「加害者の『いま』を知りたい」通り魔殺人で息子を殺された女性と、記者の25年 犯罪被害者が求めた法整備の行方

曽我部とし子さんの店と、亡くなった息子・雅生さんの写真=3月9日、兵庫県明石市

 兵庫県明石市で小料理屋のおかみさんをしている曽我部とし子さん(77)は、27年前、店の板前だった息子さんを通り魔殺人で失った。加害者の男は立件されていない。精神障害による「心神喪失」として不起訴になったためだ。男がその後どうなり、今どうしているのかは何も知らされていない。私が曽我部さんと知り合ったのは、事件から2年後の1998年。親を亡くして間もない当時の私には曽我部さんがなんとなく母のように思えた。以来、近づいたり離れたりして時を過ごしたが、最近はLINEのおかげで毎日やりとりしている。この25年の間に、犯罪被害者と遺族を巡る状況は様変わりした。ふと、私たちのたどった月日を振り返ってみたくなった。(共同通信=大木賢一)

曽我部とし子さん

▽出会い
 通り魔事件はこんなふうだ。1996年6月、長男の雅生さん=当時(24)=が兵庫県のJR明石駅の近くを一人で歩いていて、突然、後ろから包丁で刺され、出血性ショックで死亡した。刺した男は当時47歳。別の人にもけがをさせ、通行人に取り押さえられた。「殺してくれ」と叫び、自分の腹も刺して一時重体となった。
 殺人容疑などで逮捕されたが、精神障害があるのは最初から明らかで、刑事責任能力がないとして不起訴になった。なぜ事件が起きたのか、加害者が何を考えていたのか、裁判によって明らかにされる機会を曽我部さんは奪われた。

事件があった現場=3月9日、兵庫県明石市

 当時私は大阪で事件を担当する記者だったが、隣県で起きたこの事件を覚えていない。殺人や変死が日常茶飯事のようにあった大阪で仕事に忙殺されていたからだろう。
 翌年4月、埼玉県に住んでいた私の両親が死んだ。経営する会社に入り込んだ詐欺師にだまされ、負債を抱えての心中だった。私は短い休みを取っただけで仕事に復帰した。混乱と悲しみがあったはずなのに、どうやって乗り切ったのかよく覚えていない。ただ、取材先を回る車の中で「耐えろ、耐えろ」と自分に言い聞かせていたことは記憶に残っている。
 押し殺していた自分の気持ちに気づいたのは、曽我部さんら犯罪被害者の遺族に出会ったからだ。事件担当を終えた98年、犯罪被害者や遺族の境遇について話を聞くため、取材に出かけた。

事件直後に曽我部さんが書いた手紙と雅生さんの写真

 遺族が気持ちを語り合う場に行ったのに、気がつくと私は自分のことを話していた。「両親は自分で勝手に死んだのであって、他人に命を奪われたみなさんの悲しみには遠く及ばない。私には悲しむ資格がない」。そんなふうに話したと思う。「そんなことはないよ」と私を囲んでくれた人たちの前で、感情がせきを切り、嗚咽が止まらなかった。「死にたいほど辛く苦しい」。その気持ちはみんな同じのようだった。

発行を続けた「風通信」=3月9日、兵庫県明石市

 ▽精神障害者
 曽我部さんはその年の10月、「風通信」と題するミニコミ誌をつくり、遺族としての思いを語り始めた。「風よ 雅生に伝えておくれ お母さんは生きていると」「私は加害者を恨むだけの人生を送りたくない。残された人生を 少しでもよりよい人生を送りたい」
 こんなふうにも書いていた。「私は息子を殺されました。加害者は精神障害者でした。憎む気持ちがないと言ったら嘘になります。しかし、だからといって、精神障害者が社会の片隅に葬り去られてよいなどとは決して思っていません」
 曽我部さんの文章を読んだ私は、自分も含めて世間が抱く「被害者イメージ」が、表層的であることを知ったように思う。曽我部さんは最初から、憎しみや報復、処罰感情にすべてを支配されたようなお母さんではなかった。精神障害者である加害者を理解しようとしていた。

