寺院で祀られるインドの“神”俳優アミターブ・バッチャンとは何者? 老弁護士と性被害者が共に戦う大ヒット法廷劇『ピンク』

『ピンク』

発展する首都南部が舞台のサスペンス劇

映画『ピンク』の舞台は首都ニューデリー。『RRR』でも描かれたが、イギリス統治時代の1911年に首都がカルカッタ(現コルコタ)からデリーに移転、当時のデリー市街地の南側に、首都機能を持つ広大な新市街地が建設された。その後100年超の間にニューデリーは、南に、また東に西にとどんどん広がっていき、今や衛星都市を周辺に持つ巨大な首都圏となった。

特に1991年の経済発展開始以降は、市街地として大型商業施設や住宅地がどんどん増えると共に、そこに住む金持ちたちが週末を過ごすための「ファームハウス」と呼ばれる別荘や、「リゾート」と呼ばれるホテルなどがいくつも建設されるようになった。その周囲には荒れ地と言ってもいいような土地が広がっており、街として成熟する前にゴージャスなスポットだけが脈絡なく増殖している感じである。本作『ピンク』の中で、最初の傷害事件が起きたのも、そんなリゾートホテルにおいてだった。

悪を裁いてみせる、バッチャンの名にかけて!

本作の主人公は3人の若い女性。ミナール、ファラク、アンドレアはそれぞれ仕事を持ち、ニューデリーのモダンな集合住宅地で、賃貸フラットをシェアして暮らしている。3人はある日コンサートの帰途、金持ち青年ラジヴィールとその友人ら3人に誘われ、ディナーに付き合う。連れられて行ったのはリゾートホテルで、部屋が独立したコテージ風の作りになったものだった。

そこでラジヴィールがミナールに体の関係を迫り、「イヤ!」と拒否した彼女が彼のこめかみをビンで殴って負傷させてしまったため、女性3人はその場を逃げ出す。そして後日、強姦未遂としてラジヴィールを告発しようとしたミナールは、反対に自分が殺人未遂として訴えられたことを知る。ラジヴィールの伯父は有力な政治家で、伯父の手先(ヴィジャイ・ヴァルマー)は様々な手段を使い、ミナールたちを追い詰めていく……。

非常に緻密な脚本に基づく、高度なサスペンス劇である。前述したストーリーだけでも手に汗握る展開になることがわかると思うが、ここにもう1人、奇妙な人物が登場する。ミナールたちと同じ集合住宅に住む、老弁護士ディーパク・サイガル(アミターブ・バッチャン)だ。彼はなぜかミナールたちに味方し、弁護士としてミナールの無実を証明しようとする。しかしながら、そのやり方は時にミナールたちの理解を超え、もしかしてディーパクは認知症では? と思わせられることになる。

インドで“神”として祀られるアミターブ・バッチャン

アミターブ・バッチャン演じる弁護士ディーパクは、辣腕弁護士だったが10年ほど前に引退した、という設定になっている。大物弁護士だったことから、現在でも警察上層部に顔が利くことを示唆するシーンも登場する。だが年齢のせいか認知能力に衰えが見られ、薬を服用している。また、妻(マムター・シャンカル)はどうやら末期ガンのようで、万一彼女という精神的支えを失ったあとのディーパクにはさらに不安材料が……という人物として描かれている。

アミターブ・バッチャンは、1942年10月11日生まれで現在80歳。『ピンク』は2016年9月16日にインド公開された作品なので、公開時は73歳だったが、本作でのメーキャップはそれよりさらに年上にしてあり、80歳ぐらいに見せてある。

観客がギョッとするのは、住居近くを散歩するシーンで、ガスマスクのようなものを付けている彼の姿だ。事情を知らない人は「この人、やはり頭が惚けているのでは?」と思うかもしれないが、これはニューデリーの大気汚染のすごさを知る人なら、ちょっと大げさではあるものの、これぐらいしないと我が身は守れないかも、と納得するに違いない。

日本でも何度かニュースになったのだが、ここ10数年の大気汚染は内陸部のニューデリーでは特にひどく、視界がきかず飛行機が飛べない日もあるという。コロナ禍の一時期改善されたこともあったものの、最近はまた元の状態に戻っているらしい。そんな、いくつか過剰な描写はあるが、ディーパクが公判進行につれて一見奇妙な質問を繰り出しながら、本事件の本質を暴いていく姿は、見るものに深い感銘を与える。

