藤沼伸一(映画『GOLDFISH』監督 / 亜無亜危異)- 還暦新人監督のデビュー作は自身のすべてをモチーフに、死の波を泳ぐ金魚を人生になぞらえた骨太の人間ドラマ

金魚は煌びやかで輝いて見えるけど、自由に川を泳ぐことはできない

──伸一さんは子どもの頃から映画を観るのが大好きだったそうですが、どんな作品が特に好きだったんですか。

藤沼:アメリカン・ニューシネマの作品群とかかな。何日か前に『バニシング・ポイント』の4Kデジタルリマスター版を観に行ったら、『GOLDFISH』とポスターが横並びになっていて、小さいときの自分に言ってあげたかったね。「大人になったら自分でつくった映画のポスターがアメリカン・ニューシネマを代表する作品の隣に貼られるぞ」って。あと、親父がヤクザ映画が好きだったから『仁義なき戦い 広島死闘篇』は封切りの日に観てた。一緒に観させられたっていうか。その延長なのか、韓国のノワール映画とかも好きだね。

──初監督作品の題材として自身のバンドを選んだのは、一番描きやすかったからですか。

藤沼:マリ(逸見泰成)が亡くなって今年で7年目になるんだけど、ご承知の通り当初は5人でライブをやる予定がダメになって、4人で“不完全復活”することになって。ちょうど活動を始めたところに亜無亜危異がデビューした当時のスタッフが声をかけてくれたんです。今は映画関係のプロデュースの仕事をしていて、映画を撮らないかと。それならノワール映画を撮りたいと言ったんだけど、そんなものは自分の金で撮れとか言われて(笑)。モチーフはあくまで亜無亜危異で、そのメンバーが監督する作品なら出資してくれるところがあるかもしれないという話でね。それならやってみようと引き受けました。

──映画を撮るならドキュメンタリーではなく劇映画にしようと最初から考えていたんですか。

藤沼:ドキュメンタリーを撮るにしても映像的な素材が足りないし、なんか観る側を限定してしまう気がしてね。最近だとFOOLSの映画(『THE FOOLS 愚か者たちの歌』)は面白かったけど、バンドのドキュメンタリー映画ってだけで凄くカテゴライズされちゃうっていうかさ。映画のテーマっていうのは地球上、世界中の共通項であってほしくて、たとえば暴力や失恋、親の死、セックスだったり、誰しもが共感共鳴できるものがいい。バンドだけがテーマだと、バンドに関係のない人には最初から観られなくなるから避けたかった。八百屋さんにも魚屋さんにも観てほしいから、バンドを題材にした劇映画、フィクションという形をとることにしたんです。その意味では陣内孝則が監督をやった『ROCKERS』に近いのかもしれない。

──亜無亜危異を題材にすることで気恥ずかしさみたいなものはありませんでしたか。

藤沼:特になかったね。これはあくまでフィクションだという考えだったから。『GOLDFISH』というタイトルがまず最初に思い浮かんだんだけど、“GOLDFISH”とは“金魚”のことで、つまりエンターテイメントの世界で生きる人たち…ミュージシャンでも俳優でもダンサーでも誰でも、狭い金魚鉢の中で生きる金魚みたいなものだと。金魚はそもそも鮒を人為的に品種改良した観賞用の魚だし、誰かが支配、管理して見せ物にしているエンターテイメントを生業にしている人たちを金魚の姿になぞらえている。遡れば18世紀の半ば、モーツァルトだって宮廷音楽家として仕えていたわけで、宮廷から「こういう曲を書け」と言われてそれに従ったからこそ生き延びられた。映画の冒頭でイチがスタジオに貼ってあるウッドストック・フェスティバルのポスターを見つめるシーンがあるけど、あのフェスの会場となる土地を提供したのはロックフェラーだったと言われている。金魚鉢を管理しているのは意外とそういう富裕層なわけ。そうやって支配する者、される者の構図は昔から何一つ変わっていないし、その縮図というか有様を『GOLDFISH』というタイトルに込めたつもりなんです。それなら題材を亜無亜危異にすれば伝わりやすいと思ったし、若くして死を望む、死に惹かれるのはミュージシャンに限らず芸術家にも多いじゃないですか。それは延々と金魚鉢の中にいる苦痛や苦悩にリンクさせられると思ったんです。金魚って結局、煮ても焼いても食えないし、何のために生きているのかと言えば見られるためだけに生きている。見た目は煌びやかで輝いて見えるけど、自由に川を泳ぐこともできないし、観賞用の金魚鉢の中でしか生きられない。

