ある韓国人被爆者が切り開いた道が、世界の被爆者の希望になった 「日本人として戦争に駆り出された」郭さん、57年後の完全勝訴

 

戦争中、広島・西部第2部隊時代の郭貴勲さん(「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」提供)

 海外に住む被爆者は長い間、日本に住む被爆者と同じ医療支援などの援護を受けられなかった。「被爆者はどこにいても被爆者」と訴え、外国人や海外在住の日本人、日系人ら在外被爆者が援護を受けられる道を先駆者として切り開いたのが、2022年12月31日に98歳で亡くなった韓国人被爆者の郭貴勲(クァク・クィフン)さんだ。
 郭さんは日本の植民地だった朝鮮で生まれ育ち、旧日本軍に徴兵されて広島で被爆した。日本人として日本の戦争に駆り出され、被爆したのに、戦後は韓国人だからと何の補償もない。たたき込まれた流ちょうな日本語で「日本人被爆者と同等の権利を」と求め、裁判を闘った。
 大阪市で4月1日、郭さんをしのぶ会が開かれた。全国から被爆者や支援者、弁護士や被爆医療の医師ら約50人が駆けつけ、遺志を継ごうと誓い合った。郭さんが生涯をかけた願いは、世界中の被爆者の救済だった。(共同通信=角南圭祐)

郭貴勲さんをしのぶ会を終え、記念写真に納まる参加者=4月1日、大阪市

 ▽朝鮮人徴兵1期生
 郭さんは1924年7月1日、朝鮮半島南部の全羅北道任実郡で生まれた。太平洋戦争末期、日本は足りない兵力を補うため、44年から植民地でも徴兵を実施。郭さんは全州の師範学校に在学中の44年9月、朝鮮人の徴兵第1期生として旧日本陸軍に召集された。
 広島の西部第2部隊に配属され、幹部候補生として訓練する中、翌45年8月6日の朝を迎えた。米軍機が投下した原子爆弾の爆心地から約2キロ、工兵隊の営庭(現中区白島北町)で行進していた時だった。上半身に大やけどを負い、3日間昏睡状態となったが、何とか生き延びた。
 間もなく祖国へ帰り、戦後は韓国で教師となった。いつもきっちりとした服装の郭さん。胸や腕のケロイドを隠し、海水浴には行かなかったという。
 韓国では「原爆で日本の敗戦が決定的となり、祖国解放となった」という考え方が強く、体調不良を抱える韓国人被爆者の多くは医療支援もなく貧困の極みにあった。その中で郭さんは、1950年代から韓国の新聞に被爆体験を寄稿し、補償を訴えていた。67年には韓国の被爆者団体結成に関わり、支部長に就任する。

 

孫振斗さん

 ▽密航した孫振斗さん
 日本にいる被爆者は、被爆者健康手帳を交付されれば、健康管理手当や医療給付などが受けられる。しかし、海外の被爆者たちは違った。1965年の日韓基本条約で国交が回復すると、韓国の被爆者たちが治療を求めて日本にやって来るようになったが、日本政府は「日韓基本条約で解決済み」と手帳の交付を拒んだ。
 最初に手帳交付を求めて提訴したのが、2014年に87歳で死去した韓国人被爆者の孫振斗(ソン・ジンドゥ)さんだった。
 孫さんは大阪に生まれ、広島で被爆。戦後、外国人登録をしていなかったため韓国へ強制送還された。1970年に原爆症治療のため、佐賀県の漁港に密航し、逮捕される。
  「広島で被爆した。治療してほしい」。勾留された警察署で、広島からやってきた記者たちに被爆体験を話した。その時の記者の1人が、元広島市長の平岡敬さん(95)だ。当時、中国新聞編集局次長。平岡さんの裏付け取材で被爆の事実が明らかになり、孫さんは手帳交付を求めて裁判を起こした。78年に最高裁で勝訴、手帳を取得した。
 しかし、孫さんの勝訴で在外被爆者への援護問題が解決したわけではなかった。

 

