横浜ビー・コルセアーズ竹田GM×青木HC×山田AC対談「OB3人衆が語るアツき“海賊魂”」[前編]

根底にあるアツい思い『ビーコルを強くしたい』

大好評発売中の『月刊バスケットボール2023年5月号』にて特集している横浜ビー・コルセアーズ。クラブを支える竹田謙ゼネラルマネージャー(GM)、青木勇人ヘッドコーチ(HC)、そして山田謙治アシスタントコーチ(AC)の3人は言わずと知れたクラブのOB。本誌内でもアツいビーコル愛、もとい“海賊魂”を語ってくれたが、それは氷山の一角にすぎない。ここでは誌面に載せ切れなかった3人の掛け合いを紹介する! ※取材は2023年2月21日


──現在はコーチ、フロントの職に就かれていますが、3人共に横浜BCのOBでもあります。選手から現在の立場に変わってチームに関わるというのはどのような感覚ですか?

青木

自分がやる、やらないというよりも周りの方々から求められて今の立場になれたので、それは何かの運命というか。流れに身を任せて今の立場にたどり着いたという印象ですね。でも、選手だった頃にどこでキャリアを終えるかを考えたときに、どうしても最後は地元クラブでもあるビーコルでプレーしたかったんです。晩年でしたが、それがかなってキャリアを全うしたタイミングでコーチのお声掛けいただいたので、この上ないタイミングだったなと思います。だから、何も考えずに流れに身を任せて『ここでまたバスケをやってこう』という気持ちでそのオファーを受けました。

竹田

僕も勇人(青木HC)さんと同じで流れのまま今に至るという感じで、選手としてはそろそろかなと思っていたタイミングでお話をいただけて自然に今の職に就いたという感覚です。ビーコルを強くしたいなとはずっと思っていたんです。選手からフロントになるのでポジションは変わりますが、選手時代にできなかった分、今度は違う立場でまたやってみようと思いました。

山田

僕は地元が横浜市というのもありますし、キャリア終盤に一度クラブを離れた時期もありましたが、選手人生が終わったときに今度はコーチの立場で必要としてもらえました。選手時代は、特にBリーグになってからはなかなか結果を出せていなかったので、竹田GMが言ったとおり…。

竹田

「GMが言ったとおり…」。GMなんて呼ばないじゃんいつも(笑)

山田

…“竹田GM”が言ったとおり、僕もチームを強くしたい気持ちがあったし選手も若くなって良い方向に向かっているので、ここで仕事ができるのは良いことだと思っていますね。

共通点が多くて思いが伝わりやすい3人

──みなさんは年齢こそ違いますが、非常に良い関係性なのが見て取れます。

青木

2人とも選手として一緒にやっていたのが一番大きいですね。謙(竹田)とは新潟で、謙治(山田)とはビーコルで一緒にプレーしました。このクラブの一番つらい時期を乗り越えてきた仲でもあるので、『ここで勝ちたい』という気持ちをみんなが持っています。選手として苦労してきたことをお互いに話しながら、チームをどうやって勝たせるのか、チームのために何ができるのかを考えています。とにかく3人とも共通点が多くて思いが伝わりやすいので、それが一番やりやすいです。

竹田

もう長い仲なのでお互いの考え方や性格も分かっていますし、ビーコルを誰かに任せるとなったときに、一番チームを知っていて思いが強い人がいいなと思っていたんです。そうなるとこの2人以外いないのかなと。今までずっとビーコルを支えてきてくれたのも知っていたので、今はすごく安心感がある中で僕はGMの仕事ができているんです。

これはすごくラフな言葉になりますが「楽」って感じ。楽というのは良くない面ももちろんありますが、ベースにはみんながビーコルを強くしたいという思いがあって、特にこの2人はずっと選手としてやってきたので安心感というのが一番大きいですね。

山田

2人がほぼ全部話してしまいましたが(笑) 勇人さんともタケ(竹田)さんとも選手時代に一緒にプレーしていたので、関係も長いしすごくやりやすいです。自分の意見を言えたり情報共有もしっかりとできるし、変に気を遣わなくていいやりやすさがありますね。ちなみに普段はGMって呼びますよ(笑)

竹田

ウソつくなよ(笑)

青木

呼び方がややこしいんですよ。僕が2人を呼ぶときは謙と謙治で、謙治が僕らを呼ぶときは竹さんと勇人(タケト)さんだから(笑)

竹田

僕が2人を呼ぶときは勇人さんと謙治なので一番ややこしくないです。GM呼びとか逆にディスってますよね(笑)

2013年のbjリーグファイナルに臨む当時の青木HC

ビーコル加入は “人生の中のファインプレー”

──「呼び方ややこしい問題」があるのですね(笑)。青木HCと山田ACは選手時代にはクラブ創設期から所属した初期メンバーでした。当時のチームにはどんな思い出がありますか?