──エンターテイメントの世界には搾取する者、される者がいて、反体制であるパンクロックですらその構図は同じであるというのは、亜無亜危異が“不完全復活”後に発表した『パンクロックの奴隷』、『パンク修理』の世界観と相通ずるものがありますね。

藤沼:まあね。あの2枚は俺は9割方、作詞・作曲をしてるから。

あくまでフィクションで、実在の人物に寄せたいわけじゃない

──そうしたテーマがある一方で、亜無亜危異の5人をモデルにした青春群像劇としても肩肘張らずに楽しめますね。プロの役者はやはり凄いなと思ったのは、イチを演じる永瀬正敏さんが途中から伸一さんにしか見えないことなんですよね。

藤沼:そうでしょ? そこはちゃんと見出しにしといてね(笑)。永瀬さんは実在する俺の役をやるわけだし、わからないことがあればそこにいる俺に訊けばいいみたいなことをインタビューで話してたね。休憩中もよく一緒に食事をしたし、ずっと観察されていたのはやめてほしかったけど(笑)。

──伸一さんのギターとピックを永瀬さんにプレゼントしたそうですね。

藤沼:うん。永瀬さんも昔バンドをやっていたそうだし、ギターも軽くなら弾けるってことで、ある程度の下地はあったのかな。映画の中で使う曲を俺が弾いたり、立ってアクションするのを永瀬さんが撮っていたから、それを持ち帰って見て研究されたんだと思う。その甲斐もあったのか、撮影の途中から永瀬さんの立ち方とかポーズの決め方が凄い俺に似てきてさ。あまり俺に寄せるとコメディになっちゃうからやめてねと言ったんだけど(笑)。

──アニマル役の渋川清彦さんも(仲野)茂さんにしか見えませんね。モヒカンヘアもそうだし、ちゃんと葉巻を吸っているし。

藤沼:茂は昔、葉巻を吸っていたからね。茂の役って簡単なんだと思うよ。がさつでぶっきらぼうに振る舞えばだいたいあんな感じになるじゃん?(笑)

──そうしたキャスティングの妙もあり最後まで飽きずに見られますが、配役はどう決めていったんですか。

藤沼:脚本は映画の大事な設計図なので、完成するまでに2年くらいかかったのかな。脚本家とディスカッションを重ねていく中で登場するキャラクターが徐々に明確になっていって、その過程でスタッフのみんなといろいろ話し合ってキャストを決めました。最初、イチ役はトム・クルーズがいいって言ったんだけど、それじゃ字幕付きになっちゃうよって(笑)。あと、若いイチ役はモーガン・フリーマンがいいって言ったんだけど、逆に歳喰ってるじゃないかと言われて(笑)。まあそれは冗談として、結果的にどの役もバッチリでしたね。

──ハルを演じた北村有起哉さんも素晴らしいですね。どう見ても晩年のマリさんにしか見えなくて。

藤沼:昨日、『ヤクザと家族 The Family』のBlu-rayを観てたんだよ。舞台挨拶の研究をしようと思って(笑)。それにも北村さんがヤクザの役で出ていたけど、鬼気迫る演技で凄かった。北村さんは『浅田家!』を映画館で観て、ちょっとしか出てなかったけど観客の心をギュッと掴む役所でさ。東日本大震災で被災した福島に住む人の役で方言も完璧で、本当に現地の人を登場させたのかな? って思ったくらい。そんな経緯もあったので、スタッフからハル役に北村さんはどうか? と提案されたのは意外だったけど、引き受けてくださって嬉しかった。ちなみに言うと、北村さんは亜無亜危異のドキュメンタリーも観てくれたし、マリの墓参りにも行ってくれてね。