郭貴勲さん

 ▽「朝には被爆者、昼には被爆者じゃない」
 日本政府は孫さんが一審で勝訴した直後の1974年、「海外に居住した場合には手当の受給権を失う」という旧厚生省局長の「402号通達」を出した。在外被爆者は手帳を取得できるようにはなったが、日本にいる間は手当が支給されるものの、海外に出れば支給がストップしてしまうことになった。
 郭貴勲さんも日本で手帳を取得。しかし、取得しては韓国に帰るたびに無効となるのが繰り返された。郭さんは、こう批判していた。「日本にいる間は被爆者。朝、関西空港のゲートを出て出国し、昼に韓国に帰れば被爆者じゃなくなる。こんなおかしいことがありますか」
 また、こう指摘していた。「せめて日本にいる被爆者と同じ扱いにしてほしい」。郭さんにとって日本人被爆者と同等の権利を求めた訴えは、最低限のものだった。こうも話している。「韓国人被爆者は強制連行され、被爆し、放置されるという三重の苦しみを受けた。しかし、日本政府は援護法を適用してくれない。根本には韓国人を差別する日本人の偏見がある」

国の上告断念を受け、支援者たちと喜ぶ郭貴勲さん(中央)=2002年12月、東京・永田町の衆院第1議員会館

 ▽法廷で見せたケロイド
 1998年、当時74歳の郭さんは日本政府と、手帳を交付した大阪府知事を相手取り、手当の受給資格などを求めて大阪地裁に提訴した。
 弁護団長の永島靖久弁護士は、「しのぶ会」で裁判をこう振り返った。「ケロイドがあるから海水浴にも行かないと言っていた、いつもおしゃれでダンディーな郭さんが、法廷でシャツを脱ぎ、胸のケロイドを見せた。本当に頭が下がる思いだった」
 2001年6月、大阪地裁は郭さんを受給資格のある被爆者と認め、大阪府に月額約3万4千円の手当支払いを命じた。完全勝訴だった。
 続く2002年12月の大阪高裁判決も、国と大阪府側の控訴を棄却。裁判長は「明文規定がないのに、いったん受給資格を受けた被爆者が国外に出ることで適用対象から外れるとの解釈は是認できず、『被爆者はどこにいても被爆者』との事実を直視せざるを得ない」と、郭さんの言葉を引用した。
 「被爆者が被った特殊な損害について、国籍や資力を問うことなく一律に援護を講じる、人道的目的の立法」。判決が強調したのは、国籍条項のない被爆者援護法の趣旨だった。
 郭さんを支援する国会議員の働きかけもあり、国側は上告を断念。勝訴判決が確定した。結果、翌2003年3月に厚生労働省は402号通達を廃止した。在外被爆者への手当支給が徐々に始まっていく。

在外被爆者の援護の充実を求め広島市役所を訪れた、ブラジルの森田隆さん(左)、郭貴勲さん(中央)ら=2005年

 ▽連帯した世界中の被爆者
 裁判では、海外在住の日本人被爆者も証言した。在ブラジル原爆被爆者協会会長の森田隆さん(99)と、米国原爆被爆者協会名誉会長の倉本寛司さん(2004年に78歳で死去)だ。「海外の被爆者にも同じ愛情を持ってほしい」などと手当支給を訴えた。
 中国に仕事で赴任した際に手当を打ち切られた長崎市の広瀬方人さん(2016年に85歳で死去)も同種訴訟を起こし、側面支援した。世界中で支援の動きが広がった。
 ブラジルの森田さんは、郭さんの成果を後にこう語っている。「日本とのつながりを絶つ402号通達に、移民は捨てられたと感じた。被爆者の連帯には大きな希望を感じ、勇気づけられる」

韓国・釜山地裁を訪れた広島三菱元徴用工の被爆者と支援者たち=2007年1月

 ▽元徴用工の被爆者たち
 「402号通達は違法」。広島高裁は2005年1月、通達の違法性を認め、国に賠償を命じた。07年に最高裁で確定したこの判決により、日本政府は在外被爆者に慰謝料を支払うことになった。
 これは、朝鮮半島から広島の旧三菱重工工場に動員され被爆した元徴用工たちが、国と三菱に損害賠償などを求めた徴用工訴訟の一幕だ。
 三菱の責任について、広島高裁は強制連行と安全配慮義務の面で違法性をこう認めた。「賃金の半分を家族に送金するとか、徴用に応じないと家族も逮捕されるなど欺罔(ぎもう)や脅迫とも取れる説明がされ、軟禁に等しい状態で移送された」「原爆投下後に救護措置を何ら取らず、食事も与えず放置した」。しかし、時効を理由に損害賠償は認めなかった。
 日本の司法とは逆に、韓国の最高裁は2018年11月、三菱の賠償責任を認めた。三菱が賠償金を支払わないまま、日韓の外交問題となってしまった元徴用工問題だ。郭さんはこの裁判の支援も続けていた。
 402号通達の違法性が認められたのは大きな成果だった。国が在外被爆者に支払う慰謝料は110万円。これまでに和解して慰謝料を受け取った在外被爆者は4090人に上る。内訳は、韓国在住3550人、米国369人、ブラジル129人などとなっている。

