理不尽な死 遺族は「人型パネル」に救われる

交通事故や犯罪で理不尽に命を奪われた被害者への思いを、白い人型パネル「メッセンジャー」に託す。

2001年から始まった「生命(いのち)のメッセージ展」は、全国各地で命の尊さを伝えてきた。主催するのはNPO法人「いのちのミュージアム」(東京・日野市)。メッセンジャーは多くの人々に影響を与えてきた。前回に続いて、活動に携わる遺族たちの声に耳を傾けた。

前回の記事はこちら⇒『理不尽に命を奪われた者たちの思いとは? 「人型パネル」は物語る』

◆大分県内各所で「ミニ・メッセージ展」を開催

大分県国東市に住む佐藤悦子さん(71)は11月、メッセンジャーを車に乗せて別府市役所に向かっていた。到着すると、後部座席からキルティング布を縫い合わせた手製の寝袋を下ろした。

中から取り出したのは、全部で13命のメッセンジャー(「個」や「体」「件」ではなく、メッセンジャーは「命」単位で数える)。そして佐藤さんは慣れた手つきでメッセンジャーを次々と立たせた。

佐藤さんが自宅でメッセンジャーを預かるようになったのは、2022年6月からだ。NPO法人が入居する日野市の「百草台コミュニティセンター」は建物老朽化のため12月末で閉館。常設ギャラリーで保管されている約150命のメッセンジャーは、引っ越しさせなければならなかった。

「下宿先」に手を挙げた1人が佐藤さんだった。以来、国東市役所、竹田高校など大分県内各所で「ミニ・メッセージ展」を開催してきた。

11月の別府市役所は県内で7回目。預かった13命の中には、実は24歳で他界した佐藤さんの二男・隆陸(たかみち)さんのメッセンジャーも含まれている。

鴨居からほほ笑む(右から)夫・啓治さんと息子・隆陸さんの写真(写真:穐吉洋子)

隆陸さんは2003年、仕事で滞在中だった鹿児島県奄美市で、飲酒運転の未成年者にひき逃げされ、命を落とした。悪質ドライバーによる悲惨な事故が続いたことで、2001年には危険運転致死傷罪が新たにできていたが、隆陸さんの事故では加害者の酩酊具合は立証できずじまい。同罪は適用されず、過失での起訴になった。

息子を失った佐藤さんは、今も検察官の言葉を忘れていない。彼は「素人のお母さんに説明してもわからないよ。(犯人が)逃げ得というのであれば、署名活動でもして法律を変えなさい。今の法律じゃどうにもならない」と言ったのだという。

佐藤さんはその後、同様の被害にあった遺族らと「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」を立ち上げた。体調を崩し、心療内科へ入退院を繰り返しながらも、急き立てられるように法改正への署名を求めて全国の街頭に立った。

しかし、追い討ちをかけるかのように、事故から4年後、夫の啓治さんを肝臓がんで亡くす。57歳だった。息子亡き後、夫の酒は増えた。仏間に1人でこもり、酒を飲みながら時折、うめきとも叫びともつかぬような声を発する。佐藤さんは、その声を台所で聞きながら、どうすることもできなかった。

1人の悪質ドライバーが、息子だけでなく夫の命も奪った。その思いは今も消えない。

◆メッセージ展は「怖い場所」だった

「また笑えるようになりたい」

息子を失ってしばらくしてから、佐藤さんは「生命のメッセージ」展を知り、足を運んだ。1度目は会場の入り口で足がすくみ、入らずに帰った。2度目は、泣きながらやっとのことで人型パネル「メッセンジャー」を見て回ったという。

わが子を殺された母にとって、メッセージ展は「怖い場所」だった。

「自分の中では、息子の死をごまかしごまかし、生きてるわけじゃないですか。人型パネルはみんな亡くなった人。あの中に入ったら息子の死を認めてしまうことになると思って。それが怖かった」

入り口で逡巡しながらもメッセージ展に足を運んだ何回目かの時、身振り手振り交えて踊るように笑う受付の女性を見た。その女性も遺族だと聞いたときの、驚きが気持ちを一変させた。

「この活動に入ったら私もああいうふうになれるんかな。笑いを忘れて、しかめっ面ばかりの私もまた笑えるようになれるんかな」

別府警察署に展示されたメッセンジャーを丁寧にしまう佐藤悦子さん(写真:穐吉洋子)

それから数カ月後、NPO代表・鈴木共子さんの元で、佐藤さんは息子のメッセンジャーを誕生させた。白いボードを切り抜きながら、これからどういう心持ちになるのか不安は大きかったものの、「隆陸が生まれ変わってくれる」と期待するようになったという。

ミュージアムの常設ギャラリーに展示されていた隆陸さんのメッセンジャー。その足元には、生きた証しとしての靴、秒針だけの時計、そして数葉のはがき。佐藤さんが息子宛に送った最近6~7年分の年賀状を置いた。それぞれの年賀状には、時々の近況とともに息子との“再会”を望む思いがしたためられている。

「日野でお仕事してる隆に会いたくてたまらないよ。でも我慢。おかんも頑張るよ」

「コロナが終息したら会いに行くよ。待っててね」

「携帯も財布もセーターもコートも預かったままだよ」

佐藤さんのように、メッセンジャーがいるミュージアムを亡くした子どもの再就職先とみなす参加遺族は多い。他のメッセンジャー仲間たちと全国に“出張”し、無念さ、命の大切さを伝える重要な“仕事”をしていると考えている。

佐藤さんは言う。

「署名活動は戦いの場だけど、ミュージアムは静かな居場所なんです。隆陸にとっても、私にとっても居場所が見つかったと思っています。あそこに行けば、息子に会える。『大分から応援してるよ』って。ミュージアムは、(息子は)いないけどいるよって教えてくれてるんです」

