「家族は見捨てていない!」断られても面会に “袴田事件”弟の無実訴え57年…姉の願い目前に 「余生は共に健康でのんびりと」

いわゆる「袴田事件」で3月20日、裁判のやり直しが確定し、無罪の公算が大きくなった袴田巖さん(87)。袴田さんの無実を57年にわたって訴え続けた姉のひで子さんが24日、SBSの単独インタビューに応じました。

<袴田ひで子さん>

「私はそんなに年月は気にしなかったの。57年今になって考えれば57年長いよ。だけど知らない間に57年経った」

袴田ひで子さん(90)。人生の半分以上を弟の無実の証明にささげてきました。

<24日に決定文を見せるひで子さん>

「郵送で来たのよ、巖に。私たちは東京までもらいに行ったけどね。『本件、即時抗告の趣意は理由がない』、ここだけ見た」

取材した日も日課のドライブに出かけた袴田巖さん。弟と姉の闘いは半世紀以上に及びます。ひでこさんと巖さん、2人は現在の浜松市西区雄踏町の出身。6人兄弟の末っ子が巖さん、3歳年上の姉がひで子さんです。

ひで子さんが33歳だった1966年、袴田家を取り巻く状況は一変します。巖さんが当時勤めていた旧清水市のみそ製造会社の専務の一家4人が殺害され、火を放たれる事件が発生。発生から49日後、当時30歳の巖さんが逮捕されました。

巖さんは裁判で一貫して無実を訴えましたが、1980年に死刑が確定。ひで子さんは亡くなった母親に代わって弟の裁判のやり直しを求め、活動を行ってきました。

<袴田ひで子さん>

「母親の辛さはね、もう想像絶するもん。母親に大して親孝行もできなかったで、ここらで親孝行するかと思ってやった」

死刑執行の恐怖におびえながら長年にわたり獄中で過ごした巖さんは、精神的に不安定な状況が続く「拘禁症状」を患い、「俺に姉はいない」とひで子さんとの面会を拒むようになります。それでもひで子さんは通い続けました。

<袴田ひで子さん>

「家族は見捨ててないよっていうことの、メッセージを送るために私は行ってた。だから面会ね、いくら断っても、きょうは面会できませんって断ってもまた来月行く」

逮捕から48年が経った2014年、静岡地裁は一度、再審開始とともに巖さんの釈放を決めました。

釈放以降、巖さんが生活を送るのはひで子さんが購入したアパートです。「弟が拘置所から出てきた時に住むところがないと困るから」とローンを組んで買いました。ようやく手に入れた姉弟の穏やかな生活。しかし、弟の身分は今も「死刑囚」。姉が望むのは「真の自由」です。

<袴田ひで子さん>

Q無罪が確定したら何をしたい?

「健康に気をつけて余生はのんびり。余生は巖に長生きさせて48年間の刑務所生活(で失った時間)を1日でも取り戻すようにね、元気に生きていこうと思う」

<3月10日袴田巖さん誕生日会見>

Qお姉さんはどんな存在?

「姉っていうことじゃあねえ、こき使うわけにはいかん」

余りに長すぎる袴田家の闘い。なぜ、ここまで長くなってしまったのか?2人の人生がこの国の裁判制度に疑問を投げかけます。

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