理不尽に命を奪われた者たちの思いとは? 「人型パネル」は物語る

交通事故や犯罪で理不尽に命を奪われた被害者を表した白い人型パネルを展示する「生命のメッセージ」展。20年以上も全国各地で展示を続け、「命とは奪っても奪われてもならないらない」と訴えてきた。その活動はどんなものだろうか。NPO法人「いのちのミュージアム」(東京都日野市)は、建物の老朽化のため昨年末で常設展示場を閉館したものの、地道な活動は今も続く。

NPO法人「いのちのミュージアム」代表の鈴木共子さん。亡き息子・零さんのメッセンジャーと(写真:穐吉洋子)

◆被害者遺族たちの集い

直径80センチほどの赤い毛糸玉を中心に、ろうそく型のLEDライトの灯りがゆらゆらと揺れる。集まった遺族たちが、命を奪われた人たちの名前、年齢、都道府県を読み上げていく。

「……14サイ、トチギケン、スズキレイサン、19サイ、カナガワケン、スズキ……」

輪になって座る遺族は23人。読み上げられた名前は五十音順で154人に上った。

2022年11月19日、東京都日野市。かつて小学校だった百草台コミュニティセンターで、NPO法人いのちのミュージアム主催の「キャンドルアートの祈り」が開かれていた。翌日は「世界道路交通犠牲者の日」。それに合わせた企画であり、活動趣旨に賛同する遺族たちは、沖縄、香川、長野など13府県から集まっていた。

「キャンドルアートの祈り」(写真:穐吉洋子)

いのちのミュージアムの常設展示は、日野市の百草台コミュニティセンター内にある。廃校になった小学校の建物。教室だった部屋を使った常設ギャラリーには、等身大の人型パネル「メッセンジャー」が並んでいる。

その足元には故人の靴と秒針だけの時計、胸元には写真と家族からのメッセージ。交通事故のみならず、強盗殺人や集団暴行などの凶悪犯罪で突然、命を奪われた被害者たちのパネルだ。

メッセンジャーを数える際、単位は「個」や「人」「名」ではなく「命」を使う。閉館に伴う作業が本格化するまで、常設ギャラリーには100命以上が展示されていた。

「生命のメッセージ展」という活動が始まったのは、2001年のことだ。前年の4月、神奈川県の鈴木共子さん(73)は、早稲田大学に入学したばかりの1人息子、零さん(当時19)の命を奪われた。相手は、飲酒・無免許・無車検・無保険という悪質運転者。暴走する車に跳ねられた零さんは19メートルも飛ばされ、一緒に歩いていた友人と共に亡くなった。

「息子を生かし続けたい、このまま終わらせたくない」

環境やジェンダーなど社会問題をテーマに大型の立体作品を発表する造形作家の鈴木さんは、ほかの遺族も自らの手で生み出せる「アート」で世に問い掛けることに決め、「メッセンジャー」を考案した。真っ白なパネル、生前の写真、生きた証しとしての靴。見る人に想像力をかき立ててもらうため、余白を残し装飾を排した。

常設展示室では、無数の時計の秒針が合わさって時を刻んでおり、心臓の鼓動のように聞こえる。遺族の手によって白いボードから切り出されたメッセンジャーは、亡くなった人の体格に合わせ、それぞれ高さや幅が異なる。誰かのかけがえのない存在だった人たち。その思いが集積されたような教室にいると、物言わぬメッセンジャーたちの雄弁さに圧倒される。

◆再生の物語をみんなで作っている

メッセンジャーの8割は20代以下の若者や子どもたちだ。遺族の気持ちの区切りで“卒業”したメッセンジャーを含めると、これまでに221命が誕生している。

展示会は150命前後のすべてのメッセンジャーがそろう「本開催」と、5~30命のミニ・メッセージ展があり、これまでの約20年間で1000回以上開催してきた。来場者は延べ50万人超、刑務所や少年院での開催を含め本年度の展示もすでに約150回。3日に1回はどこかで開催された計算だ。冒頭で紹介した赤い毛糸玉は、来場者が1人ずつ結んだ長さ10センチほどの毛糸をつなぎ合わせたものだ。

