張本天傑インタビュー「マッチアップしたくないなと思ってもらえたらうれしいですね」[リバイバル記事]

バスケット人生のツールは中国にあり

選手の生い立ちにフィーチャーしてインタビュー形式でその人生を振り返るこのコーナー。今回紹介するのは名古屋ダイヤモンドドルフィンズの張本天傑。中国にルーツを持つ張本は197㎝の長身ながら、学生時代から3Pシュートを含むアウトサイドの得点力を武器にストレッチビッグマンとして活躍。日本代表歴も豊富で、大学卒業後はトヨタ自動車を経てBリーグ開幕と同時に名古屋Dへ。安定感ある活躍でチームを支えている。 ※『月刊バスケットボール』2021年7月号掲載記事を再編集した記事になります

――バスケットを始めた年齢ときっかけを教えてください。

小学2、3年生からバスケットを始めました。軍隊の元プロ選手だった父の影響が強いですね。生まれは中国で小学5年生くらいまでは向こうにいたので、バスケットを始めたのは中国のクラブチームです。最初は父に教わりながらドリブルなどをつき始めたのですが、入っていたクラブチームは小学生から大学生まで在籍していて、年齢関係なくメンバーを交ぜながらプレーしていました。高校生や大学生がコートでプレーしている中で、僕らは端の方でドリブルをつくみたいな。『スラムダンク』の桜木花道的な感じでした。

最初はハマらなかったですね、半強制的という感じで特に何が楽しいという感じではなかったと思います(笑)。 バスケットが楽しいなって思い始めたのは中学で部活動に入って、大会などに出始めたときくらいです。中国では当時、大会などはなく基礎練習中心の日々だったので、試合に出る楽しさを覚えてから『バスケットって楽しいな』と思えるようになったんです。

――日本に来たのはどういった経緯だったのですか?

両親が日本で仕事を始めることになったのですが、最初僕は中国にあるおばあちゃんの家で1人、下宿生活をしていました。その後、親の仕事もだんだん安定してきて、日本で一緒に暮らすことになったんです。日本は本当に住みやすいというのが第一印象で、僕が日本に来た2日後が地元の小学校の入学式の日でした。右も左も分からない状態でしたが、僕もそのタイミングで小学校に入りました。僕は当時から性格的にも明るいキャラクターだったので友達もすぐできましたし、日本語を覚えるのも早い方だったと思います。 最初は岐阜県の可児市というところに住んでいて、その後、中学からは親の仕事の都合で愛知県に引っ越しました。

――当時から身長は高かったですか?

そうですね。中学入学時点で178cmくらいで、卒業する頃には193cmくらいだったのでゴリゴリのセンターでした(笑)。成績的には地区大会の2回戦、3回戦進出くらいでしたが、元々は結構メンバーもそろっていて地区優勝を狙えるレベルだったんですよ。でも、僕らが3年生になるときに新しい中学ができることになって、主力選手の半分が新しい学校に行ってしまって…。惜しかったですね。

――当時、得意だったプレーはやはりゴール下ですか?

そうですね。得意だったのはリバウンドとゴール下のシュートで、走るのは苦手でした。僕の実家は中華料理屋なので、中学時代は基本的に家でも中華料理を食べていました。だからずっと油がおなかの中に残っているような感じで、結構太っていて。…自分で言うのもなんですけど、めっちゃ貫禄のある少年だったんですよ(笑)。

宇都直輝らと共に中部大第一高を全国区へ飛躍させる

――中学卒業後は中部大第一高に進学しました。常田健コーチからの誘いだったのでしょうか?

