長年タブーだった研究「もし核兵器で攻撃されたら、生き残った命をどう助ける?」 日本の専門家がついに取り組み始めた

原爆投下直後の救護所=1945年8月8日、陸軍船舶司令部写真班撮影、広島原爆被災撮影者の会提供

 日本の被爆者医療の専門家たちが、いまだに効果的な治療薬も検査法も確立されていない被爆時の治療法の研究に昨年の秋から取り組み始めた。実はこの分野の研究は、長年「タブー視」されてきた。理由は、78年前の広島原爆と長崎原爆に続く3回目の被爆が前提となるためだ。
 なぜ今、そんな研究が必要なのか。研究を全国の専門家に呼びかけた広島大の原爆放射線医科学研究所(広島市)の田代聡所長(61)にインタビューすると、ロシアによるウクライナ侵攻に強い危機感を覚える研究者たちの姿が見えた。(共同通信=西村曜)

 

研究を呼びかけた、広島大原爆放射線医科学研究所の田代聡教授=2022年11月、広島市

 ▽現状では「お手上げ」
 ―日本は被爆国で、被爆者治療には多くの経験があると思いますが、今回研究を呼びかけている分野とはどう違うのですか。
 「被爆の数年後から現れるがんや白血病などへの治療には確かに長年の蓄積があります。これは『原爆後障害』と呼ばれる分野です。しかし、今回私が呼びかけている研究対象は、被爆して2週間程度で現れる『急性障害』と呼ばれるもの。
 この分野では、現代の医療技術を取り入れた治療法が開発されていません。広島と長崎への原爆投下後、急性障害の治療が必要になるけが人が大量に発生するようなことは、起きていないからです。もし仮にいま核兵器が使われ、急性障害の患者が大量に出たら、現場の医師はけがややけどの治療はできても、重症の急性障害にはお手上げなのです」
 ―急性障害とは。
 「放射線で細胞が傷つき、新たな細胞が作れなくなる障害です。被爆の瞬間はそれまでの細胞が生きていますが、細胞が作られないから、徐々に皮膚や消化管の細胞がなくなっていきます。嘔吐(おうと)や下痢、脱毛なども起き、死ぬ人も出る。広島や長崎でも被爆1カ月後の1945年9月ごろから急性障害での死者が増えました」

広島への原爆投下後、放射線の急性障害で体に斑点ができた兵士。撮影後に亡くなった=1945年9月3日撮影、木村権一撮影、広島平和記念資料館提供

 ―なぜ研究が進まなかった分野なのですか。
 「『核兵器が落とされることが前提の研究をするのか』という懸念がありました。『被爆国だから議論するのも駄目だ』と考える人もいました。海外では核シェルターを作るなど、もしもに備えた動きがありますが、日本ではこうした議論自体が嫌がられてきました。
 知り合いの研究者にも実際、上司からタブーだと言われ、研究を進められなかったという人がいました。そうした空気があるため、私も含め、研究者はなかなかこの分野に踏み込めませんでした」

ロシア軍の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「ヤルス」と兵士ら=2022年2月25日、モスクワ郊外(タス=共同)

 ▽考え変えたウクライナ侵攻
 ―田代所長は核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の東アジア・太平洋地区共同代表として核廃絶運動にも取り組んできました。核使用が前提となる研究と矛盾するようにも見えますが、今なぜ研究が必要なのでしょうか。
 「2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻がきっかけです。ロシアは核兵器の使用をちらつかせましたが、ウクライナを支援している核保有国の政治家も、核兵器の所持を強調しけん制しました。私はそれまで、心のどこかで『まさか、もう一度核兵器が使われることにはならないだろう』と考えていました。
 でもその認識は甘かった。現実に核兵器を戦争中に、威嚇の道具として使う指導者が出てきてしまった。そんな時代なのに、医療の世界だけ、核兵器使用が前提の議論自体を否定するままではいけないと思ったのです」
 ―どんな人たちが研究を始めたのですか。
 「放射線の影響を研究する広島大など10の研究機関が参加している『放射線影響研究機関協議会』で、2022年11月に呼びかけました。他の研究者も同様の危機感を持っていたようで、提案は賛同され、有志でワーキンググループを作ることになりました。放射線の専門医のほかに放射線生物学者や物理学者もいます」

広島大の原爆放射線医科学研究所が入る建物=2023年2月、広島市

 ▽トリアージ
 ―具体的な課題は何ですか。
 「診断法と薬の開発です。急性障害の診断とは、その人がどれだけ被爆したかをいかに早く知るかということですが、現在の技術では数日かかってしまいます。核攻撃があれば十万人単位の人を調べる必要があるでしょう。
 災害などで大量の負傷者が出ると、治療の優先順位を決めるトリアージを行いますが、現状では大量に出る急性障害の人へのトリアージは厳しいです」
 ―薬はどうですか。
 「抗がん剤の副作用に使う薬などで流用できそうなものはあります。しかし、急性障害用として作られた薬ではないので、どこまで効果があるかは分かりません。動物実験で効果を調べ、有事の時にはすぐに使えるまでにしておく必要があります」
 ―では今もし核兵器による被害が出たら、現場の医師たちはどんなことができるのでしょう。
 

広島への原爆投下後、放射線の急性障害で脱毛した兵士。撮影後に亡くなった=1945年8月、木村権一撮影、広島平和記念資料館提供

 「現れる症状ごとに対応していくしかない。急性障害を根本的に治す薬がないですから。だから平時に研究を進めて、もしもの時、医師が使える治療法や薬といった医療者にとっての『武器』を作っておくことが必要です。それをしないと多くの人が亡くなってしまう。少しでも亡くなる人を助けたい」
 ―取り組みにくかった研究に踏み出す不安はないですか。
 「これは国際貢献にもなる研究だと思っています。放射線で大量に被ばくする人が出た時、支援できる技術を持った組織が日本にできれば世界に貢献できるはず。
 東京電力福島第1原発事故の前、原発事故は起きないとする安全神話がありました。これと同じ、核兵器はもう使われないという思い込みに陥っていないでしょうか。使わせないようにすることも重要だが、いざというときのため準備はしておかねばいけません」

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