仕事は厳しく、愛情深く、地球全体を視野に入れ、責任感を持って発信する…稲盛和夫さんは、そういう人だった(安藤忠雄)

安藤忠雄さん(左)が設計した鹿児島大学稲盛会館の開館記念式典で、記者会見する稲盛和夫さん=1994年11月

 京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が2022年8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。(最終回)

■建築家・安藤忠雄さん(81)

 稲盛さんと初めてお会いしたのは1988年、鳴門海峡でマダイ釣りに誘われた時だった。メンバーは経済界の重鎮ばかり。釣果は入れ食いで、全員子供のように興奮されていたのを覚えている。

 この後、稲盛さんから「中之島の卵を譲ってほしい」と申し出を受けた。その少し前、大阪・中之島の中央公会堂の再生計画を提案していた。外観を残して内部に卵型のホールを埋め込む案だったが、実現はかなわなかった。稲盛さんはそのアイデアを気に入って、母校の鹿児島大学に寄贈する「稲盛会館」に採用してほしいと言われた。「ここから新しい時代を切り開く人材が巣立ってほしい」という思いにも、卵型のホールがぴったりだ、と。

 プロジェクトがスタートすると、稲盛さんは決して妥協せず、図面のチェックも厳しかった。「ひびの入った卵は受け取らないよ」「100年残るよう気合を入れてつくれ」と、常に高い精度を要求された。世界に通用するものをという思いがひしひしと伝わった。94年に完成。熱意に感銘を受けて、設計料の半分は大学に寄付させてもらった。

 2002年には、幸運にも稲盛さんが創設した京都賞を受賞した。「人類の未来は、科学の発展と精神的深化のバランスがとれて初めて安定したものになる」という稲盛さんの理念に基づいた著名な賞で、一報を受けた際はただ驚くばかりだった。

 1986年には彫刻家イサム・ノグチ氏、90年には友人でもある建築家レンゾ・ピアノ氏が受賞したこともあり、強い関心を抱いていた。だが、自分のような者が受賞していいのかと不安もあった。稲盛さんに伝えると、「あなたは全ての仕事に誇りをかけて取り組み、全力で走り続けている。受賞は当然だ」と言ってくれた。恥じない仕事をしなければと、より責任感と覚悟が芽生えた。それが今も私の原動力になっている。

 亡くなられたのは衝撃で、喪失感も大きい。まず感じたのは、日本もこれから寂しくなるなという思いだった。心も体も大きく、仕事には大変厳しいが、実は細やかで愛情深い人だった。常に地球全体を視野に入れ、責任感を持って発信を続けた。その理念は多くの人に影響を与え、次の世代へと引き継がれるだろう。今は、ゆっくりお休みくださいと声をおかけしたい。

鹿児島大学にある稲盛会館。卵形ホールが特徴

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