そうですね。常田先生から誘っていただきました。熱心に誘っていただいて、その熱意に心を動かされた点もありましたし、家も自転車で15分くらいの距離だったのでそれも大きかったです。それと、中学生の頃にジュニアオールスターのメンバーに入ることができて、そこで宇都直輝(富山)ともう1人の選手と3人で「一緒に中部大第一に行こう」って話をしました。県内で強かった安城学園高や静岡の藤枝明誠高からもお誘いいただいたんですけど、当時は県ベスト8くらいでそこまで強豪ではなかった中部大第一に行って「そういうチームを強くするのって格好良いよな」って話を宇都たちとしていたんですよね。それが中部大第一を選んだ理由です。

実際に入ってみると本当に練習がハードで、1年生の頃は練習中に吐いてしまうなんてこともよくありました。常田先生のスタイルが走るバスケットだったので、毎日陸上部並みに走る練習が多かったですね。今考えると、よく耐え抜いたなって感じです(笑)。

――体型もかなり絞られたのではないですか?

だいぶ絞られましたね(笑)。ガリガリになるくらいで、ご飯の量が練習量に追い付かないようなイメージです。バスケットのポジション的には高校ではオールラウンダーという感じでした。もちろん、ゴール下のプレーがメインではあったんですけど、将来的に考えるとずっとセンターをやるようなポテンシャルはないと先生は考えていてくれたんだと思います。僕の中では将来的にプロになりたいというところまでのビジョンは広がっていませんでしたが、先生としてはそういう考えがあったのかもしれません。

高校3年生のときに初めてウインターカップに出場することができたのですが、そこで全国レベルを体感したときに『こんなにうまい選手がたくさんいるんだ』って実感しました。そう考えたときにまだまだ自分は力不足だなって感じていましたね。

――とはいえ県ベスト8のチームを全国大会レベルに押し上げ、3年時には夏冬共に全国ベスト16の成績を残しました。

バスケット人生の中で一番成長できたのも、一番良い経験ができたのも高校時代だったと思います。そこでようやく自分が目指すべき明確な目標ができました。インターハイとウインターカップを経験できたのですが、僕の中ではベスト16止まりと悔しい思いを味わいました。愛知県内では無敵というところまでなれたのに、何で全国では勝てないんだろうって。

――高校時代で印象深い出来事は何ですか?

うーん、何だろう? 練習中に宇都とはよくケンカしていましたね(笑)。バスケットの面で意見が食い違ったりしながら毎日バチバチやっていました。 それくらいお互いに負けず嫌いで真剣にバスケットに向き合っていたので、やられたらやり返すというのを繰り返して、だんだんヒートアップしていって…みたいな(笑)。でも、練習が終われば何もなかったように仲良くしていたので、オン・オフの切り替えはできていましたね。あと、チームメイトがしょっちゅう実家の中華料理屋に来ていました。それくらいチームメイトとは一緒にいましたし、高校時代はバスケット以外考える時間も余裕もありませんでしたね。1年365日のうち360日くらいはバスケットみたいなイメージだったので(笑)。

常田先生からはバスケット以前に、とにかくメンタル面について言われていました。負けず嫌いな性格も高校の練習の中でより出てきましたし、あとは諦めない気持ちとか。メンタル面での成長は大きかったと思いますね。気持ちが第一で、シンプルなバスケットで勝つ。そういうことを高校で学びました。

黄金期の青山学院大で主力となり数々のタイトルを獲得!

――高校卒業後は青山学院大に進学しました。

当時、U18の候補に選出されていたので、そこには強豪校の選手たちがたくさん集まっていて、大学進学の話にもなるんですよ。僕もありがたいことにいくつかの大学から誘いを受けたのですが、高校時代の悔しさがあったので、どうしても大学で日本一を経験したかったんです。だから、当時から練習が一番厳しいことで有名だった強豪の青山学院大に進学することを決めました。

大学のレベルというのは想像もできませんでしたし、僕が入学した当時の青学は全盛期のメンバーがそろっていたと思うんですよね。橋本竜馬さん(北海道)がいて、湊谷安玲久司朱さん(BEEFMAN・EXE)がいて、伊藤駿さん(秋田)、辻直人さん(広島)、比江島慎さん(宇都宮)というような感じでオールスター軍団だったんです。同期にも永吉(佑也/福岡)、畠山(俊樹/越谷)、小林遥太(仙台)とか。後輩にも野本建吾(群馬)や船生誠也(広島)、鵤誠司(宇都宮)がいるような世代でした。

