不当逮捕された国民栄誉賞受賞ジャーナリストの獄中記|石井英俊 中国の影響を強く受けるモンゴルで、長年中国問題を取材してきた国民栄誉賞受賞のジャーナリスト・ムンヘバヤル氏が不当逮捕された。絶望の中でも決して希望を失わないムンヘバヤル氏が獄中で綴った魂のメッセージ。

中国と戦ってきた国民栄誉賞ジャーナリスト

外国の情報機関と共謀して「中国へのスパイ行為」を行なったとして、モンゴル国で不当逮捕されたムンヘバヤル・チョローンドルジ氏(以下、ムンヘバヤル)の事件について、Hanadaプラス「国民栄誉賞受賞ジャーナリスト不当逮捕に習近平の影」において一連の経緯を解説した。未読の方はぜひご一読をお願いしたい。

「南モンゴルを支援する国会議員連盟」(会長:高市早苗経済安全保障担当大臣、幹事長:山田宏参議院議員)は、2022年10月26日に出した声明文において、「ムンへバヤル氏の活動は、我々『南モンゴルを支援する議員連盟』の設立趣旨、活動内容とも思いを一にするものである」と書いている。

ムンへバヤルはジャーナリスト、詩人としてモンゴル国において著名な人物であり、モンゴル国最高の勲章である北極星勲章や国民栄誉賞を受賞。中国の弾圧下で苦しんでいる南モンゴル(中国の内モンゴル自治区)の同胞を救うために、長年にわたって人権問題や環境問題の活動を行なってきた。いわば中国と戦ってきたのだ。前掲記事でも書いたが、私自身も直接の交流のあった友人であり同志だ。

2022年2月17日にスパイ容疑で不当逮捕され、12月21日にはモンゴル国最高裁判所において懲役10年の判決が確定してしまった。一切の証拠がなく、2人の弁護士の弁護士資格が剥奪されるなどの不当極まりない秘密裁判によって、結審した。いま世界で100を超える人権団体がモンゴル国政府に対して即時釈放を要求しており、モンゴル国のツァヒアギーン・エルベグドルジ元大統領までがその即時釈放要求の共同声明文に署名している。

冷戦期には社会主義国であったモンゴル人民共和国は、ソ連崩壊によって民主主義国のモンゴル国となった。我が国とは「特別な戦略的パートナーシップ関係」で、「民主主義国」であったはずのモンゴル国が、中国の覇権主義的な影響力の拡大にともなって、その色を塗り替えられつつあるのだ。いまのモンゴル国の背後には、中国の影が見えている。ムンヘバヤルの事件はモンゴル国に起きている異常事態を示しているのだ。

フランス在住の南モンゴル人、チベット人、ウイグル人たちがパリの中国大使館前抗議活動を行う(写真:http://southmongolia.org/1072/より)

獄中から魂の叫び

ムンヘバヤルが拘留されてから拘置所の中において書きためた文書が先月モンゴル国において出版された。タイトルは『拘留の足跡』。モンゴル国において大きな反響を呼んでいる。この書籍原稿がムンヘバヤルの家族と弁護士の手を経て南モンゴル人権情報センター(本部:ニューヨーク)に渡され、同センターの関係者によって邦訳が行われた。詩人でありジャーナリストであるムンヘバヤルの本領が遺憾無く発揮されているともいえる書籍だ。詩や書簡、風刺小説までが収録されている。

刑務所内でムンヘバヤルが私宛にサインした書籍が弁護士経由で届いた。「刑務所から送られてきた書籍」の重さに身の震える思いだ。

本稿では、最終章「これは私の選択だ」を紹介したい。幼少期より一貫した志を持ち続け、言われなき罪によって獄中に追い込まれてもなお「これは私の選択だ」と言い切るムンヘバヤルの決意の堅さに、心を打たれない者はいないだろう。獄中にあっても決して屈しないムンヘバヤルの魂の叫びを聞いてもらいたい。(小見出しは編集部で付した)

筆者のもとに届いたムンヘバヤル氏のサイン本。
ムンヘバヤル氏の直筆で「名前」「日付」「421刑務所にて」と書かれている。
「名前」「日付」「421刑務所にて」と書かれたムンヘバヤル氏のサイン。