──テラを演じたのは怒髪天の増子直純さんですが、大河ドラマにも出演経験があるなど演技にも定評がありますね。

藤沼:黒澤明ね(『いだてん〜東京オリムピック噺〜』)。増子はやっぱり上手いよ。今回もKEE君(渋川清彦)と永瀬さんと3人で揃うシーンがあるけど、全然物怖じしてなかったしね。バンドが本業だから普通はもっと緊張すると思うけど、現場では一切なかったから。

──アニマルとイチがテラにまたバンドをやろうと会いに来るシーンですね。アニマルとテラのやり取りがアドリブっぽく見えましたが、本作ではわりと即興の演技を活かしているんですか。

藤沼:永瀬さんがよくアドリブを入れてくるんだよ。それを受けた役者同士の会話が面白ければOKだし、ケースバイケースだね。

──ヨハン役の松林慎司さんはコバンさん(小林高夫)に寄せている感じではないですけれども、バンドの屋台骨を支えるドラマーらしいムードメーカーっぽさをしっかり醸し出していましたね。

藤沼:あくまでフィクションだし、俺的にはそこまで似てなくても良かったからね。実在の人物に寄せたいわけではなかったしさ。

──そうした壮年期の5人も良いですが、若くてやんちゃな頃の5人を演じた皆さんも良かったですね。特に若い頃のハルを演じた山岸健太さんには光るものがあって。

藤沼:役者としてバリバリやってる子たちじゃないし、そのぶん今の20代のリアルな感じを出してくれたような気がします。

デフォルメしたドラマとして描くことで訴えたいことが鮮明になる

──劇映画という虚構の世界だからこそ、逆に真意やリアリティを膨らませることができると思うんです。イチとハルとアニマルが歩道橋で語らうシーンで、ハルが「イチは俺に“バーカ”って言わないよな」と話しますが、あの微妙な距離感や関係性はドキュメンタリーでは出せないだろうし、その意味でも虚構の世界だからこその雄弁が成立するというか。

藤沼:フィクションならだいぶデフォルメできるからね。晩年のハルはアルコールと女に依存するようになって人としてダメになるわけだけど、マリのファンはあんな描き方をして怒るかもしれない。だけどああいうデフォルメしたドラマとして描くことで俺が訴えたかったことが鮮明になるんだと思う。それは脚本家の港(岳彦)さんと何度も話し合ったんだよ。俺が「実際のマリはこんなに酷くなかったですよ」と言っても、「いや、ドラマとしてはこれくらい誇張したほうが絶対にいいんだ。そうじゃないとドラマとして成立しないんだから」って言われて、ああ、そうだなと俺も思って。

──ちょっと話が逸れますが、伸一さんとマリさんの関係性は実際のところはどうだったんですか。同じギタリストとは言え、プレイヤーとしてのタイプも評価の受け方も真逆と言っても過言じゃないと思いますが。

藤沼:デビュー当時の亜無亜危異はマリがスポークスマン的役割としてどこでも喋って、茂はボーカルで目立つと。俺とコバンと寺岡(信芳)は後ろのほうにいた目立たない感じだったけど、役割としては音楽をしっかりやればバランスが取れるだろうと考えた。それで俺はレゲエやファンク、ブルースといったパンク以外のジャンルを聴きまくっているうちにJAGATARAのOTOやEBBYに「こんな音楽もあるよ」といろいろ教わって、FOOLSのメンバーなんかと仲良くなったりして…そうこうしてるうちに俺のギタリストとしての腕がメキメキと上がってきて、徐々にバランスが悪くなってきた。マリはマリで、それまで通りバンドのスポークスマンでいてくれたら良かったんだけど。