そんなメンバーだったので、練習から競争もものすごかったです。とにかく試合に出ることで精一杯だったし、バスケットに対して考えることが増えました。どうやったら試合に出られるのか、うまくなれるのかって。高校まではそこまで考えなくても試合に出られていたので、大学1年生の頃に初めてずっとベンチに座っているという経験をしました。

――2年時からは主力として試合に出場し、プレータイムを得た中でインカレ優勝を果たしました。

関東トーナメント、新人戦、リーグ戦、インカレと4冠を達成しました。1年生の頃にも4冠を達成していたのですが、そのときはあまり試合にも絡めていなかったので…。ただ、主力として出場するようになった2年生の頃もいつベンチで干されるのか分からないという危機感を持ってプレーしていたので、慎重になったというか、チームや仲間に対しての責任感というのはすごく強くなりました。うれしいという気持ちもありましたが、責任感という方が大きかったですね。試合に出られない先輩たちがいる中で自分が試合に使ってもらっているんだから、活躍しないと先輩たちに申し訳ないという気持ちが強かったです。

青学では練習の質も高いし、トレーニングの厳しさが一番身に染みました。こんなにトレーニングをするんだって感じました。僕は円盤投げで全国優勝するようなゴリッゴリの選手と一緒にいつもベンチプレスをやっていました。もちろん重さの差はありますけど、いつもそういう選手と同じメニューをこなしていたので、それが練習よりもキツかったですね(笑)。

――3、4年時にはインカレの最優秀選手賞、関東トーナメントのMVPなど、個人賞も数多く受賞しました。この頃にはトップリーグ入りを見据えていましたか?

そうですね。卒業された先輩たちを見るとみんなトップリーグ入りをしていましたし、僕も頑張れば先輩たちのようになれるかもしれないという想像はしていて、3年生くらいから意識していました。

戦績で言えば、1つ上の比江島さんの代がインカレの決勝で東海大に負けてしまいました。それで4年生になってからは『何かを変えないといけない』と考えて、自分でチームを引っ張ってやるようにしていたんですけど、関東トーナメントで前十字じん帯を断裂してしまったんです。そこからインカレまでの5か月の中で何とか復帰することはできましたが、残念ながら優勝には届かず…。当時も優勝を狙えるメンバーだったんですけど、達成できなかったことが本当に悔しかったんです。それもあって次はトップリーグで、という思いでした。

不完全燃焼に終わった大学での思いをトップリーグで

――その後、トヨタ自動車(現A東京)に入団し、高校の同期だった宇都選手や東海大のエースだった田中大貴選手とチームメイトになりましたね。

まあ宇都はね、たまたまです!(笑) 大貴とは大学時代からすごく仲も良かったので、一緒にプレーしたいなって思って2人でトヨタに入りました。宇都と合わせてルーキー3人とも試合に出られていたので面白かったですね。入団してからすぐにバスケットを仕事として食べていくという面に関しての教育を受けました。青学の先輩だった正中岳城さんにもいろいろ教わりましたし、僕はPFでストレッチ4のポジションで、当然同じポジションには外国籍選手もいます。大学の最初の頃と同じようにとにかく試合に出ることで必死でした。

――外国籍選手のレベルの高さやフィジカルの強さはどう感じていましたか?

高校や大学の留学生とは比にならないレベルでしたね。僕は全盛期のジェフ(ギブス/宇都宮)と毎日マッチアップしていたんですけど、ヤバ過ぎました(笑)。そこでかなり鍛えられましたし、だからこそ試合に出ることだけにフォーカスしていました。

――スター選手ぞろいのチームの中でご自身の変化はどんなところでしたか?