 「そんなやつはさっさと死刑にしてもらい!」。曽我部さんは知人にこんなことを言われた時、とても悲しい気持ちになったという。

亡くなった雅生さんの写真

 もちろん、障害者であっても罪を償ってほしい気持ちはある。「善悪の判断がつかなくても、人を殺した手の感触は覚えているはずです。人を殺したことは覚えているはずです」。そのことを償ってほしい、と曽我部さんは話す。だが、息子を失った母の思いはそれだけではなく、もっと深い。それがうかがい知れるのは、1998年6月、曽我部さんが精神保健福祉法に関する厚生省(当時)の専門委員会に出席した際の発言だ。「犯人のお母さんが一人で、生活保護もらって入院していると聞きました。犯人を殺したいほど憎いと思ったこともありますけれど、反面では、私のところの刺し身を食べながら、うちの息子を殺した犯人は、実の母親とあったかいご飯でこの刺し身をたべたことがあるんかしら、そういうふうにも思いました」
 「触法精神障害者」の社会復帰についても語っていた。「殺人事件を起こしたような人を雇い入れる先があるんやろか、ないんじゃないかな。じゃあ、また同じように仕事がなくて、白い目で見られていたら、また事件を起こすんじゃないかな。その辺の受け皿みたいなのはどうなっているのかなと思いました」

 

曽我部さんと話す筆者(右)=3月9日、兵庫県明石市

▽町のお医者さん
 曽我部さんの持つこうした気持ちを、単純に「優しさ」と言ってしまうのは、どこか違うと思う。ずっと不思議に思っていたが、最近とりとめのない話をするようになってから、曽我部さんが30代の頃に診てもらっていたという、ある精神科医の存在が大きかったのではないかと思うようになった。
 生村吾郎医師(故人)―。曽我部さんの店や、淡路島行きの船が出る港からほど近い場所で小さなクリニックを開いていた。精神障害者が地域とともに生きる道を探り、町の生活に根ざした医療を続けていた。待合室には大きなテーブルがあり、好きにコーヒーを飲みながら、居合わせた患者同士が世間話をしていた。町の人々が障害者を支える風景があった。
 曽我部さんは「抑うつ状態」と診断された。生村さんはいつも「また来てや」と声をかけてくれる気さくなお医者さんだった。

生村医師が「赤石本二」というペンネームで出版した著書

 ▽障害者と刑罰
 曽我部さんの事件が不起訴と決まった時、生村さんはこう言った。「精神障害者は刑罰を科せられないことで、かえって心のやり場がなくなって苦しむ。罪を犯した者はちゃんと罰を受けさせることが治療のためにもなるはずだ」
 精神科医なんて患者の人権ばかりを言うものだと思っていた曽我部さんは驚いた。「加害者はきちんと治療を受けて、それから裁判をし、刑罰を科せられるべきだ」というのが曽我部さんの考えだ。それなのに、司法によって裁かれず、真相が突き止められない現状を「精神障害者は何をするか分からないという差別をかえって助長している」と感じていた。
 不起訴を知らせに来た検事が「無罪でした」と言ったことにもずっと違和感を持っている。「裁判をやった結果を無罪と言うのではないのですか。裁判しないことが決まったのに、なんで無罪なんて言うんやろか」
 裁判をしないことの根拠は「心神喪失者の行為は罰しない」と定めた刑法39条だ。曽我部さんはこの法律の見直しと、被害者の権利拡充を巡って活動を続けた。

 ▽医療観察法
 その過程で2005年、「心神喪失者等医療観察法」が施行された。不起訴などになった加害者に、専用病棟への入院や通院を命令できるようになり、「きちんと治療を受けて」という曽我部さんの願いは実現に近づいたとも言える。
一方で、「司法と医療の連携」とうたわれたこの法律は「精神障害者に危険人物のイメージを与えて社会から隔離する予防拘禁の性格が強い」という批判の声が絶えない。専用病棟からの退院には裁判所の許可が必要で、入院期間は当初の想定より長期化している。社会復帰のための治療が効果を上げていないという見方も少なくない。
 曽我部さんの事件は法施行前なので、適用はされない。曽我部さんが強く求めたもう一つの願い「加害者の処遇を知りたい」も、かなわないままだった。
 2008年には、犯罪被害当事者たちの尽力により、「被害者参加制度」が実現。遺族らが法廷で意見を述べることができるようになった。さらに、刑事裁判に伴って加害者に損害賠償などの民事請求を行うことも可能になった。しかし、この点も、曽我部さんには関係がない。雅生さんを殺害した男は起訴されず、そもそも刑事裁判になっていないためだ。

曽我部さんと筆者(右)

