【著者に聞く】安部龍太郎『家康』(第一巻発売時インタビュー) 大河ドラマ『どうする家康』が放送中で注目を集める徳川家康。信長でもなく、秀吉でもなく、なぜ家康が戦国最後の覇者となれたのか――直木賞作家・安部龍太郎が挑む、かつてない大河歴史小説『家康』は2015年にスタートし、2023年2月で最新刊8巻が刊行。『Hanada』2022年5月号では最新インタビューが掲載されていますが、『Hanada』プラスでは記念すべき一巻発売時(2016年)のインタビューを特別掲載!

安部龍太郎(あべ りゅうたろう)1955年福岡県生まれ。久留米工業高等専門学校卒業。90年『血の日本史』でデビュー。2013年『等伯』で第148回直木賞受賞。20年第38回京都府文化賞受賞。『信長燃ゆ』『信長はなぜ葬られたのか』など著書多数。

戦国時代は高度成長期

──450ページ(注:単行本版)、一気に読みました。家康の人物像をはじめ、戦国時代の時代背景、合戦の解釈に至るまで、非常に新鮮な描かれ方でした。

安部 ありがとうございます。

──戦国時代をテーマに作品を書かれてきた安部さんが、なぜいま、徳川家康に取り組まれたのですか。

安部 30年近く、織田信長を研究し、戦国時代に関する小説を書いてきたなかで、次第に徳川家康という人物が魅力的に見えてきたというのが一つ。そしてもう一つは、家康が桶狭間から大坂の陣まで、つまり戦国史のすべてを生きたからです。

家康を中心に戦国時代を描けば、その時代を俯瞰してみることができる。さらに家康はその経験を次の時代に転換させ、250年にも及ぶ江戸時代の礎を築いた人物でもあります。長く戦国時代をテーマにしてきた私としては、最後は挑戦しなければならない人物だと思いました。

──まず「時代の俯瞰」という点から伺いたいと思います。従来、戦国時代は領地という「面」の取り合いだと一般的には認識されてきました。しかし今回の作品は、経済の流れや流通を意識し、その拠点を押さえることの重要性が信長をはじめとする大名たちの言動を通じて書かれています。

安部 長く戦国時代について調べたり考えたりしているうちに、日本の戦国史の認識が基本的に間違っていたことに気付いたんです。その原因は、江戸時代の史観によって解釈された戦国時代の認識がいまも続いてきたことにあります。

一つは、士農工商の身分制度。その固定観念があったために、戦国時代についても流通業者や商人の活躍がほぼ無視されてきました。結果、大名たちが戦っていたのは港や街などの流通拠点を押さえるためだったという点も見落とされてきたのです。

そしてもう一つが、鎖国史観。江戸以降の歴史観は基本的に鎖国を前提としており、戦国時代も鎖国的な価値観、つまり国内で完結した形で語られてきた。そのため、戦国時代に盛んだった外国との交易や技術の伝播については注目されないままでした。

実際には、戦国時代は世界の大航海時代に当たります。スペインやポルトガルなどがアジアに進出すると、イギリスやオランダもあとを追った。日本にもその波が押し寄せていた。いまのグローバル化と全く同じ事態に直面していたのです。その背景のなかで、日本に宣教師がやってきて、鉄砲が伝来したんです。

日本も石見銀山から銀が大量に産出されるようになり、いわば・シルバーラッシュ・の時代でした。南蛮との交易で、海外の品々も国内に大量に流れ込んできた。日本は未曾有の高度経済成長期でした。その証拠が巨大な城の建設ラッシュであり、安土・桃山時代の豪華絢爛な文化の隆盛だったのです。

──教科書的な日本史では「幕末に黒船が来て、ようやく日本は西洋と本格的に接点を持った」ように思いがちですが、その認識が一変しました。

安部 1543の鉄砲伝来を西洋との接点の始まりだとしても、鎖国が始まる1630年までに90年間もあった。90年というと、明治維新から昭和20年の間よりも長い期間です。その間、日本はグローバル化の影響を受け続けていて、結果として90年後に鎖国を選んだんです。

このグローバル化にどう対応するかが、当時の信長、秀吉、家康が直面した課題だった。その課題は、貿易の実利と軍事物資の入手をどうするかという、いまの日本が直面している課題と全く同じです。「国を開くか、閉ざすか」は、いまに限らず日本にとって永遠のテーマなんですね。

