、一直線に突き進む。「本能的ですよ、理屈じゃなくて。こればっかしは説明つかないですけどね」

 帝国ホテルでのスタートはパートタイムの洗い場担当だった。当時、同ホテルではパートタイマーから志願者を年次順に正社員に登用する慣行があった。だが、三國さんの順番がくる寸前で慣行は廃止され夢は破れた。故郷の北海道増毛町に帰る決意をし、最後の「爪痕」を残そうとホテルの18あるレストラン全ての鍋を3カ月かけて磨き上げた。

 鍋磨きを含めた熱心さやサポートするタイミングの良さが評価されたのか、ある日、村上料理長に呼び出され聞かされたのは意外な言葉だった。「三國君、(スイスの)ジュネーブに行きなさい。君を大使の料理人に推薦しました」。この時、まだ20歳だった。

 「神」の言葉にいやも応もない。「海外に行くなんて、これっぽっちも思ってない。でも、3秒後、『行きます』って」

 フレンチのフルコースを一人で作った経験はもちろん、食べたことすらない三國さんだったが、持ち前の機転で乗り切っていく。「瞬発力と、追い込まれるとね、結構いいんですよ。必死だからね。なんかやっぱり出るんじゃないですか、アイデアが。なんとかしなきゃいけないんで」

 大使付き料理人を務めたのは3年8カ月。その間も、任期を全うしてからも、三國さんは「これは」というシェフの店に飛び込み、研さんを重ねていった。村上料理長の「10年修業しなさい」との教えを胸に腕を磨いた。

 ▽名料理人に突撃

 フレディ・ジラルデ、ジャンとピエールのトロワグロ兄弟、アラン・シャペル…。「天才」の名に恥じない名料理人の下で経験を積んだ。

 現地スタッフに負けずに仕事をしていた三國さんだが、壁に突き当たる。欧州では高級とされるザリガニのムースを盛り付けていた三國さんにシャペルさんが一言を放った。「セ・パ・ラフィネ(洗練されていない)」

 魚料理を任されフランス人スタッフを指揮していた三國さんだが、理由が分からない。1カ月、2カ月…、考えに考えた。そして気が付いた。「ぼくはフランス人じゃない」

 「もう無理だな、日本人にはあんなフランス料理は作れない」と思う一方で、「みそ、米、そうめん大好きだし、1日1回、刺し身食わないと生きていけない。素直になって、そういうフランス料理を」と決意を固めた。

「三流シェフ」(幻冬舎)

 ▽日本人としての仏料理

 フランス人のまねをやめた。「三流シェフ」にはこう書かれている。「フランス人のようにフランス料理を作るのはやめる。ぼくは日本人として、フランス料理を作る」。日本の北海道で生まれ、日本の風土に育まれた日本人としてフランス料理を作る。料理人三國清三の基盤が確立した。

 8年にわたる欧州での修業を終え1982年12月に帰国。東京・市谷のフランス料理店のシェフを経て、独立を模索した。自然に囲まれた村の一軒家のレストランを理想とする三國さんは不動産業の知人の案内で都内の物件を見て歩いたが、ピンとくるものがない。一人歩き回っていると四谷で控えめだが温かみのある洋館に遭遇した。一目で気に入り、夜だったが居合わせたオーナーを直撃。交渉の上、借りることに成功し、85年、オテル・ドゥ・ミクニを開店した。

 だが、住宅街の一軒家。周囲に飲食店は一つもない。当初、客足は一向に伸びず赤字が続いた。そんな時、「自分の料理を知ってもらいたい」と考えた三國さんは料理の写真集出版を思いついた。

 「皿の上に、僕がある。」(86年、柴田書店)、この写真集が流れを一気に変えた。

オマールのアスパラソース添え(柴田書店「皿の上に、僕がある。」から)