この先どうなるのか、どんな危害が及ぶのか予想できない

これは私の選択だ (南モンゴルの兄弟たちへ)
ムンヘバヤル・チョローンドルジ

私はこの選択を1984年、15歳の時にしたのだ。自分と従弟2人のクラスメイトを集めて「南モンゴル解放民族戦線」という地下グループを設立した。その目的を 「キャフタ条約(注:キャフタ条約は、1915年に、ロシア帝国、モンゴル《ボグド・ハーン政権》、中華民国との間で締結された条約である。モンゴルは中国を宗主国として認めた)の不平等を解消し、大モンゴル国を回復する活動を行う」とした。私たちは未熟ながらも、会則・基本計画・会議のルールなどを作って暗号で記した。南モンゴルについて学び、わが国(モンゴル人民共和国)の国民に南モンゴルのモンゴル人について知ってもらうための行動計画も作成した。

私たちのことを(わが国の)内務省が知っていたら、どうなっていただろうか。私自身は間違いなく身柄を拘束されていただろう。南モンゴルのモンゴル人のために活動していた当時から拘束される可能性のあった私は、38年後、53歳になって「外国のスパイ」という誹謗中傷を受け「8~15年は覚悟しろよ」と脅され、刑務所に収容された。この先どうなるのか、どんな危害が及ぶのか予想できない。本来なら一審で釈放される条件を満たしていたのだが……。

見せかけの民主主義

わずか15歳で共産主義政権の刑務所に収容されていたら大変だったとは思うものの、見せかけの民主主義、いっそう赤化した「共産主義」体制の刑務所は53歳の私にはどんな風であるのだろうか。15歳で投獄されたとしても何とか乗り越えただろうが、その後の運命がどうなっていたかは想像できない。当時の私は「自分が正しいと思ってしたことで将来何が起こっても関係ない、命をかけて闘うべきだ」という強い思いをもった「若き親衛隊」の模範だった。

幸い、モンゴル国でもペレストロイカ・グラスノスチが実施され、南モンゴルについて自由に語れるようになった。1990年わが国では民主主義革命が勝利し、それを隠す必要もなくなったのである。南モンゴルの政治亡命者が私たちと自由に連絡を取って話し合うことができるようになった。

1991年「デムチュクドンロブ(徳王)協会」という南モンゴルのモンゴル人を支援するグループを同志らと設立した。1990年代には南モンゴルのモンゴル人の人権を支援する活動は先鋭化していった。

私は1990年代、モンゴル民族の統一や民族主義について文章をたくさん書き、民族主義を広める活動をずっと続けていた。2000年代にはモンゴル民族が置かれた状況を改善する提案を政府にし、政策にも反映させた。その一例として「帰化法」を挙げることができる。これは、在外モンゴル人がモンゴル国に自由に定住し、モンゴル国民と同様の権利を得ることができるという法律である。

日本人支援者との会見が大きな転機に

2010年、日本から南モンゴルの活動家と日本人支援者が来訪し、モンゴル国における南モンゴルの活動家やモンゴル国民の支援者と会見したことは大きな転機となった。南モンゴルのモンゴル人を支援するデモ・集会がモンゴル国で行われなくなって10年余りが経っていたからである。会見の参加者らは、活動を盛り上げていくことで意見が一致した。

さらに南北モンゴルの同志たちは2011年1月はじめ、在モンゴル中華人民共和国大使館前、 スフバートル広場、学生広場でデモ・集会を行って以来、今日まで南モンゴルのモンゴル人のための闘い・活動をずっと続けてきた。

私たちはデモや集会、その他さまざまな活動を行った。記者会見や会議、インターネットを活用して南モンゴルについて紹介してきた。南モンゴルのモンゴル人について知ることで、彼らを嘲笑したり、差別したり、見下したりすることが減り、支援の輪が広がるなどの成果が表れた。私は、モンゴル国において南モンゴルのモンゴル人を支援する活動の中心人物の一人になっていた。

2020年には南モンゴルでモンゴル文字や文化への差別に抗議する大きな闘いが広がり、南モンゴルを支援する活動が世界中で盛り上がることにつながった。私も積極的に参加した。

「外国のスパイ」との濡れ衣

南モンゴルのモンゴル人が抑圧されればされるほど、私はいっそう奮い立った。この時に一人の外国人支援者が現れ、そのことで私自身が「外国のスパイ」と濡れ衣を着せられることになり、 高電圧の鉄条網の向こう側に閉じ込められることになったのである(注:駐モンゴル国インド大使館の外交官とムンヘバヤルとの間に交流があった。モンゴル国諜報庁は、証拠が無いにもかかわらず、そのインド大使館の外交官からムンヘバヤルが資金を受け取って、スパイ行為を行ったという一方的な犯罪容疑をでっちあげた)。

