西洋伝来? 伊賀の銘菓になぜか「ながさき」 老舗菓子店がルーツ探る

伊賀の銘菓「ながさき」のルーツを探り続けている桔梗屋織居の中村社長=長崎市浜町、浜屋百貨店

 三重県伊賀市に「ながさき」という銘菓がある。市民のおやつとして親しまれ、土産物店にも並んでいる。長崎から遠く離れた場所で、なぜ?。伊賀市の老舗和菓子店「桔梗(ききょう)屋織居」の中村伊英(よしひで)社長(63)がそのルーツを探るうちに、西洋伝来やキリシタン弾圧といったワードも浮上してきた。
 「ながさき」は黒砂糖を煮詰め、あめ状にした後、小麦粉を混ぜて練り、固まったブロックを棒状に切った半生菓子。かめばほろりと崩れる素朴な食感で、茶席でも広く使われる。伊賀市では現在、桔梗屋織居を含む和菓子店数軒が製造している。
 最初に作ったのは「長崎屋義永」。1607年創業の桔梗屋織居は、後発の長崎屋義永から仕入れ、販売してきた。だが長崎屋義永は約30年前に廃業。中村社長は同店関係者と連絡がつかず、作り始めた時期や詳しい由来は分からないまま。それでも再現しようと25年以上かけ、納得のいく食感の製法にたどり着いた。
 中村社長は、煮た糖蜜に何かを混ぜ合わせる製法は西洋から伝わったとして、「ながさき」の発祥について、長崎で西洋菓子づくりを学んだ人が伊賀に移り住み、作り広めたと推察する。俳人・中村汀女(1900~88年)著「ふるさとの菓子」でも、全国の銘菓とともに「往昔、長崎の人来住し、紅毛菓子をもととして製す。故に長崎菓子」と紹介されている。
 中村社長が調べたところ、もともと長崎屋義永(当時は別名)は軟膏(なんこう)を売っていたが、夏は売れず、菓子づくりも始めた。松やになどから作った軟膏は、オランダ貿易で長崎に輸入されていたものに類似しているという。
 さらに、同店の創業地は、明治初期の長崎市浦上地区であったキリシタン弾圧「浦上四番崩れ」で一部の信徒が配流された場所だった。浦上四番崩れでは3千人以上が各地に流罪となった。このうち伊賀上野(現・伊賀市)では1873年に禁教令が撤廃された後も長崎に戻らず、残って商売を始めた者がいた。このことから中村社長は「長崎屋義永の創業者は長崎のキリシタンだったのではないか」とみる。
 「ながさき」の足跡をたどるように、桔梗屋織居は初めて長崎市に出店。浜屋百貨店で25日まで期間限定販売している。中村社長は「今回の催事をきっかけに、ルーツに少しでも迫りたい。長崎の皆さまにも、広く知っていただけたら」と新たな情報提供に期待している。

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