正直、学生の頃はボールを持てば点が取れてしまうようなところがあったんですよね。でも、トップリーグに入ればそうはいきませんし、ゴール下には強くてサイズのある外国籍選手も多いです。それにトップリーグでは選手一人一人の役割がより明確に決められているなと感じました。自分の任された役割だけに集中して取り組むことで、結果が出せるという感覚はありました。

――Bリーグが開幕する2016年のオフに名古屋Dへの移籍を決断しました。

一番はプレータイムが欲しかったからです。当時、アルバルクにマイケル・パーカー選手(群馬)が帰化選手枠で入団して、僕とポジションがかぶってしまったんですよ。僕も若かったので『試合に出られてなんぼ』という思いもあって、思い切って移籍を決断しました。ドルフィンズは地元ということもあったし、梶山信吾HC(当時はアシスタントコーチ)からも熱心に誘われていたので。実は大学を卒業するときにも梶山HCからお誘いを受けていたんですけど、僕はアルバルクを選択したのでその誘いに応えることができませんでした。過去にそんなこともあったので、ドルフィンズに決めました。

――名古屋Dではトヨタ自動車時代とは違ったバスケットを経験したと思います。新しい発見や変化などもありましたか?

最初に感じたのはドルフィンズではアルバルクよりも自由度が高いバスケットをやっているということですね。僕自身のポテンシャルを引き出してもらえますし、ルールがある中でもより自分の持ち味を発揮しやすい環境だったなと個人的に感じています。

それにBリーグが開幕したことで観客の数はすごく増えましたよね。こうしてメディアにも取り上げられることが増えましたし、うれしいことだと感じています。県内でも声をかけられることも多くなったので、バスケットボールの知名度が上がったことが一番の変化だと思いますね。

――張本選手自身は日本代表にも多く選出されています。

日本代表での僕は3番も4番もやれるというポジションなのですが、そこには塁(八村/ワシントン・ウィザーズ)、雄太(渡邊/トロント・ラプターズ)、雄大(馬場/メルボルン・ユナイテッド)がいます。帰化選手枠でニック(ファジーカス/川崎)やアイラ(ブラウン/大阪)もいましたし、今ではライアン(ロシター/宇都宮)やギャビン(エドワーズ/千葉)もいるので難しいポジションですよね(笑)。

でも、そうした国内最高峰の選手たちに囲まれてプレーできるのは普段では絶対にあり得ないことなので、特に2019年のワールドカップ前の夏は僕にとってはすごく良い経験でした。 結果的にワールドカップ本戦のメンバーには選ばれませんでしたが、自分に何が足りないのかを学ぶことができたと思います。

――そういった経験を踏まえて、これから先のキャリアをどう過ごしていきたいですか?

まずは今夏の東京オリンピックで最終12人のメンバーに入ることが目標です。そのために合宿の期間から自分のバスケットをアピールできるように頑張りたいと思っています。もう一つはポジションアップです。Bリーグのルール改訂によって、日本人ビッグマンの需要が今までよりも少なくなり、帰化選手も増えてきた中でポジションアップができる選手がこれから先、より重宝されるようになるはずです。僕ももっと3番ポジションのスキルを磨いていかなければいけないと思っていますし、やることは山ほどありますが一つずつクリアしていきたいですね。

――では最後に、今後目指していきたい選手像を教えてください。

この人とマッチアップするのが嫌だなと思われるような選手になりたいです。僕は日本人選手の中では体が強い方なので、「天傑とマッチアップしたくないな」と思ってもらえたらうれしいですね。僕の長所の一つに日本人選手と外国籍選手の両方にマッチアップできるというのがあるので、それは自分のカラーとして持ち続けていきたいです。


Profile

張本天傑 Tenketsu Harimoto

チーム: 名古屋ダイヤモンドドルフィンズ

ポジション: SF/PF

生年月日: 1992年1月8日

身長/体重: 198cm/105kg

リーグ登録国籍:日本

出身地: 愛知県

出身校: 青山学院大学

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