四日市メリノール学院中・稲垣愛ヘッドコーチ指導者インタビュー「基礎基本の徹底で選手の成長を促す」[リバイバル記事]

驚くほど成長率が大きい中学カテゴリーのとりこに

2017年創部後、数年にして全中、Jr.ウインターカップで2度の優勝を成し遂げている四日市メリノール学院中女子部。その指導者が、かつて朝明中を率いて全中準優勝を果たした稲垣愛コーチだ。明るく、愛にあふれた指導で選手たちからも慕われる稲垣コーチ。指導者としてのこれまでの歩みや、大事にしているモットーを聞いた。

※『月刊バスケットボール』2021年12月号掲載記事を再編集した記事になります

――バスケットボールを始めたのはいつ頃ですか?

小学4年生のときに転校した先の小学校にミニバスがあり、転校生ということで周りが誘ってくれて始め、バスケットに魅了されました。私は四日市出身で中学・高校と地元の学校でしたが、そこでも迷うことなくバスケ部に入りました。

中学校の恩師は理科の先生で、叱るにしても一つ一つ納得のいく形で指導してくださる方でした。自分は能力もサイズもなくて大した選手ではありませんでしたが、能力に頼らないバスケットを指導していただき、どんどん楽しくなった感じです。中学、高校と全国には出ていませんが、高校で東海大会に出ました。

――そこから愛知大に進まれましたが、大学時代について教えてください。

中学や高校の恩師の影響で、子どもの頃から『将来は先生になってバスケットを教えたい』と思っていました。それで国語が好きだったので国語の教員になろうと、愛知大に。バスケットというより、国語の勉強がしたくて進路を決めました。

大学時代は3、4年生のときに東海学生リーグのアシスト王になり、4年生のときに愛知大として初めてインカレに出られたことが印象に残っています。当時の東海地区は愛知学泉大がめちゃくちゃ強くて、周りの大学も体育大など強化している大学ばかり。その中で愛知大は、監督からあれこれ言われるというよりは自分たちで考えるチームでした。プレー面でもチーム作りの面でも自分たちでやっていくのは大変でしたし失敗もたくさんありましたが、インカレ出場という成功体験ができたことはすごく良かったです。

――その後、朝明中で指導することになった経緯を教えてください。

卒業後もまだもう少し選手としてやっていきたいなと思い、クラブチームを立ち上げて、会社勤めをしながら国体選手として何年かプレーさせていただきました。それでそのまま国体のスタッフになり、最初は成年女子の指導をしていたんです。

その頃、中学校の恩師が朝明中の教頭になられたのですが、それがたまたま女子バスケ部の前任の先生が異動されるタイミングでした。その前任の先生もすばらしい指導者で、2004年には全中にも出ています。その先生が異動されるということで、外部コーチとして指導してくれないかと恩師に誘われたのがきっかけ。それが2007年のことです。

――成年女子と中学生とでは、指導の内容も方法も全く異なりますよね。

はい。中学生を教える経験がそれまで全くなかったので、最初は本当に手探りでした。成年と違って、中学生はそもそもバスケット用語が分からない。例えば「ディナイしよう」と言ってもディナイがどんなものか分からないので、手の位置はここ、視線はここ、重心の位置はここ…と一から教える必要がありました。ただ、中学生は教えれば教えるほど、驚くほどに成長する。たった1日でもガラリと変わるんです。気付けば成長率がすごく大きい中学というカテゴリーのとりこになりました。

偉大な先輩指導者たちに学び全国大会で貴重な経験を積む

――指導2年目の2008年には、全中に出場しました。

外部コーチになって1年目、当時の3年生が「全中に出る」という目標を自分たちで立てたんです。それなら私も中途半端なことはできないなと思い、勤めていた会社を辞めて指導に専念することにしました。それでも正直、まさか2年目で出られるとは思っていなくて、あれよあれよと勝っていけたことには驚きでした。1年目の3年生含め、当時の選手たちが高い目標に向かってよく頑張った結果だと思います。

