桜井良太インタビュー「たくさんのお客さんの中でプレーするのが選手としての一番の喜び」[リバイバル記事]

試合に出られるバスケットに楽しさを見出す

選手の生い立ちにフィーチャーしてインタビュー形式で其の人生を振り返るこの企画。今回紹介するのはレバンガ北海道の桜井良太(レバンガ北海道)だ。三重県出身で四日市工高時代にはウインターカップで能代工高相手に大番狂わせを演じ、一躍全国区のスターとなった。大学卒業後はトヨタ自動車を経て、北海道へ。生きる伝説のキャリアを振り返る。

※『月刊バスケットボール』2021年3月号掲載記事を再編集した記事になります

――お姉さんも元選手(桜井もも子/元トヨタ紡織ほか)ですが、バスケットとの出会いはいつ頃でしたか?

もともとはサッカーをやっていました。僕が小学3年生のときにJリーグができて、通っていた小学校のサッカークラブに入ったんです。当時はみんなJリーグのクラブの帽子をかぶって登校していたような感じで、その流れに乗って僕もサッカーを始めたんですけど、それはもう…ものすごい人気だったので入りたての子はピッチで練習なんてさせてもらえなかったんです。で、『楽しくないな』って思っちゃってサッカーは3か月くらいでやめて、そこからしばらくは何もスポーツをしていませんでした。

そのとき姉が隣の小学校でバスケットをしていたんですけど、小さな地区だったので3つの小学校が合同で(地理的に)真ん中の学校でクラブ活動をしていました。当時、男子は3人だけで姉から「アンタもやったらすぐに試合に出られるよ」って言われたのがバスケットを始めたきっかけでした。そのチームは女子が全国大会に出るくらい強かったんですけど、男子は全然。ポジションとかもなかったので楽しくやっていましたね

――サッカーをやっていた頃に試合や練習に参加できなかった分、バスケットが楽しかったんですね。

そうですね。でも、男子の練習はすぐに終わって女子が練習をみっちりやっていました、強かったんで(笑)。ただ、親が送り迎えをしてくれていたので男子の練習が早く終わっても僕と姉の迎えの時間は一緒です。時間がいっぱいあったのでドリブルとかレッグスルーの練習をずっとやっていたから、背が伸びた後でもドリブルがつける選手になれたのかなって思いますね

――中学時代の成績や当時のプレースタイルは?

中学校もチームは強くなかったので地区大会1回戦負けとか、そういう感じだったんですけど、女子は僕らの代で全国ベスト4になるくらい強いチームで、女子の練習相手として5対5をやっていました。まあ、当然勝てないんですけどね(笑)。そんなこともあったので『男子も強くなりたい』という思いがあって、最終的に自分の代で県ベスト4に入ることができました。中学生の頃に身長がグッと伸びたんですけど、そのときも特にポジションなどはなかったので自分でボールを運ぶことも多かったです。

あとはジュニアオールスターにも出ることができて、そういった部分も四日市工高に進むことができた理由の一つだったかもしれません

――高校は今お話に挙がった四日市工高に進学しましたが、進学の決め手は何でしたか?

ジュニアオールスターで一緒に戦った選手の何人かが四日市工に誘われていて、「一緒に三重県のバスケットを強くしよう」と。あとは三重県協会の方々が「県内でバスケットを続けて強くしてほしい」という話もしてくださいました。県外の高校からも誘いがあったので最初はそっちに気持ちが傾いていたんですけど、そういう経緯があって最終的には四日市工を選びました。

でも、誘ってくれた先生が、僕が入学した年に違う学校に異動になってしまったんです。それで、アシスタントコーチだった水谷幸司先生がヘッドコーチになり、3年間バスケットを教わりました

――高校で全国大会を戦う中でどんな違いを感じましたか?

一番は体の強さですね。特に高校2年生のインターハイで対戦した沖縄県の北中城高は印象に残っています。バスケットのうまさどうこうよりもフィジカルコンタクトで圧倒されて、気持ちの面で負けてしまったような試合でした。総じてディフェンスの強度や走力という部分で圧倒されて負けてしまうことが多かったので、基礎的な部分でレベルの差はあった気がします。逆にドライブを仕掛けてディフェンスとのギャップができれば空中戦で勝負できた印象はあります

――ちなみに当時、ジャンプ力はどれくらいでしたか?