演じているアミターブ・バッチャンは、1969年に俳優デビュー。これまで240本を超える作品に出演した、超大物俳優である。彼の全盛期は、『炎』(1975年)などをスーパーヒットさせた1970年代から1990年代で、2000年以降は父親役など年相応の役を中心に、『家族の四季 -愛すれど遠く離れて-』(2001年)、『マダム・イン・ニューヨーク』(2012年)、そしてハリウッド映画『華麗なるギャツビー』(2012年)等々で変わらぬ魅力と存在感を発揮し続けている。

2023年2月25日に放送されたTBS『世界ふしぎ発見!』の「インド情熱革命ing」の回では、「スターへの愛が強すぎるがゆえに神格化され、寺院まで作られてしまった」大スターとして紹介されていたが、そっくりさん人形が祀られて拝まれるのも納得の、インドの至宝的スーパースターなのである。

2023年5月12日(金)日本公開のインド映画『ブラフマーストラ』でも重要な役で出演しているが、2002年60歳以降を彼の晩年とすると、本作『ピンク』は晩年を代表する1本と言えるだろう。

新しい視点を提示するフェミニズム映画

本作は、インドで公開されると映画評が競って高評価となり、ほとんどの評論家が★4つを進呈、中には満点に近い★4.5をつけた映画評も登場した。さらに口コミでの評判も高く、ヒットの目安となる興行収入100カロール(カロール=1,000万)=10億ルピー(当時のレートで約16億円)を突破、公開前に製作陣が興行成績への不安を示していたのが笑い話になるほどで、最終的には15億7320万ルピーを稼ぐヒットとなった。製作費が3億ルピーだったので、5倍以上の興収をあげたことになる。

その理由は、先に挙げた緻密な脚本やアミターブ・バッチャンの名演技と共に、主役を演じた3人の女性のリアルな演技にも負うところが大きい。実家が市内にあるのに、家を出て家賃を払いながら仕事をしている女性、という点だけでも偏見を持たれてしまうインドだが、ダンサーというさらに偏見にさらされる職業を誇りに思っているミナール役のタープシー・パンヌー。平凡なOLだが、愛する人がいるために、やはり市内にある実家を出て今の暮らしを始めたファラク役のキールティ・クルハーリー。そして、インド北東部にあるメガラヤ州出身で、何かというと出身地ゆえの偏見にさらされるアンドレアを演じたのは、自身も北東諸州出身のアンドレア・タリアングだ。

北東諸州、つまりアッサム、メガラヤ、ナガランド、マニプル、トリプラ、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュ、シッキムの8つの州への偏見は、モンゴロイド系住民が多いこと、キリスト教徒が多く文化が違うこと、若い女性はインドの伝統衣装を着ずにミニスカートやジーンズなど洋服を好むこと、中央政府との確執が長期にわたって続いている地域があることなどから、北インドのアーリア系住民らは偏見や差別意識を持つことが多い。本作では、証言台に立つ人々の中で、なぜアンドレアだけが出身地を問われなければならないのか、他の証人たちはだれも出身地を聞かれていないではないか、とディーパクは鋭く追求していく。

本作出演後、タープシー・パンヌーとキールティ・クルハーリーは次々と主要な作品に出演するようになるのだが、それは本作で培われた演技力が力を発揮しているのではないかと思う。紋切り型でもってフェミニズムの視点に欠けることを批判するのではなく、女性たち自身の心に巣くう偏見や怖じ気を正面から見据え、それにもメスを入れていこうとする脚本と演出には、感服させられる。

監督は、これまでベンガル語映画を撮ってきたアニルッド・ロイ・チョウドリー。これが初めてのヒンディー語映画だが、彼を助けて実質的共同監督のような役目を担ったのが、『僕はドナー』(2012年)などの監督シュージト・サルカールで、やはりベンガル出身だ。

弁護士ディーパクの妻役マムター・シャンカルと、裁判長を演じたドリティマン・チャテルジーは、サタジット・レイ監督作品にも出演したベンガル語映画の名優たち。そんなベンガル映画人と、アミターブ・バッチャンを始めとするボリウッド映画人がぶつかって、熱いケミストリーを起こした本作は、インド映画が世界に誇れる作品となった。

文:松岡 環

『ピンク』はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2023年3~4月放送

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