止まった日本支援のサマワ発電所、放置された医療機器 IS元拠点のモスルは恐怖支配の遺恨残る イラクは今(下)

IS掃討作戦で破壊された建物が残るイラク・モスル旧市街=3月18日(共同)

 3月で開戦から20年となったイラク戦争を受け、日本は2004年から2年半、人道復興支援名目でイラク南部サマワに陸上自衛隊を派遣した。その活動は今もサマワ住民の記憶に残り、撤収後に関係が薄れた日本からの投資を期待する声は多い。ただ、日本の資金協力でサマワに完成した大型発電所は故障で止まり、市内の病院には未使用のまま放置された日本支援の医療機器もあった。現地の豊かな石油資源に絡み、中国やロシア企業の進出も見られた。
 一方、イラク戦争後の混乱の中、過激派組織「イスラム国」(IS)が2014年に制圧した北部モスルは、解放されて5年半以上がたつが、激戦の爪痕が深く残っていた。ISの恐怖支配の遺恨や宗派間の分断から帰還できない市民も多く、再興への道のりは遠い。(共同通信=吉田昌樹)

イラク南部サマワの商店街。イスラム教シーア派指導者サドル師の写真(上部中央)が掲げられていた=3月11日(共同)

 ▽自衛隊への評価と憤り
 自衛隊初の「戦地」派遣の場とも言われたサマワはイラクで最も貧しい州の一つ、南部ムサンナ州の州都で、人口は約15万人。2016年に30人以上が死亡するISの爆弾テロがあったが、近年は治安が安定している。

 日本は2004年1月~2006年7月に陸上自衛隊員延べ約5500人を派遣し、学校や道路などの整備や医療支援、給水活動を行った。現地で住民に話を聞くと「貢献してくれた」(71歳男性)「他国部隊と違い平和的だった」(47歳男性)と多くの人が評価し、日本に対する印象は現在もおおむね良い。
 自衛隊派遣は、米国のブッシュ(子)政権(当時)の「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上部隊派遣)」との要求に応じる形だった。国連平和維持活動(PKO)でなく、イラク復興支援特別措置法に基づいた派遣で、活動は「非戦闘地域」に限られた。
 しかし、サマワ郊外に設営された自衛隊の宿営地と周辺には、ロケット弾や迫撃砲による攻撃が続発した。2018年に公開された派遣部隊の日報には、サマワで「戦闘が拡大」などの記述もあった。

イラク南部サマワで、陸上自衛隊の宿営地があった場所の周辺=3月11日(共同)

 当時、攻撃を行ったイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の民兵組織「マハディ軍」の元メンバー、アリさん(53)とジャファルさん(51)は「日本から軍隊が来たことに驚いた」と振り返る。「日本は占領軍に参加して、自国の利益を得ていた。許せなかった」と憤りを表す一方、「日本の部隊に死傷者が出なかったと聞いてほっとした」とも語った。

イラク南部サマワで取材に応じる民兵組織「マハディ軍」元メンバーのアリさん(右)とジャファルさん=3月11日(共同)

 ▽ロシア、中国企業が石油に絡み進出
 サマワでは2008年、日本の127億円の無償資金協力で大型火力発電所が完成した。日本の支援の象徴とされたが、2013年以降は故障で停止している。内部に入ると、鳥が巣を作り、あちこちにふんが落ちていた。
 アリ・メッキ所長(38)によると、周辺地域の電力不足は深刻なままだという。ただ、4基ある発電機のうち1基は修理が完了した。費用はイラク政府の負担で、所長は「今夏には発電を再開したい」と強調した。

イラク南部サマワで故障停止中の発電所。日本の無償資金協力で建設された=3月12日(共同)
イラク南部サマワに日本の支援で建設され、故障停止中の発電所を案内するアリ・メッキ所長(右)ら=3月12日(共同)