山田

最初は結構大変でしたね。新規チームということで練習環境も選手もいろいろなところから集まって一からのスタートだったので、まずチームとしてまとまるのが難しかったです。ただ、初代のヘッドコーチ(レジー・ゲーリー)が教育者のような立ち位置で日本人選手と外国籍選手を一つにまとめてくれて、チームとしてダメなものはダメ、良いものは良いというベースを作ってくれました。

それもあって特に1、2年目はある程度の成績も残せて2012-13シーズンにはbjリーグで優勝することもできました。でも、そこから先に荒波に飲まれたというか(笑)。僕としては良い経験よりも苦しい経験の方が多かったですが、それがあるからこそ今につながっているのかなと思いますね。

青木

キャリア晩年で現役を続けていく上でいろいろな環境や条件がありましたが、とにかく「ビーコルでプレーするんだ」と決めて実際に契約できたので、その判断は正かったと今でも思っています。僕は生まれも育ちもずっと神奈川(出身は藤沢市)でしたし、ちょうど地元にbjリーグのチームができて、まだプレーヤーとしてチームに加わるチャンスがあるかもしれない。ビーコルから声がかかったのではなくて、自分から売り込んで何とか契約にこぎつけたんです。その過程でいろんなものを犠牲にしたかもしれませんが、本当にこのチームの初期メンバーとしてプレーできてよかったです。とにかく最後はビーコルでバスケをやりたいとい思って行動していたことが今につながっているので、僕の人生の中でもファインプレーの一つだと思いますね。

最初はすごくいろんな苦労があったんですけど、常に諦めないチームでしたし、何かが起きるたびにそれを乗り越えて優勝することもできました。そのあとは大変な時期もありましたが、それも全部ひっくるめて今のビーコルだと思います。そんな時期をダイナミックに体験できたのはすごく大きな経験でしたし、頑張ってよかったなと思います。

一度現役を引退した竹田GMだが、Bリーグが開幕した2016-17シーズンに現役復帰(©️B.LEAGUE)

──竹田GMは選手時代に青木HCともプレーして、現役復帰となったBリーグ初年度には青木HCのもとでプレーしました。そして今はGMとヘッドコーチと、さまざまな立場で関わっていますね。

竹田

そうですね(笑) 勇人さんと一緒にプレーしていたときの新潟のメンバーはほとんどが今、コーチをやっている感じで、当時の熱量が今も残っているんだろうなと思います。それは僕も一緒で、だからこそ自分が現役復帰したときのヘッドコーチが勇人さんだったことに対してのやりづらさみたいなものはなかったです。

それに一度引退して復帰したときだったので、それまでなら気にしていたようなことすらも考える余裕がなくて(笑) チーム全体に対してはあまり手伝いができなかったのは反省ですが、当時は自分の選手としての価値をどう見いだしていくかにフォーカスしていたんです。そんなシーズンのコーチが付き合いのある勇人さんだったので、逆に安心できましたし、自分ができる分だけ使ってもらえるという信頼もありましたね。

青木

謙が「選手をもう一度やりたい」と言ってきたことから話が始まって、今までも活躍していたのを見てきたので『まだまだやれることがあるだろう』という確信もありました。だから彼がチームに入ってきたときも全く違和感はなかったし、僕が想像していた通りのパフォーマンスを見せてくれました。それに、謙治も選手としていてくれていたので、長くやってきた彼らが選手とコーチとのパイプ役になってくれました。僕の思いをしっかりと選手たちにも伝えてくれたので、2人にはすごく助けてもらいましたね。

竹田

でも、勇人さんは第4Qだけいきなり出すとかたまにありました(笑) 『今日は出番なしだな〜』と心の中で思っていたら、いきなり呼ばれたり(笑)

青木

いやいや、ここで一つアクションが欲しいなと思うときに仕事人的な感じでパッと出てフロアを整えてベンチに帰ってきてくれる、そのまま試合をクローズしてくれる、試合展開を変えてくれるのが謙。すごく頼りにしていました。だから、長く使うときもありましたし、サプライズで使うこともあったんです。

竹田

おじさんにそれはキツいんだよ〜(笑)

──山田ACは、そんな青木HCの元で竹田GMとも一緒にプレーしましたね。

山田

はい。竹さんがGMになったことで立場は変わりましたが、接し方はそこまで変わらないですし、やっぱり変に気を遣わないで良いのが一番やりやすいですね。僕からも意見を言いますし竹さんからも聞いてきてくれます。情報交換が密にできるのは大きいですね。

選手時代の竹さんは本当に黙々と練習をこなす感じでした。初めて同じチームでプレーしたのは栃木ブレックス(現宇都宮)のときで、当時は年代的に竹さんが一番上。僕が中堅くらいで下と上をつなぐ役目も担っていました。当時の竹さんはもちろん的確なアドバイスもくれますが、基本はとにかく黙々とやっていた印象でした。

でも、とっつきづらいような感じはなくて、遠征先ではよくご当地の物を一緒に食べにいったりもしていましたね。僕自身が竹さんや安齋竜三さん(越谷アドバイザー)などの年上の先輩たちと一緒にいることが多かったのもあると思います。

竹田

「必ずどこにでもいるのが山田謙治です」みたいな後輩だったよね(笑) 当時から選手みんなのつなぎ役というか、今もそうなんですけど、本当にみんなの情報を持っているんですよ。チームで集まるときにはもちろん必ずいるし、何人かで集まったときにも必ずいる。距離感もすごく近かったので、バスケのこともそうではないこともみんなで共有していました。本当に出席率100%でしたからね(笑)

<後編「変わらないカルチャー、過去の積み上げが今につながる」に続く>


Profile

竹田 謙

たけだ・けん/188cm/SG・SF/1978年10月5日 (44歳)/神奈川県川崎市出身/國學院大久我山高→青山学院大

青木 勇人

あおき・たけと/193cm/SF・PF/1974年1月29日(49歳)/神奈川県藤沢市出身/鎌倉学園高→専修大

山田 謙治

やまだ・けんじ/180cm・78kg/PG/1983年7月28日(39歳)/神奈川県横浜市出身/能代工(現能代科学技術)高→法政大

※身長・体重・ポジションは現役時代のもの

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