徳川家康のお墓はなぜ日光に(後編) 家康の遺言「新発見」 家康が眠るのはどこ?  歴史ミステリー

日光東照宮の奥社宝塔(墓所)。昭和40年の東照宮350年祭を機に一般公開された

 徳川家康の遺骸が眠るのは、日光か静岡か-。近年、関係者の間で論争が続いている。広く知られている家康の遺言は「日光に(神として)祀(まつ)れ」であって、「日光に埋葬せよ」ではなかった。研究者は「日光説」を支持しているが、日光、久能山の両東照宮ともに墓所の発掘調査をした訳ではなく、決定打に欠けていたことも事実だ。いったいどちらが本当なのか。家康の遺骸の行方に迫ってみたい。

 1616年4月、家康が駿府(すんぷ)城(静岡市)で亡くなると、遺骸はその日のうちに、約10キロの距離にある久能山へ移された。お供したのは側近の本多正純(ほんだまさずみ)や天海(てんかい)(天台僧)、以心崇伝(いしんすうでん)(臨済僧)ら。夜中、降りしきる雨の中を人目につかないよう担ぎ上げたという。

 日光に移されたのはその1年後。家康の一生を絵巻物にした東照社縁起には「元和3(1617)年、神体をば金輿に奉り、4月4日には日光山に着かせたまふ」と記載されている。ひつぎは日光東照社(当時)の奥社に納められたという。

 この「改葬」に対し近年、久能山のある静岡市の関係者は「家康は静岡に眠っている」と主張している。「余ハ此処ニ居ル」というキャッチフレーズを掲げ、「余=家康」は「此処=久能山」に眠っているとのキャンペーンを展開している。静岡市の関係者も「家康が静岡にいるのは、市民の共通理解だ」と口をそろえる。

 静岡の関係者がその根拠の一つとしてあげるのが、天海の詠んだ和歌だ。「あればある なければないに駿河なる くのなき神の宮遷しかな」。これを「躯(く=亡きがら)のない神様の宮遷し」と読み解けるのだという。栃木県民にとって、看過できない意見だ。

 だが、研究者は遺骸が日光に運ばれたとみている。東照社縁起には、死の1年後に遺骸を移した藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の例を踏襲して日光山に移した旨の記載がある。「改葬」に同行した公卿も「尊體(身体)を日光へ遷し奉らる」と記している。

 ただし、家康の墓所である日光東照宮の奥社も、久能山東照宮の神廟も、発掘調査は行われていないため、「静岡派」の伸長につながっていた面もあった。

 

 そんな中、「遺骸論争」に一石を投じる新たな「発見」があった。家康は、広く流布されている遺言とは別の遺言を残していたのだという。大阪大大学院准教授の野村玄(のむらげん)さん(47)が史料を丹念に調べ、その存在を導き出した。

 紀伊徳川家の史料(徳川紀伊和歌山家譜)には、「家康の遺命は『遺骸を久能山に3年留め、その後日光山へ改葬する』だった」と記載されていた。

 2代将軍秀忠(ひでただ)が紀伊徳川家の家老に対し、「病気がちで自分はおそらく3年はもたない。遺命に反して1年で改葬したい」との考えも示していた。これを伝え聞いた当時駿河国の領主であった頼宣(よりのぶ)は涙を流し、「秀忠の意向に従うのみである」と答えたとある。

 野村さんはさらに調べを進め、尾張徳川家の初代藩主・義直(よしなお)が編んだ史料「御年譜」の草稿にも同じような「遺命」の記載があることを発見した。この史料によると、遺命をした日は4月7日。この日付は「日光に勧請せよ」とした従来の遺言の数日後にあたる。

 徳川御三家のうち、尾張と紀伊の両家の史料に同じ内容の遺言が記されていたことから、野村さんは「息子たちにとって、日光への改葬は規定事項だった。状況証拠も踏まえると、遺骸は日光にあると考えざるを得ない」と受け止めている。

 これを受け、日光東照宮の神職は「ご遺骸の所在を重要視している訳ではない。ただし、東照宮の由来を記した東照社縁起にも『尊体を日光山へ移し』と書かれており、野村さんが明らかにした遺言と合致する」としている。 

東照宮所蔵の東照社縁起には、大僧正天海を導師に、日光山に向かう霊柩(れいきゅう)の行列が描かれている
日光東照宮の石鳥居の扁額「東照大権現」
家康の遺命が書かれた「徳川紀伊和歌山家譜」が掲出された「大日本史料」(東京大学史料編纂所編)
野村玄さん

© 株式会社下野新聞社