 サマワの総合病院では日本から贈られた高額の医療機器の一部が使用中だが、使われずに放置された機器もあった。病院関係者は「使い方が分からなかった」と苦笑した。病院敷地に置かれたコンテナにも、使われなかった空調用などの資材が多数残っていた。
 一方、地元当局などによると、ムサンナ州周辺ではロシア企業などが油田開発に乗り出し、中国企業も進出している。中国はイラクに学校を千校建てる事業を進め、ムサンナ州では50校以上が整備されるという。イラク側は事業費を石油で賄う方針だ。
 地元当局者らからは、日本の支援や投資に期待する声も出た。州の教育担当幹部のサード・カディム氏(56)は「学校整備への協力は住民の利益になる」とアピール。州知事の経済顧問ハイダ・ムハンマド・サレハ氏(52)は「建設や石油分野で日本企業に来てほしい」と望んだ。マハディ軍のメンバーだったアリさんとジャファルさんも「サマワ住民の多くは貧しいまま。われわれは日本のことは好きだ。投資に来てほしい」と訴えた。

イラク南部サマワの総合病院で、日本から贈られ使われず放置された医療機器=3月12日(共同)
イラク南部サマワの病院敷地にあるコンテナには使われなかった日本からの資材が残っていた。カタカナで「サマワ」と書かれた付箋もあった=3月12日(共同)

 ▽IS支配の象徴の場所
 ISが2014年6月に電撃的に制圧し、イラク国内の最大拠点とした北部モスルは、軍の作戦で2017年7月に解放された。現在は至るところで道路や住宅の修復工事が行われ、市場は買い物客でにぎわっている。だが、ISが最後まで籠城した旧市街の一部は廃虚と化したままだった。爆発物が放置された恐れがあるとして、立ち入り禁止のテープが張られた建物もあった。

車や買い物客らで混雑するイラク・モスル市内=3月18日(共同)

 旧市街の歴史的礼拝所、ヌーリ・モスクも再建工事が続いていた。IS指導者だったバグダディ容疑者=2019年に死亡=が「国家樹立」を宣言してIS支配の象徴の場所となったが、軍の作戦で追い詰められたISが2017年に自ら爆破した。
 モスク前でパン屋を再開した男性(57)は「今は治安の心配はない」と笑う。ISに親族を殺された作業員タハさん(50)も「暮らし向きが良くなることを願う」と話した。
 一方、国連が今年2月に公表した報告書によると、現在もイラクと隣国シリアに推定で5千~7千人のISメンバーや支持者がいる。戦闘員はその半分という。政府が2017年12月にISからの全土解放を宣言した後も、テロ事件は国内各地で起きており、脅威は消えていない。

イラク・モスル旧市街で再建工事が進むヌーリ・モスク=3月18日(共同)

 ▽宗派分断、帰れない市民多く
 モスル市内も各所にシーア派の指導者や有力政治家らの写真が掲げられていた。サドル師、マリキ元首相、米軍に暗殺されたイラン革命防衛隊精鋭部隊のソレイマニ司令官―。モスル市民の多数派はスンニ派だ。モスル出身の男性(40)は「人々は苦々しく思っている」と明かす。

イラク・モスル市内。2020年に米軍に暗殺されたイラン革命防衛隊精鋭部隊のソレイマニ司令官とPMF指導者らの遺影が掲げられていた=3月18日(共同)

 モスルでは当初、スンニ派のISを多くの市民が歓迎した。イラク戦争を受けて2006年に誕生した国内多数派シーア派のマリキ政権(当時)がスンニ派市民を冷遇し、シーア派を偏重したためだ。
 IS掃討作戦には、隣国イランの影響を受けるシーア派民兵組織、人民動員隊(PMF)が参加し、現在はイラクの正規の治安部隊に組み込まれている。モスル市民からは「金を要求する」「理由なく人々を拘束する」とPMF批判の声が出た。スンニ派主導のフセイン独裁政権時代を「治安が良かった」と懐かしむ人も多かった。
 モスル郊外の避難民キャンプは、今もテントが数多く並ぶ。2017年からここで暮らす女性(54)は「息子がISに参加したためモスルに帰れない」と打ち明け、涙を流した。自宅はISを恨む近隣住民に破壊された。避難中に亡くなった高齢の母親の遺体をモスルで埋葬したいと望んだが、拒絶されたという。
 キャンプの指導役の1人、ワリド・アハメドさん(35)によると、家族がISに関係したという理由で帰還できない避難民は多数に上る。アハメドさんは「(シーア派にスンニ派が抑圧された)以前の状況に戻っただけだ」とこぼした。

イラク・モスル郊外の避難民キャンプで取材に応じる女性。「息子がISに参加した」と語った=3月20日(共同)

© 一般社団法人共同通信社