──ストーンズで言えば、キース・リチャーズとブライアン・ジョーンズの関係性に似ていたのかもしれませんね。

藤沼:うん。あるいは俺たちが寄せちゃったのかもしれないけどね。

──どちらが良い悪いではなく、変化を受け入れられる人と受け入れられない人の違いという言い方もできるのではないかと思いますが。

藤沼:俺はもともと変化を受け入れやすいタイプなんだよね。セックス・ピストルズは実はマルコム・マクラーレンの操り人形であって偽物だったんだってことで、ジョン・ライドンがパブリック・イメージ・リミテッドを始めるわけじゃない? あれは俺、やられたー! って思ったわけ。当時はみんなピストルズのほうが絶対にいいと心酔してたけど、あんなのは嘘っぱちだとか、ゴロッと何もかも変えられることに俺は凄いドキドキして、嬉しくなっちゃうほうだった。そうやって変化し続ける存在のほうが俺は好きだったし、周囲とは子どもの頃から1対9で少数派だったね。ジミヘンも短い生涯の中で音楽的にいろんなチャレンジをして変化し続けたでしょ? 俺はああいうのが好きだったな。レッチリが出てきたときも興奮したもんね。新しもの好きって言われたらそれまでなのかもしれないけど。

──1997年当時、『ディンゴ』のようなデジロックを大胆に導入したアルバムを作る発想は伸一さん以外にいなかったでしょうしね。

藤沼:もちろんそういう新しい発想が嫌いな人、昔ながらのものを好きな人は絶対いるだろうけど、ビートルズだってずっと変化し続けたわけだからね。最後までリーゼントに革ジャンのままだったら今日ここまで聴き継がれることはなかったはずだしさ。

──5人の友情は変わらないはずなのに関係性は歳を重ねて変わっていき、パンクロックの在り方も時代の流れと共に変わっていく。それでも万物流転、何ものも絶えず変転してやまないというパンクの本質は変わらない。不変なれど普遍、普遍ゆえの不変という、まるで禅問答のような問いが『GOLDFISH』には通底しているようにも感じます。

藤沼:パンクロックをやる前に、俺たちも人間だから。金魚ではなく鮒に戻ったときにどんな泳ぎができるんだろう? と思うし、金魚鉢を出てみれば八百屋さんや魚屋さんと同じ境地になれるのかもしれないし、IT関係の人とも同じなのかもしれないけど、金魚というカテゴライズをされた途端、その様式美に凄く囚われてしまう。良い悪いは別としてね。それは以前、町田(康)とも話したんだけどさ。エンターテイメントという様式美に感化されていると、あるとき死神が見えたりするかもね、なんて話して。じゃあその死神の役をやってよってお願いしたらOKをもらったんだけど(笑)。

──町田さんの怪演は本当に不気味ですね。まるで屍を養分にして生きているような役で。

藤沼:町田が死神を演じることだけは、俺は最初から譲らなかった。ああいう大事な役は映画の世界だと最初から決まってるものらしくて、なおかつ彼らの想定する死神も黒いパーカーを頭から被って顔も見えないという如何にもな感じだったんだけど、俺はそんなの絶対にイヤでさ。死神なんだから逆に白のマオカラーで、それを着た町田で行くぞとずっと決めてた。町田は普段からあんな感じで絶対ハマると思ってたから。あいつとはミラクルヤングで一緒にやってたし、それ以前からいろいろと交流があったしね。