うーん、あんまり測ったことがなかったんですよね。それに片足で踏み切ったランニングジャンプの方が得意だったので、垂直跳びはそんなにすごい数字ではなかったと思います。大学生のときに助走ありで最高到達点が355cmだったことは覚えていますが、それ以外はそんなに測ったことがなかったかもしれません

能代工を破る大番狂わせ、ゾーンに入り驚異の51得点!

――桜井選手のキャリアを見ると、やはり高校3年時のウインターカップで能代工高を相手に51得点を記録し、番狂わせを起こした試合が目に留まります。

高校2年生のときにもウインターカップで能代工と対戦していて、そのときにはトリプルスコアくらいの大差を付けられてボコボコにされたんですけど、うちのキャプテンから来た年賀状に「今年は絶対に能代を倒そう」って書いてあったんです。で、3年生のウインターカップの組み合わせを見たら1回戦が洛南、2回戦が能代工という組み合わせでした。そもそも初戦の洛南にも勝てると思っていなかったんですけど、何とか勝てて。僕は引退試合のつもりで能代戦に臨んでいたんですけど、ただ負けるにしても一矢報いるというか『何か見せて最後の試合を締めくくりたい』と思っていました。

正直、試合中のことはあんまり覚えていなくて、後になってスコアシートを見返してみたら51得点だったって感じです。無心でやっていた試合でしたし、ゾーンに入るというか、そういう感覚だったかもしれません。シュートが入るとか入らないとかそんなことは一切気にしていませんでしたが、とにかくずっと楽しかった記憶があります。

――その活躍が『スラムダンク』の流川楓と重なったのか、世間から“リアル流川”と呼ばれていましたね。

実際にそういうふうに言われ始めたのは当時の試合映像が出回り始めてからで、それでいろいろな人に知ってもらったって感じでした。試合の直後にはそこまで言われなくて、時間差で言われたので照れくさい気持ちしかなかったです(笑)

――そのほか、高校時代で印象深かった出来事はありますか?

僕が入学する前年、四日市工が県予選で負けてしまって優勝を逃したことがありました。それがあった上で1年生のときのインターハイ予選で優勝することができて喜んだことは印象深いです。あとは高校3年生のインターハイですね。その大会で福岡大附大濠と対戦して勝つことができたんです。全国で強豪と言われていたチームに初めて勝つことができたので、それも印象深いです。高校時代は番狂わせのような試合が結構ありました。先ほどの能代工との試合がどうしてもフィーチャーされますけど、その前の洛南戦に勝ったことも奇跡的なことでしたし、インターハイの大濠戦も番狂わせでした。そんな1年だったので3年生の頃は楽しかったですね。

――その後、愛知学泉大に進学しました。東海地区の大学を選んだのには何か理由があったのですか?

それが、当時の僕は本当に知識もなくて何も考えていなかったんです(笑)。だから東海地区の大学に行ってもリーグ戦で関東の大学とも試合があると思っていて。当時、姉が関東の実業団でプレーしていたので関東周辺の大学の練習を見学に行ったりもしてくれたみたいなんです。で、僕の方はというと学泉の小野秀二監督(現能代工高コーチ)に誘われていて、学泉の練習がすごくしっかりしているといううわさも聞いていました。あと、僕は地元の友達と仲が良くて学泉なら愛知と三重で近かったので、それも良いかなと。これが学泉を選んだ経緯ですね。

学泉はスクリーンプレーの練習が多くてモーションオフェンスの中でボールと逆サイドでピンダウンスクリーンやフレアカットなどを多用していたんですけど、もう意味が分からなくて(笑)。先輩が何度も教えてくれるんですけど、今までそういうプレーをやったことがなかったので苦労しました。 あとはとにかく練習がキツくて、『バスケの練習ってこんなにキツいの?』って改めて実感しました。

――頭も体も使ったというわけですね。

まさにそのとおりです。高校生の頃は自分で1対1を仕掛けてばっかりだったんですけど、学泉ではチームとしての動きをした中でギャップを作って1対1を仕掛けるという感じだったので、今までやってきたバスケットとは大きく違いました。

――インカレなどでは東海地区以外の大学とも対戦することがあったと思います。その中でほかのチームとは異なる学泉大のカラーはどんなものでしたか?

