ハーフナー・マイクが引退した今、明かす!「鳥栖でのブレイク」「怪物セルヒオ・ラモス」「幻のフェイエノールト移籍」

今年1月5日、現役引退を発表した元日本代表FWハーフナー・マイク。オランダ人の名GKディド・ハーフナーさんの息子として、史上初の親子Jリーガーとして注目を浴びた。

これまでハーフナー・マイクさんは、Jリーグの各クラブを始め、オランダリーグのフィテッセやデン・ハーグなどで結果を残してきた。

引退後は『ABEMA』で放送されたイングランド・プレミアリーグのアーセナル対エヴァートンで解説者としてのデビューを飾っている。

そこでハーフナー・マイクさんに、Qolyは先日、単独インタビューを敢行!

インタビュー第1弾となる今回は、サガン鳥栖でのブレイクや、スペインでのレアル・マドリーとのラ・リーガ開幕戦、幻となった名門フェイエノールト移籍などを中心にエピソードを聞いた。

(取材日:2023年2月2日)

――長い現役生活、お疲れさまでした。2020年限りでヴァンフォーレ甲府を退団した後、FC Bombonera(東海社会人リーグ2部)で2年プレーされ、このタイミングで引退を決断した理由を教えていただけますか。

もともとヴァンフォーレ甲府を契約満了になったときに、辞めようとかなと。延長で、社会人リーグでちょっとやった感じです。

身体も思うように動かないですし。もともと、35歳で辞めようと思っていました。

延長で、社会人リーグでちょっとやれて新しい経験を積んでから辞めようと思っていた。それがこのタイミングでしたね。

――昨年開催されたカタールワールドカップ、気になった選手はいらっしゃいましたか。

どちらかというと、メッシの応援をしていたので(笑)。やっぱり(自分が)FWというのもあって、レヴァンドフスキ選手を見たりと。

上手いなっていう印象しかなかったですね。ほぼほぼ全試合を見たんですけど、目が行くのはそういう選手たちかなと思いましたね。

トップの選手たちは所属クラブでやっているときと異なるじゃないですか。周りのレベルもありますし、そういうのも見ていてどのステージでどの味方とやっても「サッカーって難しいんだな」と見ていて思いましたね。

気になる選手というよりは、ワールドカップは完全にずっとメッシを応援していました(笑)。初戦からどうなるんだろうって。

本当にワールドカップを獲らずに終わるのかなと思っていたら、結局獲るべき選手が獲った大会だったかなと思う大会でした。

――2006年に横浜F・マリノスでトップ昇格をされて、キャリアの序盤は相当苦労もされたと思います。そこから期限付き移籍先のサガン鳥栖でブレイク。その後はヴァンフォーレ甲府という流れですけど、どのようにして成長のきっかけをつかんでいきましたか。

まず、マリノスでは結構壁に当たることも多かったんですけど、プロ1年目から試合に絡むことは多かったです。

(でも)スタメンというのが全然なくて、これからの自分のキャリアを考えた上でスタメンを勝ち取らないとキャリアも長くできないと思っていました。

3年目から最初はアビスパ福岡に行って、そこで半年くらいケガしていたんですけど。

またケガから復帰して徐々に試合に出始めて、またマリノスに復帰したときに「やっぱり全然まだ成長したりないな」という思いで、今度はサガン鳥栖に行きました。

プロ4年目で個人的にもそろそろちゃんとした結果を残さないと、これから先長くならないという意味でも、自分を追い詰めていました。

――当時、鳥栖の岸野靖之監督の存在が大きかったですか。

そうですね。本当に正面から自分を受け止めてくれました。喧嘩も多かったですけど、その度にしっかりどうしてほしいか、何してほしいか、一人の選手として大切なことをまた新たにいろいろ学びました。

すごく信頼されているのを感じましたし、試合にたくさん使ってもらって、結果も生まれてきて、自分の中に自信が芽生えました。

自分のキャリアが前に進んだというか、止まっているところからまた、進み始めたのが鳥栖でしたね。

その後、またマリノスに帰るというオプションもあったんですけど、一回後ろ盾がないところで頑張りたいと思い、ヴァンフォーレ甲府に移籍しました。

またJ2ですけど、個人的にはまずJ2を支配しようと。まずJ2で一番になる。

甲府を選んで、そこでしっかりと結果を残せて、チームもJ1に上がれて。その下積みは個人的には本当に正解だったかなと思います。

――そこから海外移籍で、2011-12シーズンの冬にフィテッセへの移籍を決断されました。なぜフィテッセを選んだのですか。

当時、ブンデスリーガも(選択肢として)あったんですけど、まだ個人的には上すぎるかなと。行っても試合出られるのかなという感じだったので。

自分の母国に住んだことがなかったので、まずはオランダリーグでしっかり結果を残してから、上のリーグでトライしようと思って、オランダ行きを決断しました。

――自身のルーツであるオランダの文化は肌に合いましたか。

最初に行ったときは、正直言葉は全然理解できなかったんです。親のオランダ語はずっと聞いていたんですけど、オランダの選手たちの喋りがすごく早くて。「最初俺、本当にオランダに来たのかな?」と思いました。