イチの娘だけが管理された金魚鉢の世界を理解している

──映画監督は撮影、照明、録音など各セクションからありとあらゆるジャッジを迫られるじゃないですか。そういうことには上手く対応できましたか。

藤沼:みんなうるさいんだよね。夜中でも「ここはどうしたらいいんでしょうか?」とか平気で電話してきてさ(笑)。でも撮影も照明も録音もそれぞれプロの集まりだし、みんなアーティストと言うよりも職人さんなんだよね。俺が相談したいことがあると的確に答えてくれたしさ。たとえば「この藤沼組で必殺技を出してよ。××組では出せないやつをやってみてよ」なんて言うと、「やっていいんですか!?」ってノリが良くなる(笑)。それはスタジオ・ミュージシャンとして「ここはこんなふうに弾いて」とか言われるよりも「好きにギター・ソロを弾いてみて」と言われたほうが俄然やる気が出るのと同じなんじゃないかな。あと、主演の永瀬さんが凄く自由に演技をされる方なので、基本的にライブを撮る感覚でいこうとスタッフとは話していました。絵コンテもきちんと作らなかったので、ライブ感覚を重視するとスタッフに緊張感も生じるじゃないですか。それぞれが自分の腕試しみたいになるからね。

──ということは、伸一さんとしては全体を取りまとめるバンマスみたいな役どころを求められたと?

藤沼:そうかもしれない。映画監督をやってる人たちにも事前にいろいろ聞いたんだよ。彼らが言っていたのは、スタッフに嫌われたらもうおしまいだと。そんな話を聞いて、たとえばどこかのセクションは弁当が楽しみだったりするから、「今日は車移動で中華弁当がこぼれそうになってごめん。明日は違うのにするね」とか言ってみたりして(笑)。でもそういう気遣いをするのは全然イヤじゃなかったね。

──チームで創作するという意味において、バンドと映画は似ていますか。

藤沼:全然似てないね。映画のチームはスペシャリストの集合体で、こういうテーマで行きたいとボールを投げると事前に凄く勉強してきて「こんなふうに撮るのはどうでしょう?」と的確に対応してくれるし、いろんなアイディアを出してくれる。ただ共通してるのは、パワハラみたいなことをするとモチベーションが絶対に下がるってこと。「なんだテメェ、馬鹿野郎!」なんてスタッフを怒鳴りつけてもいいものは決して生まれないし、頭ごなしに怒る×××××みたいな人は俺も音楽の現場でさんざん見てきたから(笑)。それに発奮して「ヨシ、やってやろうぜ!」とは絶対にならないし、それで良い演奏になることはないからね。

──この『GOLDFISH』では5人の群像劇という本筋とは別に、イチの一人娘であるニコ(成海花音)がある種希望の象徴として描かれていますね。

藤沼:それもまたフィクションで、実際の俺には息子がいるんだけど、女性の持つスピリチュアルというか神秘的な部分がわかりやすく伝わるかなと思って。わざとショートヘアにしたのも、学校の机に“宇宙人”と落書きされているのも学校で馴染もうとしていないことの表れで、異性の目を気にしているところもないというか。あと、ニコが空を見上げるといつも水の中にいるような感じになる。つまりこの世界もまた金魚鉢の中であるということをニコだけは気づいているのを表現したかった。本当は役名を巫女を由来とするミコにしようとしたんだけど、それじゃあまりにストレートすぎるってことでニコにしたわけ。だけど俺としては、この世界は誰かに管理されていて、自分たちは金魚鉢の中にいる金魚みたいなものなんだ、中には死神が垂らした糸に喰いついて逝ってしまったハルみたいな人もいるんだっていうのを瞬時に嗅ぎ取るキャラクターがほしくて、ニコにその役割を担ってもらった。絵を描く子ってそういう鋭い感性を持ったイメージがあるし、だから最後にガンズ(銃徒)のポスターの上に絵を描いて全部消して、金魚として旅立たせるというアイディアが思いついたんだけどね。