あの年は県大会の1回戦、3Qで23点くらい離されていた点差を4Qでひっくり返して勝ったんです。勢いそのままに県大会で優勝して、東海大会では杉浦裕司先生(現東海学園大監督)率いる若水中に勝って全国に出ることができました。そのとき、杉浦先生がまだ2年目の私に対して、試合後「ここからの東海はお前だからな、頑張れよ」と声をかけてくださったことを鮮明に覚えています。全中を逃して悔しいはずなのに、そんなふうに言ってくださるなんてすごい指導者だなと思いました。

全中では得失点差で予選リーグ敗退でした。勢いで来たのはいいものの、全国はそんなに甘い世界ではなかったなと痛感しましたね。

――その後、2010年にも全中に出場されましたね。

山田愛(元ENEOS/海外挑戦中)や、四日市メリノール学院中(以下メリノール中)で今、アシスタントをしている高橋成美の代です。この2人は1年生のときからスタメンで、2008年の新潟全中も経験していたのでキャリアがありました。

2人が1年生のときは、たとえミスをしても周りの3年生たちが「どんどんやっていいよ」と声をかけてくれました。当然、1年生が入ってスタメンを外れる子もいたわけですが、全く腐らず一生懸命やってくれて…。そういう3年生の姿を見て受け継いでいったことが、2010年の全中出場につながったと思います。

――東海地区はレベルの高いチームが多いですが、もまれて成長できた部分はありますか。

それはすごく大きいと思います。特に杉浦先生と(クラブチームの)ポラリスの大野裕子先生には、本当にお世話になりました。バスケットの強化以前に、子どもたちとどう向き合うべきか、指導者として大切なものを教えていただいた気がします。こうしなさい、ああしなさいとは絶対におっしゃらない2人なのですが、一緒に練習させていただく機会も多かったので近くで指導する姿を見ながら多くのことを学びました。大野先生はうちの追っ掛けなのではと思うほど応援してくれて(笑)、2010年の広島全中も見に来てくれました。杉浦先生、大野先生、そして八王子一中の桐山博文先生と、メリノールの男子を見ている山﨑修先生。この4人は私にとってすごく影響を受けた大きな存在です。

――2013年、準優勝を果たした全中では、準決勝で若水中と対戦しましたね。

あのときも、全中の直前まで若水中とずっと一緒に練習していたんです。“ライバル”というより“仲間”という感じでしたね。全中で杉浦先生はベンチに入れず2階の観客席にいたのですが、試合後、私が階段を上がっていったら杉浦先生が両手を広げて待っていてくれました。「よく頑張ったな」と。若水の保護者の方々も「愛ちゃん先生、ありがとう。次も頑張ってね」とみんな声をかけてくださって、本当に温かいな、ありがたいなと思いました。

――その年は平野実月選手(トヨタ自動車)や粟津雪乃選手(東京羽田)を擁した年でした。前年は全中不出場でしたが、準優勝まで飛躍できた要因は何でしょうか?

入学した頃とは別人のように、選手たちがよく成長してくれました。それに前年に全中を逃したとき、2点差で浜松開誠館中に負けたのですが、選手たちに「何が足りなかったのか自分たちで考えなさい」と言ったんです。そうしたら、新チームでキャプテンになる平野が持ってきた答えが「“気付き”が足りませんでした」ということでした。「気付きが足りないからルーズボールやリバウンドが取れないし、仲間の不調にも気付けない。だから学校で何か困ったことがないか探します」と言ってきて、その一つとして朝に草抜きをすることになりました。それ以降、草抜きの習慣はメリノールでも続いています。コート外の私生活から“気付き”を磨こうと、選手たち自身が答えとして出してきたことは大きかったです。

コロナ禍で改めて実感したバスケットを“楽しむ”大切さ

――朝明中からメリノール中に引き継がれたものの一つに、「できる できる 絶対できる」という合い言葉がありますね。これは稲垣コーチが考案されたのでしょうか?