一番はディフェンスだと思います。学泉はみんながディフェンスを頑張って(関東1部と比べると)能力の低い選手たちが能力の高い選手を多く擁するチームにどうやって勝つかというバスケットをやっていたので、まずはディフェンスでロースコアゲームに持ち込むこと。そこから練習してきたモーションオフェンスでノーマークを作ってイージーショットを決めていくというのが僕らのスタイルで、ほかのチームとは違う部分でしたね。

フォーメーションの一つとしてスクリーンプレーを使うチームはほかにもありましたけど、ボールを運んできて流動的に自分たちの感覚でスクリーンを使うようなチームは当時あまりなかったと思います。

初めて壁にぶち当たった」トヨタ自動車時代

――大学時代は東海地区の最優秀選手賞などの多くのタイトルを獲得し、卒業後にトヨタ自動車に入団しました。

学泉に誘ってくれた小野さんは僕が入学するときにトヨタに行ってしまいました。そんなこともあって、「大学のときは誘ったのに指導することができなかったから、ウチのチームに来て今度こそ一緒にバスケットをしよう」と小野さんに誘っていただいて、トヨタに決めました。でも、僕が入団する年に小野さんは日立(現SR渋谷)に行ってしまったので、僕は高校、大学、実業団と誘ってくれた人の下でプレーしたことが一回もないんです。僕が行くとみんないなくなっちゃうっていうジンクスがあるみたいです(笑)。

――何というキャリア(笑)。トヨタ自動車では1年目からリーグ優勝を達成しました。入団していきなり優勝するというのもすごいことだと思うのですが。

個人としてはキャリアで初めての日本一でしたが、正直、「やった、優勝したぞ!」というのはあまりなくて、とにかく試合に出たいという気持ちでいっぱいでした。挫折というか、初めて壁にぶち当たったのがトヨタ自動車に入ったときです。当時のチームには折茂武彦さんや渡邉拓馬さん、齋藤豊さん(東京ユナイテッド)、ポジションは違いますが高橋マイケルさんという日本代表クラスの選手がたくさんいました。それこそ12人中10人くらいが代表か元代表みたいなメンバーで、当時は僕も代表活動に参加させてもらっていたんですけど、代表活動には行くけどチームでは全然試合に出られないというもどかしい時間が続いていました。それがすごく恥ずかしくて、どうしたら試合に出られるかを考えたんです。オフェンス面では当時のチームメイトを上回れる自信がなかったので、じゃあどうするかと。そういう葛藤の中で今、東京エクセレンスのヘッドコーチをやっている同期の石田剛規にいろいろ相談しました。当の石田はケガであまり試合に出られていなかったにもかかわらず、図々しくも僕はバスケットIQが高い彼にいろいろ聞いていたんですよ。

1年目は『とにかく試合に出たい』と、それだけでした。それで1年目の終わりくらいにジョン・パトリックHCから「ディフェンスで相手のポイントガードに付いて、とにかくフルコートでプレッシャーをかけてくれ」と言われました。あとは速攻で走って点を取ること。それがあって2年目には15分から20分くらいの出場時間をもらうことができたので気持ちにも余裕ができて、そのシーズンの優勝は喜ぶことができました。

――ディフェンシブなプレースタイルにシフトしたのはトヨタ自動車時代だったのですね。

そうですね。劇的に僕のプレースタイルが変化した時期でした。今までは点を取ることを求められていた選手が、全く違うスタイルに180度ガラッと切り替わったんです。そう切り替えることができた理由は、いろいろなことを認められたからですね。トップリーグに入ってくる選手って、それぞれが中学や高校からチームの中心だった選手たちだと思います。それこそ所属チームの点取り屋だったような選手の集まりなわけですが、いざトップリーグに入ったときに自分よりも得点スキルの高い選手もたくさんいるわけで、そうなったときにチームの中で何ができるのかと考える必要があります。

それでも自分は点取り屋だと信じてやり続ける選手もいるだろうし、違う役割を見付けてチーム内での自分の居場所やプレータイムを勝ち取っていく選手もいます。僕は後者にシフトしましたけど、金丸晃輔選手(三河)なんかは僕が代表チームでPGをやっていた当時、スクリーンプレーからポッとパスを出せば100%シュートを入れてくれるんじゃないかというような感覚がありました。そういう選手もいるんですよね。

そう考えるとトップリーグに入っていろいろな道に進む選手がいる中で、僕はディフェンスや泥臭いプレーを頑張る方にシフトしていったのかなと思います。

――先ほど桜井選手が挙げた「認められた」というのは自分の進むべき道を認め、ほかの選手の実力を認めることができたという意味合いですね。

そうですね。この選手には負けたくないとか、いろいろ思うことはあると思うけど、チームをコントロールするのはヘッドコーチの役割なので、ヘッドコーチの指示に対してみんなで同じ方向に進んでいく必要がありますし、その方向から外れてしまう選手がいるとチームは真っすぐ前に進みません。 一人一人の意見がある中で、チームには全員が同じ方向に進んでいくためのサポートができる選手が必要で、いろいろな場面を見てきたからこそ僕は今のチームでそういう役割を担っているつもりです。

レラカムイ北海道へ移籍、北海道生活の始まり

――キャリア3年目に新設チームのレラカムイ北海道に移籍しました。ようやく軌道に乗ってきたタイミングでの移籍ですが、決め手は何でしたか?