──その意味でも、実に多層的なテーマが盛り込まれている重厚な劇映画と言えますね。

藤沼:パンクロッカーが監督した映画じゃないみたいでしょ? 暴れん坊の藤沼じゃないみたいと書いておいてください(笑)。

──構想、撮影、編集などその都度ご苦労があったと思いますが、とりわけ心血を注いだのはどの場面でしたか。

藤沼:どうかな。それぞれ大変だったけど、俺はわからないこと、難しいことはすぐ人に訊いちゃうので。いい映画にしたいという着地点は見えていたので、その経過として今日はこの辺をクリアにしておけば着地点に近づけるなというのを絶えず考えていました。寝不足とかはあったけど、苦労らしいことを特に苦労とも思わなかった。助監督には撮影中、車の中で15分でもいいから絶対に寝てくれと言われたけどね。寝ないとジャッジが凄く甘くなるからって。

──監督としてOKを出すジャッジのポイントは厳しかったんですか。

藤沼:そうでもないよ。役者さんのクオリティが総じてかなり高かったし、どこをどう撮っても大丈夫だったから。セリフを噛んだり、何かの物が落ちて音が入ったり、スタッフが映り込んだりとか以外はどのシーンもバッチリだったし、どれも2回くらい回せばほぼOKだった。撮りこぼしもなく、スケジュール内に全部撮影を終えられたしね。

──編集の段階で切るのを迷ったりは?

藤沼:俺は意外とざくざく切るタイプでね。どの場面も思い出はあるけど、思い出と作品は別のものだから。作品はお客さんに観てもらうものだし、思い出に浸りたいなら編集前の映像を自分で見ればいいだけだし。

──全体を透徹するプロデューサー的な視点を兼ね備えていたということでしょうか。

藤沼:映画は観られないとダメなわけで、そのために奔走するプロデューサーからの意見は凄く大事。お客さんがどうすれば観てくれるのかを熟知しているわけだから。俺が好き勝手なものをつくるよりも客がどう観るかをしっかりと考えるべきなんだよ。

早死にするよりしぶとくギターを弾いているほうが性に合う

──古くはブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン。近年ではカート・コバーンやエイミー・ワインハウスがいずれも27歳で他界しているのを“27クラブ”と呼ばれ、本作のテーマの一つにもなっています。伸一さんは27歳当時にそのようなことを意識していましたか。

藤沼:若くして死にたいなんて考えたこともなかったな。俺は昔からキース・リチャーズが凄い好きだったし、ヨボヨボのジジイになってもギターを掻き鳴らしていたいと思ってた。早死にしたい美学ももちろんわかるし、良い悪いも思わないけど、俺の場合はクソジジイになってもしぶとくギターを弾き続けているほうが性に合うってだけ。キース・リチャーズは79でまだ現役で、泉谷しげるは74でまだギャンギャン騒いでるでしょ?(笑) そっちのほうが面白いと思うもんね、俺はね。

──つくづくバンドとはナマモノというか、しぶとく長く音楽を続けたい伸一さんと、大別すれば破滅志向だったマリさんという両極端のギタリストが共存したからこその面白さが亜無亜危異にはあったと『GOLDFISH』を観て改めて感じました。

藤沼:マリは若い頃から早死にする奴らの美学が好きだった。だから、ハルの部屋にデヴィッド・ボウイのポスターが貼ってあったでしょ?

──はい。「ロックンロールの自殺者」(Rock 'N' Roll Suicide)というレパートリーのあるボウイのポスターが貼ってあったのは暗示的でしたね。

藤沼:本物の写真は使えないから、似たような絵を描いてもらったんだけどね。そこにハルがいつもオモチャの銃を打って遊んでるっていう。

──ハルの部屋の言えば、ハルの遺骨の前でガンズのメンバーが派手にケンカするシーンが不謹慎だけど笑ってしまいますね。ああいう場面も劇映画の良さの表れのように感じます。

藤沼:ですよね。この映画はテーマが暗いのかもしれないけど、俺は絶対ポップなものにしたいと思っていて。カラーリングも赤やオレンジといった鮮やかな色を入れたかった。

──ニコがコインランドリーの前で絵を描くのに夢中になるシーンがありますが、そこでも色の鮮やかさを強調していましたね。

藤沼:ランドリーマシンの中でオレンジや黄色の衣服がぐるぐると回ってるけど、あれはマリへのオマージュで、マリがメインで使っていたリンゴ型ギター(HSアンダーソン・カスタムヒューストン)の色を意識したんだよ。

