北九州・高吉正真、『足の指6本』で苦しんだ男の壮絶サッカー人生と田中碧から受けた刺激

J3ギラヴァンツ北九州MF高吉正真は先月2日に、自身のTwitterで助けを求めた。

生まれつき足の指が1本多い先天性異常の先天性多合趾症(センテンセイタゴウシショウ)により、長年痛みに耐え続けながらサッカーをプレーしていたという。

Twitterは多くの反響を集め、複数の報道機関がニュースとして報じた。それから1カ月が経過し、現在の高吉は希望に満ちあふれていた。

第7節アウェー琉球戦(沖縄・タピック県総ひやごんスタジアム、15日午後5時KO)を前に、北九州で期待されるルーキーのキャリアといまを尋ねた。

(取材日:2023年4月13日)

――サッカーを始めたきっかけを教えてください。

サッカーを始めたのは、5歳のころ。

きっかけは3歳上の兄がサッカーをやっていて、その練習を見に行って「サッカーをやりたい」と思って始めました。地域の四谷FC(東桜本小在籍)というチームで始めましたね。

――川崎の育成組織はU-15からの入団でしたね。入団した経緯を教えてください。

自分は小学校のときにフロンターレのスクールに通っていて。そこで5年生に上がるときにスペシャルクラスが新しくできて、そのクラスに入りました。

入ってから特別にセレクションがあって、セレクションに受かってフロンターレのジュニアユース(U-15)に入ることができました。

――U-15には2学年上に田中碧選手がいましたけど、刺激や影響は受けましたか。

最初に田中碧くんを見たときは、正直なこと言っちゃったら「これでプロに行けるんだ」と思っていて。「プロになったらどうするんだろう?」と最初は思っていました。

ですけど、あの人は「努力の天才」だとユースのときから思っていて、その努力が実っていまの活躍に至っていると感じた。

自分も努力していればそこまでいけると思っているので、いまは努力を欠かさずやっていますね。

――U-18で同期だった宮代大聖や、大学でも共にプレーした山田新から受けた刺激はありますか。

刺激はありました。大聖は高校卒業とともにプロ(トップチーム昇格)になって。自分も(トップチームに)行きたかったけど行けなかったので、ライバルとして悔しい気持ちがありました。

(山田)新とは大学で4年間一緒になって。彼はめちゃくちゃ成長していくし、サッカーがとても好きな子なんで(笑)。自分は(川崎に)戻れなくてJ3スタートですけど、また一緒に出来たらいいなと思います。

日本有数の育成組織に入団した高吉。一方でサッカーキャリアは、痛みとの戦いでもあった。幼少期に両足を手術するも、身体の成長とともに逃げられない苦痛を強いられた。

――幼少期に足の手術をしたと聞きました。詳細を教えてください。

(高吉の足の異常は)先天性多合趾症(センテンセイタゴウシショウ)というんですけど、普通は多指症と言ってきれいに6本指が生えているんですよ。

自分は親指ほどの大きさの指がもう1本(枝分かれするような形で)生えていて、(足の指の)爪が割れて合体していた。

それで(片足に)1本あって、生まれて間もないときに(両足から1本ずつ)切断しました。

――サッカーをプレーするときは常に足が痛かったのでしょうか。

(プレーキャリアの)最初の方は、はけるスパイクがありました。ただ新しい(デザインの)スパイクの足幅がだんだん狭くなっていって、はけるスパイクが少なくなっていきました。

中学生まではギリギリはけていたんですけど、高校生ぐらいから新品のスパイクをはけなくて…。

高校はプーマさんをはいていたんですけど、(新しいデザインが出ると)幅が狭くなってきちゃって、スパイク選びが大変になりました。

――川崎U-18はプーマのスパイクをはきますもんね。サッカーをプレーする上で対策などはしていましたか。

途中で指と指がくっついて痛くなっちゃって…。5本指に分かれた5本指ソックスをはきました。

それから(5本指)ソックスの上からソックスをはこうとなって、そこから5本指ソックスとソックスをはいていました。

それで痛みは少し緩和されました。5本指ソックスにしてから指当たりはなくなったので結構良かったです。ただ小さい痛みはありました。

ソックスの二重ばきなど工夫しながらプレーを続けた。痛みに耐えながらトップチーム昇格を目指すも、想いは叶わなかった。果たせなかった夢を叶えるために、高校卒業後は昨年度の全国覇者である桐蔭横浜大へと進学した。

――U-18ではトップ昇格は見送られ、桐蔭横浜大へ進学しました。入学の経緯を教えてください。

桐蔭横浜大は1個上に早坂勇希先輩(J1川崎)がいました。

彼のお誘いで「(桐蔭横浜大に)来てみたらどう?」と言われて、練習参加した感じも雰囲気も良くて。ここなら成長できるし、家からも近くていいなと思って選びました。

――大学の環境やレベルはいかがでしたか。

最初はレベルが高いなと思いました。

どんどんプロも出ていって、ここで成長すればプロになれるイメージは描けましたね。ここでみんなとやれば上手くなれるし、強くなると思いました。

――大学で成長したプレーや自慢できる部分を教えてください。

自慢できる部分はロングフィードが上手くなった点と、ポジションを(センターバックからボランチに)変更して守備能力が上がったことですね。

メンタル面でいえば、自分はユース上がりでとてもプライドが高くて、自分はセンターバックじゃないと無理という考えでした。

だけどプライドを捨てて「試合に出ればどこでも活躍してやろう」というメンタルに変わったことが1番の成長だと思います。

――北九州の入団経緯と練習参加して感じたことを教えてください。

練習参加(の話)が4年の夏に来て、そこで北九州に拾ってもらいました。

(北九州の選手は)みなさん上手くて、プレースピードが違うと感じました。(大学のプレースピードよりも)1歩、2歩早かったですね。

自分は(プロ内定が)全然決まらなかったので、(決まったときは)ホットましたね。

――そして大学最後の全国大会インカレで初優勝しました。大学サッカーを有終の美で終えたときに何を思い浮かべましたか。

最初は(総理)大臣杯で負けて、リーグ戦もあんまり良くなくて…。

正直優勝できるとは思っていなかったんですけど、そこでチームが一つにまとまって優勝できたので、とてもうれしかったです。

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強豪大で活躍してプロ内定を勝ち取り、全国大会初制覇に貢献と最高の時間を過ごした。その一方で足の痛みは高吉から離れようとしなかった。工夫をしても、努力を重ねても、逃れられない生まれつきの苦しみは、高吉の心に暗い影を落とした。

(後編に続く)

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