この言葉は、人からいただいたものです。私自身、会社勤めを辞めた後に縁あって公立高校で講師をしていました。その高校はラグビーが強くて、その先生からもいろいろ勉強させてもらって。そのとき「子どもたちはみんな『どうせ俺なんて』と諦めている。できる、できる、絶対できると自分の可能性を信じさせることが大事」という話を聞いて、その言葉をいただくことにしました。

――2017年、メリノール中に赴任された経緯を教えてください。

最初はメリノールの高校でバスケットを強化してくれないかと声がかかり、即答でお断りしたんです。私はやはり中学の指導にやりがいを感じていたので。そうしたら2、3日後に、では中学校でいいので来てくれませんかと話が来ました。迷いましたが、朝明中では私は外部コーチの立場で、練習以外の時間は子どもたちの様子が全く分からない。もちろん子どもたちには「私が見ていない間をどう過ごすかが大事だよ」とは伝えていたのですが、もっと毎日子どもたちと一緒にいたいなと思って移ることを決めました。

――メリノール中での指導の環境はいかがですか。

学校の先生たちがものすごく熱心に応援してくださるので、すごくありがたい環境です。周りの応援が子どもたちの励みにもなりますし。コロナ禍で今年の全中は見に来ていただくことができなかったのですが、普段は県大会、東海大会、全中と会場に足を運んで応援に来てくださる先生たちもいて、すごくうれしいですね。

――2018年には新しい体育館もできました。そのオープニングゲームでは、桜花学園高と愛知学泉大で公開試合をしたのですよね。

はい。ありがたいことに、井上眞一先生と木村功先生が「じゃあ俺らがやるか」と言ってくださって。こんな機会はなかなかないですし、地域の子どもたちに“本物”に触れる機会を作ってあげたくて、近隣の中学校に良かったら見に来てくださいと声をかけたところ、何百人もの中学生が来てくれました。高校や大学のハイレベルなプレーを間近で見て、中学生たちも大きな刺激を受けたと思うので、本当に感謝ですね。

――メリノール中でも朝明中のときと同様、指導2年目の2018年に全中に出て、その翌年にも2年連続の出場を果たしました。

あのときも子どもたちがよく頑張ってくれました。2年連続でベスト16でしたが、その負けからも多くを学びましたね。特に2019年の和歌山全中では、すごく仲のいい八王子一中が相手。お互い何度も練習試合をして「全中の決勝で会おう」と言い合う関係だったので、決勝トーナメントの組み合わせが決まったときには桐山先生も私も「よりにもよって!」と頭を抱えました(笑)。でもその試合も本当に楽しかったです。4Qに入るまで同点で、やれることはやったかなと。試合後は、桐山先生が勝ったのに泣きながら「お前の時代がもうすぐ来るからな」と声をかけてくれました。杉浦先生といい桐山先生といい、偉大な指導者は懐が広いです。試合を心から楽しむことができましたし、結果以上の収穫がありました。

それにその試合、なかなか調子が上がらなくて悔しい思いをしたのが当時2年生の黒川心音(桜花学園高)と東紅花(福岡大附若葉高)でした。負けた日の夜に2人が私のところに来て「先生、明日練習を見てください」と言ってきたんです。それですぐに帰って練習しました。

3年間、あの2人がどれだけシュートを打ってきたか一番そばで見ていました。今年1月のJr.ウインターカップも決勝は東のシュートが当たらなかったのですが、「お前で負けるなら全然いい。何本打っても構わないから思い切りやれ」と言いました。そうしたら後半に爆発してくれて、延長に持ち込む3Pシュートも決めてくれて優勝できた。東のメンタルには、ゲーム中でもほれぼれしました(笑)。あのときも試合が終わってほしくないくらい、本当に楽しかったですね。

――“楽しむ”ことを、稲垣コーチ自身大切にされているようですね。

コロナを経験して、より強くそう思うようになりました。言ってしまえば“たかがバスケット”だと思うのですが、そのたかがバスケットをどれだけ一生懸命ひたむきにやれるかが大事なのではないかと思うんです。中学校の3年間って本当にあっという間に終わってしまうので、楽しまなきゃ損。もちろん、うまくいかなくてつらい日や苦しい日もきっとありますが、それも含めて楽しんで、逃げずに立ち向かってほしいと思います。社会に出てからの方が、もっとしんどいこともありますから。夢中になって一生懸命取り組むからこその楽しさを感じてほしいです。

――昨年(2020年)はコロナ禍で地元全中の中止も経験されました。

中止が決まったときは緊急事態宣言中で、チームが解散していたんです。ネットのニュースでパッとその情報が出たのが、忘れもしない私の誕生日。なんて苦いプレゼントだろうと思いましたね。一番つらかったのが、子どもたちにすぐには会えなかったこと。本当は顔を見て、全中がなくなったよと伝えたかったし、どんな表情で、どんな気持ちでそれを受け止めたのか近くで見守りたかった。それができなかったことがすごくつらくて心配でした。