一つ前の質問に答えた後でアレなんですけど、プレータイムがもっと欲しかったのが理由の一つです。ある程度のプレータイムをもらっていて2度も優勝することができたんですけど、その優勝というのは自分が中心となって達成したことではありません。やっぱり、『自分が中心のチームでプレーオフや優勝に絡んでいきたい』という思いがあったんです。

――以前、折茂さんが北海道でのデビュー戦を「観客の多さに圧倒された」と振り返っていました。桜井選手はどう感じていましたか?

折茂さんがおっしゃっていたのと同じような気持ちでした。北海道には日本ハムファイターズ(野球)とコンサドーレ札幌(サッカー)というプロ球団があって、そこにレラカムイが参入するという形だったので、ファンもスポーツ観戦に慣れているし観戦好きな方もたくさんいました。それでプレシーズンマッチから4、5000人もの方々が来てくれて、そのときにたくさんのお客さんに見てもらう中でプレーするのが選手としての一番の喜びだと感じましたね。

――今季で北海道に来て14シーズン目です。その間にレバンガ北海道の立ち上げなど、さまざまなことがありましたね。

北海道にはいろいろな思いがあります。チームを作っていくのが簡単ではないことをいまだに感じ続けていますし、現実問題、強いチームを作るにはそれなりのお金も必要だし、良い選手を取って結果を残しても次の年にほかのチームに引き抜かれてしまったりもするので。

なかなかチームカルチャーを作っていくのは難しいんだなと。ただ、「北海道は応援してくれる人が多くて好き」というのは僕以外の選手も話すことだと思います。僕は北海道に来てもう14年目ですから愛着もありますし、このチームでバスケットを強くしたい、根付かせたいという気持ちも変わらず持っています。そういう気持ちで今もレバンガでバスケットを続けています。

――昨季(2020年)は連続試合出場636という大記録を達成しましたが、その要因は?

何ですかね、痛みに強かったというか(笑)。『多少痛くてもできるでしょ』みたいな感じはありました。1年目のどこかのタイミングからの記録なんですけど、記録が300くらいのときから『そういえば休んだことなかったな』って自分自身も気にするようになりました。でも、これは僕だけの記録じゃなくて、スタッフやチームメイトにも助けられながらここまで伸びた記録でした。特に最後の方は足首の手術が何回も続いて、リハビリをしていたけど回復が思わしくありませんでした。でも、そういうときでも少し無理をして出続けていたので、今振り返ったときにほかの選手たちに言いたいことは「ケガをしたり、どこか痛いところがあればちゃんと休んだ方がいいよ」ってことです(笑)

――記録が終了した後、SNS上で当時の内海知秀HC(現Wリーグ・日立ハイテクHC)に感謝の言葉を述べていましたね。

内海さん自身も記録を尊重してくれて、かなり気を遣って僕を起用してくれていたのが見ていて分かりました。でも、僕のパフォーマンスが良くなくて…。記録を終わらせるときは僕よりも内海さんの方がつらかったと思うんです。つらい役目をさせてしまったなっていう思いがありましたが、感謝しています。

――これからの自身のキャリアやレバンガの未来をどう思い描いていますか?

シンプルなことですけど、どんなときでも毎日の練習を高い強度でやり続けられるチームを作っていきたいです。影響力の大きい選手の気分や調子によって練習の強度が浮き沈みするのが許されるチームであっては強くなっていきません。メンバーは各チーム違いますが、やることはどんなチームでも一緒である必要があります。ただ、これは言葉にするのは簡単ですが実際にはとても難しいこと。

それだけにレバンガを今述べたようなことができるチームにしていきたいですし、そういうチームを作る役割の一端を自分が担っていきたいですね。個人として、あと何年現役をやろうとかはここでは明言しませんが、少しでも長く続けていけたらいいかなって思っています。


Profile

桜井良太 Ryota Sakurai

チーム:レバンガ北海道

ポジション:SF

生年月日:1983年3月13日

身長/体重:194cm/89kg

リーグ登録国籍:日本

出身地:三重県

出身校:愛知学泉大

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