 ▽処遇を知りたい
 私はその頃、東京で宮内庁担当になっていたが、皇族の私的な動静を追いかける仕事に意義を見いだせずに抑うつ状態になり、精神安定剤や睡眠導入剤を処方された。そのずっと後にも、やはり葛藤に耐えられなくなって入院した。一時は外から鍵をかけられる「閉鎖病棟」に入り、「双極性障害」と診断された。
 令和の幕明けを約1年後に控えた2018年6月、曽我部さんには喜ばしい知らせが届いた。法務省保護局長名で各地の保護観察所長らに、ある通達が出された。被害者遺族が希望した場合、一定の加害者情報が提供されることになったのだ。情報は、具体的には次の4点だ。①氏名②処遇段階③担当している観察所の名称と所在地、連絡先④加害者と観察所の接触状況。これによって、加害者がまだ強制入院中なのか、それとも地域で暮らしながら通院しているのか、それも終わって医療観察法の定める処遇は終了したのか。そしておおむねどの地域で暮らしているのか。それが分かるようになった。
曽我部さんは以前から「加害者の近況や現状を町のうわさで聞くのは嫌なんです。ちゃんとしたところからちゃんと知らせてほしい」と話していた。その願いがやっと実現したことになる。

 ▽これで充分
 ただ、曽我部さんの事件自体は医療観察法施行以前だ。「息子の事件には通達は適用されないのでしょうか」。曽我部さんは法務省に手紙を出した。通達に該当するとは思えなかったが「私はそれでも構いません。この度通達が出されただけで充分です。ただ、(自分が)知りうることができない事を書面にて回答いただきたいと思います」と書いた。
 法務省からはこんな回答が届いた。「ご令息が遭われた事件につきましては、医療観察法の施行前であり、保護観察所が関わる仕組みとはなっていませんでした。そのため、曽我部様は本通達による情報提供の対象とはならず、ご希望にお応えすることができません」。ていねいな文面だった。
 通達を知った時の気持ちを曽我部さんは「風通信」で率直に書いた。
 「私にとってその内容は天の岩戸の重い重い扉が少し動いたようなもの。茫然自失、腰が抜けたようになりました。うれしいとか悲しいとか激しい感情が沸き起こるでもなく、心がサワサワと波立ち、涙が少しこぼれました」
 「風通信」スタッフの角谷まどかさん(66)がこの時寄せた文章は、被害者やその遺族が事件に遭った後にたどる気持ちと、あるべき対処を見事にとらえている。     

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 犯罪被害者ご本人、そのご家族やご遺族にとって、自分の身に起こったこのことについて「なぜこのようなことが起こったのか」「加害者は何を考え、何のためにこんな犯罪を起こしたのか」などということを知ることは、傷ついた心身をなだめ回復させるために必要不可欠なことだと思う。そして「加害者がどのような状況で罰を受けているか」「どのような人生を送っているのか」ということを知ることも、その一環であり、また安心安全な生活を送るためにも欠かせないものだと思う。その意味で今回の通達は、大きな意味を持つ。この通達が示されたのは、主宰の曽我部さんをはじめ被害者ご遺族たちの努力の積み重ねの結果だと思う。
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 私の父母の死後、会社はバラバラになり、父が遺書で詐欺と書いていた出来事がなんだったのか知ることはかなわなかった。詐欺師と呼ばれたその男が今どこでどうしているのかも知らない。真相を知らず、現状も分からない。私と曽我部さんは、同じだ。そんなことからも、私は曽我部さんに共鳴していたのかもしれない。そう考えれば、たとえ自分の事件に当てはまらなくても、法務省の通達を「天の岩戸が動いた」とまで感じた気持ちが、よく分かる気がする。そこに至るまで、それだけの長い月日を費やしたということだろう。
  「風通信」は2021年6月で終刊した。その中で曽我部さんは「残された気力、体力を人生楽しんで生きる」と、自分に言い聞かせるようにつづっている。事件から間もないころ、次男の隆徳さん(48)に言われた「加害者への最大の復讐は、自分が幸せに生きることだ」との言葉をずっと胸にしまっている。
 今、曽我部さんは、雅生さんの跡を継いで板場に立つ隆徳さんと店を切り盛りしている。私の手元にはたまに、曽我部さんがお客さんに宛てた季節の便りが届く。今年2月のはがきには、日本酒にはお燗の種類がとても多いことがつづられていた。「日本酒の言葉と飲み方には深い趣がありますが何事にも無頓着な私にとっては悩ましいことです。続々と新酒が届いております。お酒好きの方は美味しいお酒があると美味しい料理が食べたくなるそうです。ご来店お待ちしております」
 最後に一句、添えられていた。
 春雨に袂を濡らす蛇の目傘

お客さんと談笑する曽我部さん

 お店は母の代から受け継いだ。人を待ち、人を迎え、話に耳を傾けて、ひとときをもてなす。それが曽我部さんの日常であり、その日々はこれからも続く。

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