そして経済や貿易が盛んだった戦国時代は、輸入ルートや流通を押さえた人が勝った。その事実を知れば、戦国史が一変しますよね。守護大名制がなぜ崩壊したかもわかります。それは農本主義的な体制だったからで、もちろん、軍勢の供給地としての農地は重要でしたが、領国や石高、つまり農本主義の発想から抜けられなかった守護大名たちは、時代についていけなかった。

一方で、南蛮貿易が始まり、高度経済成長をしていくなかで、流通にかかわり、港や街道を押さえた大名たちが台頭してきた。戦国時代は重商主義だったという前提がなければ、守護大名たちが滅びた理由も、大名たちが天下統一を目指した理由もわからない。それは、国取りなどではなく、「商業、流通圏を統一する」という意味だったんです。

それなのに、江戸時代に作られた史観を、明治維新後もほとんど是正できなかった。そして、それはいまも続いているのです。

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

信長はスペインに学んだ

──家康が信長と一緒に、ルイス・フロイスからどのように日本までやってきたのかを地球儀を見ながら聞く場面では、「世界史のなかの日本」を強く意識させられました。家康と同時体験をしながら、当時の国際情勢を教わった気分でした。

安部 フロイス自身、ポルトガルから非常に長い旅をして日本に辿り着いています。私は先日、ポルトガルに行って、彼らが出港したリスボンの港に立ちました。フロイスは17歳でリスボンを離れ、64歳で長崎で亡くなるまで、一度も国に帰っていない。

実際に足を運んでみると、フロイスの『日本史』に対する読み方も変わってきます。「そうか、17歳でこの地を離れ、遙か遠い異国の日本までキリスト教を広めるために来たんだな」と思うと、彼の信念が伝わるようでした。

──信長の、鉄砲隊と槍を組み合わせた戦術が「イスパニア(スペイン)のテルシオ部隊に学んだものであった」との記述には驚きました。これまでは、信長の独創性によって鉄砲をうまく使ったと言われていましたが。

安部 鉄砲という新兵器が入ってきたときに何が起きたかを考えてみる必要があります。いまだって、海外から新しい商品が入ってくれば使い方も一緒に学ぶはずなんです。それと同じことが、当時も起きていたと考えるほうが自然です。

日本が鉄砲を手にするより遙か以前から鉄砲を使っていたヨーロッパは、それを使った戦術や築城技術に長けていた。宣教師のなかには軍事顧問団のような人もいましたから、そこで学んでいるんです。

安土城考古博物館には、「三間半柄の槍」と言われる6メートルもの槍が飾られています。『信長公記』には「槍は長いほうが有利」と書いてありますが、ここまで長くては従来の方法では使えませんよね。

──長い槍は刺したり振り回したりするのではなくて、立てた状態から敵の頭上に振り下ろすんだという解説を見たことがありますが……。

安部 それも3メートルがせいぜいでしょう。では、6メートルの槍をどう使ったのか。それが本にも書いた、テルシオ部隊の戦法なんです。鉄砲隊を長槍隊が囲んで槍衾を形成し、弾込めの間、敵の接近を防ぎ、その隊形を保ったまま前進していく。そういった戦法を、信長は鉄砲と一緒に入手していた。

──鉄砲という物資だけでなく、情報も戦局を左右したんですね。

安部 鉄砲が戦国時代を生み、鉄砲を活用する術を身につけたものが勝ったのです。

活用においては、もちろん流通も影響してきます。火薬の原料である硝石はほぼ100%、弾の原料である鉛も80%が輸入に頼っていました。それをどうやって手に入れるかに大名は頭を悩ませてきたし、それができた人が勝ち残った。

「飛び道具とは卑怯なり」というのは、流通を押さえられなかった人の言い分であり、さらに言えば、平和な時代になった江戸時代に鉄砲を持たなくなった人たち、持たせないようにした人たちの感覚によるものです。

──クライマックスの三方ヶ原の戦いも、従来の解釈とは異なっています。通説では、「老獪で戦上手な武田信玄に手玉に取られて、若き徳川家康が大敗した」という構図でした。

安部 従来の見方は非常に講談的、軍記物的で、人間的リアリティがありませんでした。この時、家康は31歳で、現在で言えば40代中盤くらいの中堅どころ。決して若手ではありません。直前には外交戦で信玄に勝ってもいて、経験も力量もかなり積んだ状態でこの合戦に臨んでいます。その家康が出陣するからには、ある程度の勝算はあってのことだろうと考えました。