北朝鮮・平壌で初めて交流した南北の被爆者たち。後列右から2人目が郭さん=2005年(「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」提供)

 ▽いまだ不明の朝鮮人被爆者数
 そもそも海外に被爆者はどれくらいいるのか。岸田文雄内閣が辻元清美参院議員の質問主意書に対して2022年12月9日に閣議決定した答弁書によると、21年度時点で生存し健康管理手当などを受給している在外被爆者は2781人いる。
 最多は韓国の1975人だが、国交のない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は明らかにされていない。在朝被爆者には援護を受ける権利がないのだろうか。答弁書ははっきりとこう書く。「北朝鮮に居住している者も含め被爆者援護法および在外被爆者支援事業の対象」。では在朝被爆者はどうすれば手帳を取得できるのか。答弁書によると、申請は「最寄りの領事館を経由する」必要があるとした。つまり、中国などに出国して日本公館を訪れる必要があり、ハードルはかなり高い。
 では、広島、長崎で被爆した朝鮮半島出身者はどれくらいいたのだろうか。答弁書は「把握していない」。日本側の統計はないのが実態だ。
 韓国原爆被害者協会の推計は、広島で約5万人、長崎で約2万人が被爆し、計約4万人が直後に死亡したとする。生存被爆者のうち約2万3千人が戦後、朝鮮半島に帰国したとみられている。広島市の在日韓国人、朝鮮人の各被爆者団体は、政府に実態解明を求め続けている。
 郭さんの手記にはこうある。「韓国人被爆者を救うことは人道的立場からも、国際間の友誼(ゆうぎ)からも、日本帝国主義者たちの罪ほろぼしという立場からも正しいことであります」「韓国の被爆者たちの加害者は日本であります。責任を負わなければなりません」

「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の市場淳子会長(左)と郭さんの三男・孝成さん(中央)

 ▽郭さんの遺志
 しのぶ会には、韓国から郭さんの三男の孝成(ヒョソン)さん(63)も駆けつけた。「父は亡くなったが、皆さんが残した勝利は歴史に残る」と支援に感謝した。
 郭さんを含む在韓被爆者延べ70人を治療した阪南中央病院(大阪府松原市)の村田三郎医師は「郭さんが先頭に立って権利を勝ち取った」と振り返った。郭さんの勝訴当時、衆院議員として支援した金子哲夫・原水爆禁止日本国民会議(原水禁)共同議長も語る。「(北朝鮮を含む)朝鮮半島出身の被爆者が援護を受け取れるまで頑張りたい」。
 しのぶ会を主催した市民団体「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」は、郭さんの裁判に終始伴走した。市場淳子会長は、郭さんが「国際人権活動家」だったと振り返った。
 2001年の大阪地裁勝訴後すぐ、郭さんは国連が南アフリカ・ダーバンで開いた世界人種差別撤廃会議に招かれ、講演している。会議は奴隷制、植民地主義、先住民、移民、難民、ジェンダー、インドのカースト制度、日本の被差別部落など多くの差別問題を話し合い、奴隷制を「人道に対する罪」と認め、植民地支配には「深い遺憾」を宣言した。

郭貴勲さんの生前の映像が流されたしのぶ会

 郭さんはまた、韓国人が簡単には訪れることができない北朝鮮も訪問。平壌で被爆者たちに面会している。世界を巡るピースボートには5回乗船し、核廃絶や植民地支配の責任問題を国際社会に訴えた。南太平洋の核実験の被害者とも交流した。
 市場さんはこう語る。「郭さんは『最低限、日本人被爆者と対等な補償をすべきだ』と訴えていた。本当に望んでいたのは、植民地支配に対する謝罪と賠償だった。私たちに残された大きな課題だ」
 広島市の原爆資料館は2019年のリニューアルから、郭さんの資料を展示している。そこには「松山忠弘」の軍隊手帳も。郭さんの創氏改名の名前だ。郭さんが望んだ反戦・反核・反差別は、植民地支配の責任問題を避けては実現できない。参加者たちは遺志を果たそうと誓い合った。

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