鈴木さんは言う。

「第1回の東京駅では16命からのスタートでした。最初は、メッセンジャーを怖いとか、さらし者にするのかという意見もあった。ここでは、再生という1つの物語をみんなで作ってるんです。その物語に乗れる人も乗れない人もいる。遺族1人ひとりにいろんな考えがあって、皆さん迷いながら進む、その全部が答え」

来館者が書き残したいメッセージ(写真:穐吉洋子)

小谷真樹さん(40)は、京都府亀岡市で2012年に起きた暴走事故の犠牲者遺族だ。集団登校中の小学生の列に、無免許の少年(18)が運転する車が突っ込み、10人が死傷。二女の真緒さんを亡くした。ミュージアムを訪れたのは、その数カ月後である。

「娘は、学校まで数百メートルというところで命を奪われた。ここに来たら、学校にも来ることができるんかな、と。(当時は)7歳、今年は高校卒業の歳なので、ここで娘を育てていただいたと思ってます」

メッセンジャーの「お世話係」と自任する岩嵜悦子さん(72)は、鈴木さんと同様、飲酒運転者に息子を奪われた。初めてメッセージ展を見たときの衝撃を鮮烈に語る。

「『もっと生きたかったんだ』って。もう頭がガンガンするくらい、メッセンジャーの声が聞こえてきたの。会場が割れるくらい聞こえてきたの」

◆「メッセンジャーは生きています」

奈良県から来た児島早苗さん(72)は、東京駅での初回展示から参加している。息子を亡くしたのは、鈴木さんの息子が事故に遭って間もない時期だった。

「参加者1人ひとりがアーティストと言われたけど、死者ばっかりの、しかも犠牲者の展示をいったい誰が見に来るんだろうと最初は思ってました。でも、メッセンジャーは彼らにしかできない仕事をしてるんです。生きてるんですよ、本当に」

メッセージ展とのめぐり合いを振り返る、「キャンドルアートの祈り」の参加者たち。鈴木さんも、怒りや憎しみから来る猛々しさが、多くの遺族との出会いを通して変わっていったという。

「メッセージ展はアートだから広がっていけた。たくさんの人が力を貸してくれて、私はただ石を投げただけ。一人で生きて行くんじゃないんだって実感したのは、息子を亡くしてから」

鈴木さんの言葉を聞き、山口県の京井和子さん(57)が「その石を拾ったのが私たち。地方にいて、まだ被害者支援などがなかったころです。ありがたかった」と応じた。2000年7月に娘の山根佳奈ちゃん(当時4)を失っている。発足当時からメッセージ展に参加し、ミュージアムの事務局スタッフであると同時に、大切な人との死別で悲嘆にくれる人を支える「グリーフサポートやまぐち」の代表を務めている。

京井さんは言った。

「今回のような座談会は本当のグリーフワークだと思います。自分たちがどんな体験をしてきたのか、同じような体験された方と集まり、口に出して言えることを無理なく話し合う。そして、当事者じゃなくても、ここにいるボランティアの方のように話を聞いて関わってくれる人もいる。もう一回、人間関係を構築してみようと思うきっかけになるんです」

「いのちのミュージアム」が入る百草台コミュニティセンター。メタセコイアの木の下にキャンドルライトが並べられた(写真:穐吉洋子)

ミュージアムは、学校に出かけていく「いのちの授業」にも力を注いでいる。子どもの自死や生きづらさに活動開始の初期から注意を払い、メッセージ展と遺族の講演を組み合わせ、「生きているだけで奇跡」と伝えてきた。

メッセージ展への関心や死生観も見る人の年齢とともに変化する。進学や就職などの節目に、1人でミュージアムに来たり、少年院から出所してすぐに立ち寄ってくれたりした生徒もいる。過去に見たメッセージ展を思い出し、その後、繰り返しミュージアムを訪ねる人も多い。