実際に戦場の跡地にも足を運びました。浜松駅のレンタサイクル屋で自転車を借りて、家康が通った道を走ってみたのです。合戦時、どのような景色を家康は見ていたのか。どういう地形だったのか。走り回ってチェックして、どのように布陣していれば合理的なのかということを、身をもって確かめるのです。

そうすると、地図では分からなかったことが分かってきます。自分の身体感覚で地形をまなければ、戦う人たちのリアリティや、実際に人間の体がどう動いたのかということは理解できませんから。

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』

「偉大なる凡人」の姿

──火縄銃も実際に撃っていらっしゃるとか。

安部 縁あって、駿府鉄砲衆の足軽をしています(笑)。鉄砲を打つ手順を自分で覚える必要があるわけですが、実際にやってみると、「これで雨が降ったら大変だぞ」と分かる。火薬が濡れてしまったら、筒のなかを掃除して乾かし直さなければなりません。戦場でそんなことをやっていたらすぐに敵にやられてしまう。実際に体験してみると、そういったちょっとしたことが命を左右するのだと身を持って分かるんです。

──家康の魅力についても伺います。家康は「幼い頃から苦労して、我慢して我慢して最後に報われた人」とされがちですが、第一巻で描かれている19歳から三方ヶ原までの間でも、それに留まらない非常に魅力的な人物像が伝わってきます。

安部 家康という人物は、江戸時代には「神君」と呼ばれ、神のような存在として語られてきました。しかし明治以降は、江戸幕府を否定する教育方針を取ったせいで「タヌキおやじ」にされてしまい、その人物評価がやはりまだ続いています。

しかし、私はそのいずれも間違っていると思っています。「人間・家康」を素の姿にすると、どういう人物として浮かび上がってくるのか。家康は「偉大なる凡人」と言えるのではないでしょうか。

向上心も強いけれど、「反省力」も強い。たくさんの苦労を乗り越えて、その反省を活かしながら成長し、最後には江戸幕府250年の世の平和の礎を築く。世界史上、唯一と言っていいほどの偉大な功績を成し遂げた人物です。

どうして「凡人」がそれほどまでに「偉大な」人物になることができたのか。これを、神でもタヌキでもない「人間・家康」の現場から物語にしていこうというのが、この作品の最大のテーマです。

──19歳の家康が、家臣を生かすために切腹を決意するものの、登誉上人に止められて思い直す場面が非常に印象的でした。この経験が、家康の人格や人生観の形成には大きかったのではないでしょうか。

安部 そうでしょうね。10代の終わり頃というのは人生で最も多感な時期で、死を意識したことのある人も少なくないはずです。その悩みが深刻であればあるほど、学ぶものも大きい。

家康は登誉上人から、「厭離穢土、欣求浄土」の教えを受け、再び立ち上がります。「厭離穢土、欣求浄土」とは、「汚れた地を離れ、極楽浄土を求め祈る」ということ。戦乱の世を治め、安定した平和な社会をつくりたいと決意したのです。

──自らの馬印にまでしていた。

安部 なみなみならぬ決意です。この教えがあったからこそ、我慢強く、一度裏切った家臣であっても許して受け入れることができたのでしょう。自分が苦労しているから、人の痛みもよくわかる。非常にやさしい男だったと思います。

──自分と同様、人質に出されていた子供たちに対する情愛も深い。しかし歴史の行く末、つまりその後の家康と嫡男・信康の身に起きること(内通疑惑で信康を切腹させる)を知っている私たちとしては、その情愛の深い描写に切なくなります。

安部 イギリスの詩人、ジョージ・ゴードン・バイロンが「人間よ、汝、微笑みと涙との間の振り子よ」と言っています。その振れ幅が大きいほど人間は魅力的なんです。喜びと悲しみの振れ幅を大きく描くのはドラマツルギーの基本でもあり、小説家の力量が問われるところでもあります。

歴史小説の醍醐味とは

──この作品からは、登場人物の人間的な情緒が伝わってきます。そしてそれは、いまの私たちとも通じるところが大いにありますね。

安部 そうですね。それがなければ、小説である意味はないのではないかと思うんです。これまでの史観に乗っかって書くだけでは、講談や軍記物の世界から抜けることはできない。大事なのは、「人間はどう生きたか」というところです。