──ちなみに亜無亜危異のメンバーは『GOLDFISH』を鑑賞したんですか。

藤沼:コバンは所用で来れなかったけど、茂と寺岡は去年の試写会で観てくれた。二人とも褒めてくれたよ。

──そう言えばカメオ出演というか、伸一さん、茂さん、寺岡さんも出演していましたね。

藤沼:売れないバンドマンの役でね。あれが俺たちの未来だなってことで。客が3人みたいな(笑)。あの服装は自前なんだけど、「凄くダサい服を着てこいよ」ってLINEしたんだよ。そしたらバッチリダサい服を着てきて(笑)。

──衣装と言えば、ハルが着ていた豹柄の服はマリさんが実際に着ていたものだそうですね。

藤沼:うん、あれはマリの本物。マリと仲良かった人に借りて、若いハルを演じた山岸と北村さんに同じ服を着てもらった。

──こうして一作を完成させて、2作目を早くつくりたいという構想はありますか。

藤沼:映画監督としてはまさにここからがスタートだからね。また撮るならやっぱり次も人間ドラマがいいかな。俺はミヒャエル・ハネケとかラース・フォン・トリアーみたいに物議を醸す作品を発表し続ける監督が好きなので、何の説明もなくぶん投げるような作品をつくってみたい。

──最近は説明過多の作品が多いし、伏線がちゃんと回収されないと文句を言う人たちも多いですよね。

藤沼:多いね。でも今回も説明を多くしないとダメだとスタッフには言われたんです。昨今は観る側の読解力が全般的に下がっているみたいで、アニメの世界でもセリフでちゃんと説明しないと伝わらないことが多いと。

──映画は虚構の世界とは言え、セリフでわざわざ説明するなんて白々しく感じてしまいますが。

藤沼:俺たちの世代はそうだよね。たとえば夫婦の仲が悪いのを散らかった部屋や目減りしたウイスキーの瓶、すれ違っても何の会話もないとかの描写だけで充分伝えられると思うけど、今は「何だよお前」とかセリフで仲の悪いことを表現しなくちゃいけないらしい。若い世代が映画を早送りする本も読んだけど、なるほどとは思うよね。同意できない部分もあるけどさ。

──撮影に入る前から映画の専門書を読み込んだりしたんですか。

藤沼:凄い量の本を読んだよ。映画術や演出、撮影の技法を学ぶために、『タランティーノ流監督術』とかいろいろとね。あと、絵コンテ用のネット講座を受けてみたり。知らないことは勉強しなくちゃいけないし、俺は学ぶのが好きなんだよ。そういう学びが、たとえば泥酔したハルが通りすがりの人たちに殴りかかるシーンに活きたりする。あれは臨場感を出すために絶対に長回しのワンカメで撮りたくて、北村さんにはカメラに映ってないあいだに嘔吐物に似せたフルーツジュースを飲んでもらったりした。『仁義なき戦い』もカメラはほぼ手ブレだし、血糊が画面に付いても全然OKでしょ? あれくらいの自由さが俺は好きでね。だから今回、スマホやトイカメラで撮った映像をあえて入れてみたりもした。普通は撮影部に嫌われるんだけどね。…どう? 監督っぽいでしょ?(笑) 最近は自分のことを“ギターも弾ける映画監督”と言ってるし、(スティーヴン・)スピルバーグに負ける気がしない。俺みたいに弾いてみやがれ! と思うし(笑)。

──それじゃ闘う土俵がギターになっちゃいますよ(笑)。

藤沼:そうか(笑)。まあ、皆さんのお力添えで何とか公開に漕ぎ着けられて良かった。6月に新宿ロフトでやるマリの七回忌のライブ共々よろしくお願いします。

藤沼伸一 撮影:松沢雅彦 スチール写真提供:太秦

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