そのときは子どもたち全部員48人に、一人一人手紙を書きました。この苦しい時間があったから今の自分があると、そんな未来になるように今を踏ん張ろうと。そんなことがあったので、よりJr.ウインターカップでの優勝は感慨深かったです。子どもたちがよく乗り越えてくれたなと思うし、コロナ禍の大変な状況の中でいろいろな対策をしながら開催してくださった関係者の方たちには本当に感謝しています。

地元でやるはずだった全中も、三重県の先生たちが開催に向けてずっと準備を頑張ってくださっているのを知っていました。中止が決まって中心となって準備してくださった先生に1年のお礼のラインをしたのですが、そのとき「メリノールが躍動する姿、優勝して先生を胴上げしている姿を思い描いて準備をしていたので、すごく悔しいけれど、これからも頑張ってください」という返信をくださいました。私も三重県の先生たちがずっと応援の声をかけてくれて、それで自分自身を奮い立たせてきた部分もあったので、その言葉には泣きましたね。

コート外での“気付く力”がルーズボールやリバウンドに表れる

――稲垣コーチは、選手に考えさせることを大事にしているそうですね。その一環として黒川心音選手に、一時期はタイムアウトから交代まで全て任せていたとか。

そうですね。結局、私がプレーするわけではなくてコートでやるのは選手たち。試合の中で、自分たちで修正しなければいけない場面がたくさんあるのがバスケットです。だから選手たちが自分の頭で考えることを大事にしています。

黒川は足も遅いし運動能力は高くない子でしたが、その能力の不足をほかの能力で補える。バスケットIQが高くて、私の指導歴の中でも「こんな子がいるのか」と驚くような選手でした。あの子にはもう一皮も二皮もむけてもらいたかったので、ベンチワークなどいろいろなことをさせたんです。しかも最初にそれをやったときにはまだ2年生でしたから、先輩たちに向かって交代も言わなければいけなくて大変だったと思います。

――考えさせることのほかに、指導の上で大切にしていることはありますか?

先ほども話に出ましたが、“気付く力”です。誰かが困っているときに、それに気付けるかどうか、パッと動けるかどうかがバスケットにも表れます。3年ほど前、学校に1本の電話がかかってきました。聞けば電車の中で缶チューハイが倒れていて、それを見た中学生がさっと自分のかばんからタオルを取り出して、床を拭いて缶を拾ったと。それを見た大人が感動して、学校に連絡をくれたんです。その生徒は今の高校1年生で、当時は中1でした。そういうことが自然とできる子は、将来社会に出たときにも絶対にかわいがってもらえますよね。それが一番大事ですし、気付く力こそがルーズボールやリバウンドの差に表れるのだと思います。

――今後に向けて、稲垣コーチ自身の目標を教えてください。

直近ではJr.ウインターカップの連覇。そこに挑戦できるのはうちだけなので、そのチャレンジを子どもたちと楽しみたいと思います。去年の先輩たちや開催してくださる関係者、応援してくれる方々に感謝の気持ちを持ってひたむきに戦いたいです。

指導者としては、子どもたちに3年間やり切ったな、楽しかったなと思わせるような指導をしたい。選手が楽しくないと思うのは指導者の責任だと感じています。

あと技術的なことで言えば、徹底してファンダメンタルを身に付けさせること。後々、高校や大学でもバスケットを続けてくれたらうれしいし、その中でファンダメンタルは裏切りません。この先、どこに行っても通用するように、一人一人に基礎からしっかり指導していきたいです。


Profile

いながき・あい/三重県出身/愛知大時代、PGとして2年連続の東海リーグアシスト王。4年次にはインカレ初出場を果たし、卒業後は国体選手としてプレー。その後、外部コーチとして朝明中を指導するようになり、全中準優勝などの好成績を残す。2017年、創部のタイミングで四日市メリノール学院中に移り、18、19年と全中に出場。その後、全中、Jr.ウインターカップをそれぞれ2度日本一に導いている

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