──女性たちも自らの意思を持ち、生き生きとした姿で描かれています。

安部 「男性の意思に翻弄される女性」という描き方もステレオタイプなものですが、これも江戸時代の儒教史観からくるものです。良妻賢母主義を説く「女大学」的な見方で女性を描けば、たしかに時代性がよく描かれているかのように思われるかもしれない。

しかし実際はそんなことはなくて、当時の女性たちが書いた手紙を読んでみると、いまの我々と全く変わりません。歴史小説が現代に書かれる意味はそこにあって、いまの私たちが読んでも十分に納得できる形でなければなりません。

歴史小説の難しさは、歴史に引きずられ過ぎると人物が立たないし、人物を思うように動かそうとすれば歴史を無視せざるを得ないところもあるという点です。そのバランスをどうとるか。これはもう、長年の経験と努力でしょうね。

──そのバランスのなかで描かれる信長と家康の関係性も非常に面白い。信長の考えを聞いてもピンと来ていない様子の家康に対し、信長が「腐った魚を見るような目」を向ける。

安部 信長というのはそういう男ですよ。天才ですから、「お前の理解もその程度か」と思えば侮蔑の対象になる。デキない奴は腐った魚と一緒です(笑)。

──しかし、その直後にみたらし団子を振る舞ったり、一緒に風呂に入って背中を流してやったりと、家康に対しては冷徹なだけではない面が描かれています。

安部 6歳から8歳までの間、人質となっていた家康を信長は見ていますからね。「こいつ、かわいいな」という思いがどこかにあったのではないでしょうか。

──大航海時代という国際情勢や商業権益や流通を押さえたものが勝つ、という点についても、家康が信長から学んだ部分は大きい。

安部 はい。本にも書きましたが、桶狭間で負けた家康は、何とか岡崎城で独立した。これから東三河をどう統治するかという時に、最初は今川に属して守護領国体制のなかで生き残ろうとした。しかし、その今川が桶狭間で信長に敗れるわけです。

信長は、伊勢湾海運を押さえて巨大な富をんでのし上がってきた。家康の伯父にあたる水野信元も知多半島の港を押さえているから、信長とは港を利用し合う関係。その水野信元の仲介で信長と清洲同盟を結び、この段階で家康は領国経営の「もう一つの方法」を知ったんでしょう。

間違った歴史観に一撃

──その家康の覚悟について、印象的な一文がありました。〈青年のうちに高い理想を持ちえないものは、生涯にわたって現実に引きずられた低い軌道で生きていくだけ〉。これは安部さん自身のお考えでもありますか。

安部 そうです。それこそが、まさに私が小説を通じて果たそうとしていることです。具体的に言えば、一つは、ここまでにも触れてきたように、日本人のこれまでの歴史観を壊すこと。なぜ壊さなければならないかというと、間違った歴史観が間違った意識をつくっているからです。

もう一つは、これは最終的な理想ですが、私の小説を読んで「救われた」と思ってくれる人が出るようなものを書きたいということです。なぜ作家を目指したかというと、つまるところ、小説によって私自身が救われたからなんです。

まさに、家康が登誉上人に救われたように、私は戦後無頼派の小説に救われました。だから私自身も、こんなふうに人を救うことのできる仕事をしたい、と思って作家を目指したのです。

人間は、時間軸と空間軸に縛られています。どの時代に、どこに生まれたかによって、意識と生き方がほぼ規定される。そのなかで人々がどう生き、課題を乗り越え、次の時代を生み出してきたのか。

人間の生きざまを読むことによって、読者が作品を読んで「私の抱えている悩みと一緒だ」 「彼らはこんなふうに乗り越えたのか」と納得してくださったら、一つの袋小路を抜け出すきっかけになるんじゃないか。そう思ってもらえる作品を書くことが作家としての理想であり、志です。

──その作家人生の「集大成」と仰っているのがこの『家康』。今回は第一巻までのお話でしたが、この先もとても楽しみです。

安部 第二巻に収録される部分は、来年(注:2017年)2月から新聞連載がスタートします(岐阜新聞他)。10カ月かけて連載し、一冊の本にまとめるというペースを、完結までにあと4回繰り返すことになります(注:単行本版のペース。現在は文庫のみでの発刊)。残りの人生を賭けた、まさにライフワークですね。のちに、「家康を書いて死んだ」と言われるくらいの気持ちで取り組みたいと思います。

(取材・構成:梶原麻衣子)

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