もちろんすべての子どもたちから打てば響くような反応が返ってきたわけではない。

「壇上から見ると、『またかよ』って感じで聞いてる子もいます。私は当事者として話すけど、重たく感じる子もいるかもしれないし、わかっていても命を大切にできない環境にあるのかもしれないし」

京井さんが講演先の学校で感じたもどかしさ。言葉だけでは思いが届かない体験をしてきたからこそ、視覚から入るアート展には強みがあるという。

◆命の大切さを自分事に

東京都日野市立日野第一中学校は2022年2月、コロナ禍で中断していたメッセージ展を再開した。メッセンジャーには、部活動中の指導で亡くなった生徒も含まれている。

前校長の高橋清吾さん(64)によると、12年前、学校内での初めての展示会にはハードルもあった。生徒が大人に対する不信感を覚えるのではないかとの懸念が寄せられた。

だが、髙橋さんは「子どもたちに自ら考えてもらう機会に」と開催に踏み切り、生徒たちと同世代のメッセンジャー全員を受け入れた。

展示を見た生徒からは「友達と再会した。小さかったから、どうしていなくなったのか分からなかった。今はどうしてか分かった。メッセンジャーの前にずっと座った。じゃあねと言って別れた。会えて嬉しかった」という感想文も届いた。

「命の大切さは言葉だけの理解ではなく、感じ取ることが大事。『こういうことだったのか』と腑に落ちる体験をしてほしい。そして、自分事として考えてほしい」と高橋さんは力を込める。

活動の創始者でもある鈴木さんも、次のように言った。

「息子たちの未来や夢は奪われてしまったけど、今を生き悩んでいる子の助けに少しでもなるなら、息子の命は生かされる。若い人たちにつなげたい。託したいんですよ」

「キャンドルアートの祈り」の翌日、11月20日も「いのちのミュージアム」には遺族らが集まってきた。

田中豊さん(67)は、子ども2人のメッセンジャーを生み出そうとしていた。娘・美央さんと息子・泰基くんを亡くしたのは1998年。子どもたちを後部座席に乗せ、乗用車で首都高速道路を走っていたとき、渋滞に差し掛かった。その最後尾で停車していると、居眠り運転の大型トラックが後ろから突っ込んできた。娘12歳、息子7歳。別れはあまりにも突然で、あまりにも悲しすぎた。くじけずに頑張れという周囲の言葉もつらい。

◆「苦しみは報われないが、すがるものも必要」

田中さんは仕事を辞め、自宅に引きこもった。2人の死に向き合えないまま、買い物も人目を避けて夜にひっそり行く。そんな生活を1年以上続けると、今度は後遺症のリハビリとして始めたランニングに「考えずにすむから」と、のめり込んだ。

「(裁判で加害者の責任が問われても)遺族の苦しみは報われるものではないよ。でも、すがるものが必要。メッセージ展は延々と続く。だからよかった。救われた。(閉館するミュージアムが)どこに行っても、いつでも誰でも来られるような場所にしたいね」

メッセンジャーを仕上げる田中豊さん(左)(写真:穐吉洋子)

元教室で、田中さんの作業が進む。

各地で並行して行われるメッセージ展のためには、子ども2人の「分身」をもっと作らなければならない。型取りが終わると、次はメッセンジャーの足元に置く靴だ。2人が履いていた靴は長年の展示でさすがにくたびれている。

「成長に合わせ、大人サイズの靴を買おうかな」と言う田中さんに、鈴木さんが「それだと、メッセンジャーの写真と身長と合わなくなっちゃうから説明がいるよね」と返す。

田中さんはミュージアムが開館した2010年9月、自宅のあった東京都江戸川区から約70キロをマラソンで駆け抜け、オープニング・セレモニーに出席した。あれから12年。自らの手で生み出したばかりの、新たなメッセンジャーの肩に手を掛け、「感慨深いね」と笑顔で記念写真に収まった。

◆いのちのミュージアムは現在、ギャラリーやアトリエを併設できる施設を探すしている。生命のメッセージ展は引き続き各地で開催予定。詳しくは、いのちのミュージアムHPへ。(記事中の年齢昨年12月の取材時のものです)

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