私が外国の情報機関と協力したという証拠は何もない。それどころか私は、モンゴル国の情報機関とも何ら接点をもたなかった。この種の機関の人間は、南モンゴルのモンゴル人を強制送還するのに長けているからである。人権活動に関わる私たちが南モンゴルのモンゴル人を擁護しようとすると、中央情報機関は「南モンゴルのその者は国家の安全保障に脅威を与えた。 これは極秘事項である」と言いくるめて、私たちの口をつぐませるのだった。もちろんそのような脅威がなかったことは私たちが明らかにしてきたのであるが。

ところがついに、私自身が情報機関の「国家の安全保障に脅威を与えた。これは極秘事項だ」という言説のスケープゴートとなってしまった……。

中国のモンゴル人絶滅政策

私は小さい頃からモンゴルの歴史や文化に興味をもち、小学生の頃からモンゴル人民共和国の国境外に何百万というモンゴル人が暮らしていること、南モンゴルという広大な世界があることを知ってとても驚いた。中学生の時、1911年に南北のモンゴル人が力を合わせて大モンゴル国を樹立したこと、モンゴル国の独立に南モンゴルのモンゴル人が大きな役割を果たしたこと、彼らがモンゴル国と合流するために長年闘ってきたことを知って誇りに感じた。

そして「われわれは一つの民族である」という高揚感で心が満たされ、民族意識を強くもつようになるのに強い影響を及ぼした。民族主義者であることは悲喜こもごもだが幸せである。

のちに南モンゴルの歴史を研究するようになり、落胆しショックを受けたが、その英雄や功労者たちの言動が私の模範となった。南モンゴルの文化・伝統、歌や楽器について知って夢中になり、南モンゴルのたくさんの友人や兄弟と協力関係を築き、リーダーたちとも同志となった。

南モンゴルのある組織の人が、私に「組織の活動に積極的に参加してほしい」と提案したことがあった。「私は北のモンゴル人ですよ。あなた方の組織は南モンゴルのものですから、 私は適任ではないでしょう」と答えると、彼は「私たちはあなたを南のモンゴル人だと思っていますよ」と言ってくれた。それで、私は提案を喜んで受け入れることにしたのだ。

南モンゴルのモンゴル人の前向きで暖かい性格、まっすぐで誠実な言葉遣い、未来を見据える知恵、民族主義に私は親しみを覚えた。南モンゴルのモンゴル人を私は敬愛している!

今日、南モンゴルのモンゴル人は中国の絶滅政策にさらされ、滅亡の危機に瀕している。勇敢な活動家たちを刑務所に収容し、場合によっては命まで奪っている。このような時に私がどうして平穏でいられるだろうか。闘いをもっと広げ、活発にするあらゆる手段を尽くさないでどうするのだ。

共に闘ってほしい

どんなに困難な時が訪れても、南モンゴルのモンゴル人の闘いは止まらない。世界中が南モンゴルに注目し、力を結集して闘うべきである。絶滅危惧種の生き物を守るための活動は地球全体に広がっているではないか。南モンゴルの民族・文化・文明全体が滅びつつある時に世界が十分に注意を払っていないことは悲劇である。

最後に、拘束され厳しい状況に置かれている現在、各方面からご支援いただいている南モンゴルの同志たちに感謝の気持ちをお伝えしたい。皆さんの暖かい支援が、あらゆる苦難を乗り越える勇気や翼をくれる。モンゴル民族のために共に闘おう!

南モンゴルのモンゴル人の悲劇から私たち北のモンゴル人は歴史の教訓を得るべきだった。 ところが、北モンゴルは日を追って南モンゴルと同じ道をたどっているようである。一例を挙げるなら、南モンゴルのモンゴル人の人権を守るために闘った私が「民主主義の」モンゴル国の政治犯となって刑務所に収監されている。

全てのモンゴル人が滅亡の危機に瀕している。目覚めよ!

鉄条網の中から私は南モンゴルのモンゴル人に何を望むのか。民族の権利・人権・自決権は何物にも代え難い 3つの宝、独立の大黒柱で、大切に守ってゆくべきである。言語・文化を失えば、私たちはモンゴル人だと言えるだろうか。素晴らしい母語を守るために闘って下さい。 私たちの遊牧文化を保っている草原を守るために共に闘ってほしい。これが望みである。

私は15歳の時に今のような状況になることを明確にしていたのだ。私にこのようなことが起きることは前世紀にわかっていたことだ。これは私の選択だ。自らの選択に後悔はない。

南モンゴルのモンゴル人の苦しみがなくなり、その頬をつたう涙が渇きますように! 南モンゴルのモンゴル人が自由を獲得し、幸せになりますように! 南モンゴルのモンゴル人が微笑んで生きていけますように! これらの祈りを捧げつつ、筆を擱(お)く。
(文中敬称略)

石井英俊

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