 それまで斜め45度から撮影するという料理写真の常識を破り、真上からの写真で統一。120におよぶ料理の一皿一皿の造形美を浮かび上がらせることに成功した。

 「世界に叩きつけた挑戦状」と自ら豪語する本は「世界のシェフで、この本を持っていない人はいない」と言うほど話題に。「キヨミ・ミクニ」はワールドワイドな存在となった。

 折からのバブル景気にも乗り、「日本人として作るフランス料理」は多くの人に受け入れられ、何カ月も先まで予約がいっぱいになるほどだった。

 ▽“ジャポニゼ”

 開店から5年。師事したシャペルさんが店を訪れ、ゲストブックに言葉を残した。「キヨミは(中略)フランス人シェフたちの料理を見事に“ジャポニゼ”してのけたのだ」

 三國さんはジャポニゼを「日本の食材や食文化を取り入れてフランス料理の可能性を広げた」と理解した。「あれはフランス料理ではない」など多くの批判も受けたが、進んできた道は間違っていなかった。

 三國さんが関わった料理で、筆者にとって印象的な一品がある。2022年、ホテルニューオータニとコラボした企画「新江戸洋食」で提供したポテトサラダは江戸前すしの定番・コハダと合わせていた。一見ミスマッチだが、適度に締めたコハダがポテサラの風味を見事に引き立てていた。

コハダのポテトサラダ(ホテルニューオータニ提供)

 現在、三國さんは新店の準備をする一方で、ユーチューブに力を入れている。20年にチャンネルを開設し、現在の登録者は約40万人。フランス料理の技術を生かした家庭料理の普及に努めている。

 ハンバーグの回ではソースにみりんを使用。ほかの調味料類もどこでも手に入る大手メーカーの市販品を使っている。「一般の人があるものでささっと作れること」が大切だという。

 帝国ホテルの村上料理長もNHK「きょうの料理」で洋風料理の普及に努めた。「作りやすく、分かりやすくっていうのは、村上シェフの弟子なんで」と師の影響を認める。「フォアグラ、トリュフはお店で食べてもらえばいい。フランス料理を身近に分かりやすく落とし込むかが大事」と語る。

 フランス語の日常会話には困らないが、最近になって学び直しを始めた。「現場で『てめえ、この野郎、早くしろ』とかっていうフランス語しか覚えてないので一から勉強するんです」。一般の学生とともに、初級からグループレッスンを受講する。

 時代も違い、オテル・ドゥ・ミクニのキッチンでも怒号が鳴り響いた時期があった。今は長年支えてくれたスタッフへの感謝の気持ちでいっぱいだ。「スタッフがいてのお店ですからね、1人じゃできないので」

 閉店のあいさつ状はスタッフ全員の写真とともに「あなた方がいてくれたおかげで、こんなにも長く続けることができました。深く感謝します。」と記されていた。

 ▽カウンター8席だけの店

 80席のオテル・ドゥ・ミクニをはじめ、三國さんがこれまで手がけた店はいずれも規模が大きなものばかり。だが、ある思いが次第に膨らんできた。

 これまでもよくお客さんから「三國さんが作った料理を食べたいな」と言われてきたという。その思いを真剣に受け止め、どうすべきか考え続け、四谷の店の跡地にカウンター8席だけの店を開くことを決めた。

インタビューに答える三國清三シェフ=東京都渋谷区

 「8席っていうのは1人でできるレベルなので。今まで大きなプロジェクトをいっぱいやってきた。お客さまに1から10まで自分が作ったもの、三國さんの料理を食べてもらう。料理人人生イコール、僕の人生だから」

 店名は「三國」と決めている。調理はもちろん、食材を吟味しての仕入れ、下ごしらえも自分で行う。そのため市場に近い豊洲に拠点となる家を探している。

 新店開店に向け、貧しかったことも含めて、半生を集大成したい気持ちが募った。料理人としての半生を振り返り、ジラルデやシャペルといった天才シェフにはとてもかなわない、その意味で自分は「三流」だと考える。しかし、こう自負している。「ぼくは大衆の料理番になった。やはり料理は面白い」

© 一般社団法人共同通信社