それはもう慣れだったんですけど。最初は自分もオランダ語がそこまで得意ではなかったので。

最初のうちは英語でコミュニケーションを取りながら、徐々にオランダ語を喋ってみたいな感じでした。他はフィーリング的には全然問題なかったかなと思います。

――先にフィテッセへ移籍していた安田理大選手はどんなチームメイトでしたか。

数少ないサッカー界の友達というか。もちろん仲のいい選手はたくさんいるんですけど、「友達」と呼べる選手、いまでも連絡を取り合う選手、その数少ない一人ですかね。

あんなに仲良くなるとは、お互い思っていなかった。ミチ(安田)から話を聞くと、最初俺のことをけん制してやろうみたいな(笑)。

最初は放っておこうみたいな感じだったけど、自ずと、お互い日本語を喋るし。もともと15、16歳のころからお互いに知っていたので。

アンダー代表で一緒にやっていて。それで仲良くなって、いろいろ言えない共通点も多かったり。日頃の練習からお互いふざけていて、ふざけ過ぎも良くなかったんですけど、ふざけてお互いのことを笑わせたり。

海外は二人部屋が多いんですけど、二人部屋も一緒だったりして。コミュニケーションを取る機会がすごく多かったので、とても楽しい、面白いチームメイトでした。

――フィテッセで結果を残されて、2014年夏にスペインのコルドバへ移籍されました。デビューは、サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリー戦。あのとき対戦して感じたことを教えてください。

いまでも思い出すんですけど、最初入場のときはベルナベウの中に立って、目の前がレアル・マドリー。

「よっしゃ!ここからだ!」という感じでもありました。ここからまた結果を残して、また一つ上のステップに行こうという意気込みは個人としてすごくありました。

また自分のサッカーキャリアに、いい1ページを書きたかったという思いがあってスペインに行きました。色々うまくいかなかったことに関しては、コルドバ移籍を決断する前に他のオファーもありました。

もっと自分に頑固にならずに、もっと良い選択肢があったかなと思ったりもするんですけど。やっぱり行ってみなきゃ分からない。行ってみたらハズレだったという(苦笑)。

ハズレと言ったらダメか(苦笑)。行ってみたら自分が思ったようには行かなかったかなと思いました。

――セルヒオ・ラモスやペペと世界最高クラスのセンターバックと対戦しました。対戦した印象などを教えてください。

セルヒオ・ラモスは化け物でした。試合前は緊張もせず。相手はレアル・マドリーだけど、「みんな同じ人間だろ」、「どうにかなるだろう」と思っていました。

個人的に競り合いで、3回連続で負けたことはほぼなくて。いざセルヒオ・ラモスとやったら、自分の肩の上に腕を置いて3回連続で上からこられた。

これは経験したことがないなって。「こういう選手が世界トップなんだな…」と経験しましたね。ペペ選手ももちろんすごかったんですけど、どちらかというと俺のこと嫌がっていました。ちょっと手ごたえはありましたね。

まだ初戦だったのでレアルも、相手がウチというのもあったんですけど、そこまでまだコンディションができてなくて、「ちょっと手を抜いても勝てるだろう」というメンタルで来ているのを感じました。

2-0(レアル・マドリーの勝利)で終わったんですけど。個人的にはいい経験ができた試合でした。

――他のオファーとして、フェイエノールトの名前があったと記事で拝見しました。具体的にどのようなオファーがあったのでしょうか。

フィテッセで監督やっていた(フレット・)ルッテンがフェイエノールトの監督になって、「ハーフナーを連れて行きたい」と、もともとそういう話で。

フィテッセで自分のことを気に入ってくれて。彼の下ではほぼFWはやっていないんですけど、自分の違う引き出しを開けてくれました。

その当時、FWにウィルフリード・ボニーというコートジボワール代表の選手がいて、「ボニーをNo.1として考えている」、「でもお前のことは使いたい」、「お前はここのポジションもできる」とやったこともないボランチとか、トップ下、ウイングなどえ起用されて。

「できるのかな?」と思っていたら、本当に使ってくるんですよ(苦笑)。まさか公式戦…プロにもなって「ボランチで試合に出ることないだろうな」と思っていたら、普通にボランチとかで使ってきて。その1年はいろいろ経験できました。

自分のレベルアップにもつながったので、好印象な監督でした。自分だけではなくて他の選手にも、試合が終わった次の日に一人ずつビデオを見せて「ここが良かった」、「これが良くなかった」、「ここはもうちょっとこうしてみよう」みたいな的確なアドバイスも送ってくれましたね。

何を求めているのか分かりやすかったです。何をうまくやらなくてはいけないのか、何を上達しなくてはいけないのかを明確に教えてくれる監督でした。

その人から折角「また一緒に仕事しよう」っていうオファーがあったのに、自分が頑固すぎて「そろそろオランダから抜けよう」かなっていう道を選んでしまったのが、個人的には間違った選択だったなと思います。

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2015年に加入した父の古巣でもあるデン・ハーグでの経験や、Jリーグ復帰、フィテッセで同僚だったウィルフリード・ボニーについて聞いたインタビュー第2弾の動画はYouTubeの『Qoly公式Ch.』にて近日配信予定。こちらもお楽しみに!

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