息子の居場所があるということが佐藤さんの大きな原動力になった。2013年には、10年間の署名活動が実り、自動車運転死傷行為処罰法が国会で可決・成立した。佐藤さんはその後も活動を続け、被害者遺族のネットワーク「ピアサポート大分絆の会」を設立。遺族の声を発信し続け、2018年の「大分県犯罪被害者等支援条例」の制定に大きな役割を果たした。

◆「生きた証しを伝承する活動」が持つ効果

関西学院大学「悲嘆と死別の研究センター」研究員、赤田ちづるさん(47)は、交通事故を含む犯罪被害者の遺族を対象にした研究を手掛けている。その中で、メッセージ展のような「死者の生きた証しを伝承する活動」には、遺族が生きる目的を探すプロセスおいて一定の効果があることがわかったという。活動に参加した遺族への調査では、「亡き人と一緒に生きていると感じるようになった」との回答が多かったという。

大学でのメッセージ展の準備で、いのちのミュージアムを訪れた赤田ちづるさん(写真:穐吉洋子)

実は、赤田さんは、大分県に住む佐藤さんの長女だ。

「ミュージアムは、母の命をつなぎとめてくれたところ。感謝しかないです。ずっと体調の優れなかった母が今年、メッセンジャーを預かるようになると、別人のように元気になった。そういうのを見ると、(メッセンジャーは)すごい役割を持ってたんだと思いますね」

赤田さんは事故で弟を失った当時、すでに実家を離れて久しかったが、乳幼児2人を育てながら、両親に寄り添った。心身の不調を抱えながらも署名集めやメッセージ展に駆けつける母に何度も同行。自分の子どもたちが学齢期になると、グリーフケアを学ぼうと大学院の門をくぐった。

それは、犯罪被害者やその遺族を支援したいという理由からだけではない。「父と母と、私の悲しみでは何が違うんだろう」と、長い間繰り返してきた自問への答えを求めていた。

赤田さんは言う。

「弟を亡くしたあの日、私の中では、それまで知っていた父と母をも失ったんです。それがきょうだいを亡くすということです」

◆被害者との関係はさまざま

これまでミュージアムでは、「理不尽に奪われた命」を共通項として、親、パートナー、子、きょうだいと、それぞれ異なる立場の遺族がメッセンジャーを生み出してきた。被害者との関係はさまざまだ。

「私のようにミュージアムに感謝するきょうだいもいれば、署名活動やメッセージ展、裁判に母親を取られて寂しかったというきょうだいもいます。だけど、母親を悲しませるようなことは言わない。そこは同じだな、と」

きょうだいを亡くした時期にもよって、受け止め方が違う。6歳以下は、母親が祖父母や親戚の手を借りながら子どもの面倒をみており、放って置かれるケースはあまりない。自分のことが1人でできる中学生や高校生になると、働けなくなった親や亡くしたきょうだいの代わりを務めるなど担う。そして、突然の役割変化や居場所の喪失に苦しむことが多い。

赤田さんは2017年、メッセージ展に関わるきょうだいたちがつながる「栞の会」を立ち上げた。旅行などで親睦を深めながら、過去の出来事や吐き出せなかった思いを語り合う集まりだ。また、大阪市では、自死や病気できょうだいを亡くした遺族も含めた集まりを定期的に開いているという。

東京・日野市にあった、いのちのミュージアム常設ギャラリー(筆者撮影)

関西学院大学では2016年からメッセージ展を開催している。赤田さんは今年も実行委員の学生2人を引率して、東京都日野市のミュージアムを訪れた。学生がギャラリーを見学する間、赤田さんはアトリエで作業し、事務所で打ち合わせをして過ごした。

ミュージアムに来館しても、弟・隆陸さんのメッセンジャーのいるギャラリーには立ち寄らずに帰ることが多いという。

「私は、母のようにパネルの弟に向き合ったり語りかけたりはしないです。だって、ショックじゃないですか? 母の命をつなぎとめるのに、これ(メッセンジャー)に勝てないんですよ。1枚のパネルに」

◆「人型パネル」の詩に秘められた思い

2001年活動が始まり、2010年に常設展示ができた「生命のメッセージ」展。活動拠点は間もなく閉じられ、移転先探しはこれから本格化する。大分県の佐藤さんら、各地に「下宿」中のメッセンジャーたちが再び1カ所に集う日は、いつになるだろうか。

活動を立ち上げた鈴木共子さんは、アーティストだ。これまで、偽りのない気持ちを多くの詩につづってきた。「人型パネル」と題する詩では、活動への思いも伝えようとしている。

人型パネル

アトリエに
「メッセンジャー」と呼ばれる
人型パネルを作るために
遠方より遺族が訪れた真っ白なパネルから
亡き愛するものを
切り出して
愛おしそうに磨き上げる
我が子、我が妻、我が夫
我が母、我が父
我が兄弟、我が姉妹
たかが人型パネル
されど人型パネル哀れさと無念さが
こみあげて
磨く手がしばし
止まってしまうが
遺されたものたちが
渾身の想いをこめて
生命を吹き込んでいる
たかが人型パネル
されど人型パネルこのままあなたたちを
葬り去りはしない
忘れさせはしない
断ち切られた未来を
想像力で取り戻させる

◆いのちのミュージアムは現在、ギャラリーやアトリエを併設できる施設を探すしている。生命のメッセージ展は引き続き各地で開催予定。詳しくは、いのちのミュージアムHPへ。(記事中の年齢昨年12月の取材時のものです)

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