尾崎豊没後31年に想うこと 生き続けることの意味|山岡鉄秀 尾崎豊がこの世を去ったのは1992年4月25日。尾崎と同い年の私も偏差値に偏重する無味乾燥な管理教育に辟易としていたが、当時の私は、人のバイクを盗んで暴走したり、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりするのは馬鹿げたことだと思っていた――。(サムネイルはアルバム『ALL TIME BEST』)

校内暴力や登校拒否で学校は荒んでいた

尾崎豊と私は同い年である。

若者の間でカリスマ的人気を誇った尾崎がこの世を去ったのは1992年4月25日。あれから30年以上の年月が流れた。30年はそれなりに長い年月だ。街の風景もすっかり変わり、日本は長い停滞の末に先進国の座から転落しようとしている。それどころか、外国の属国になり果てる日が近づいている。

我々が中学生だったころ、校内暴力や登校拒否で学校は荒んでいた。「3年B組金八先生」の第1シーズン、第2シーズンがリアルに同時進行していたのだ。高校に進むと、校内暴力はなかったが、しらけたムードが教室を支配していた。きっと同世代の人でも、楽しい高校時代を今でも懐かしく思い出す人もいるのだろう。

しかし、私にとって高校の3年間は捕虜収容所で過ごしたように感じる日々だった。人間は苦痛に感じる月日の記憶を本能的に消し去ろうとするらしい。ある友人は、離婚した前後の記憶が飛んでしまい、空白になっているそうだ。私も自分が何年何組にいたのか、全く思い出せない。

覚えているのは教室に充満したしらけた空気だけだ。生徒は教師を尊敬しておらず、教師も機械的に知識を授けるだけ。個性や独創性は評価されず、膨大な知識をひたすら詰め込んで、所定のタイミングで効率よく吐き出すトレーニング。その習熟度を偏差値と呼ばれる数値で示す。

それが得意な人間が頭がいいとされる。それも能力のひとつだが、そのようなあり方に疑問を持たない従順な人間が有利になるシステムだ。

かくして、画一的なコピーのような人間が大量生産されていく。日本は規格大量生産の時代に繁栄のピークを迎えたが、規格大量生産に適した人間を規格大量生産していたのだ。規格外の人間にとって、これほど苦痛な空間はない。

「こんな教育とも呼べない教育をしていて、日本が将来没落しなかったら不思議なことだ」と真剣に思っていた。その懸念がいま現実となって目の前にある。

「先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか」

この時、私以外にも悶々としながら日々を過ごしていた同世代の2人の男がいた。

尾崎豊(1965年11月29日生まれ)と石井希尚(1965年2月10日生まれ)だ。言うまでもなく、尾崎はすでに他界し、伝説の歌手になっている。尾崎の歌を聞けば、尾崎がやはり画一的な教育に必死に抵抗していたことがわかる。

もっとも、尾崎の場合は小学校時代から登校拒否を繰り返し、中学校では喫煙で停学処分を受けているから、早くから反抗児路線を走っていたようだ。それでも高校は青山学院高等部に入るのだから、勉強はできた上に裕福な家庭だったことがわかる。

しかし、せっかく私立高校に入っても、尾崎の破天荒な性格は変わらなかった。喫煙やオートバイでの事故、さらには渋谷で飲酒の末に乱闘騒ぎを起こしてパトカーが出動したりと暴れ続け、ついに無期限停学処分となる。のちに停学処分は解けたが、自主退学となった。そんな破天荒で自滅的な尾崎はしかし、高校在学中の1983年、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で鮮烈なデビューを飾り、やがて全国に名が知れ渡った。

偏差値に偏重する無味乾燥な管理教育に辟易としていたのは尾崎も私も同じはずだった。しかし、当時の私は、大人を責めても仕方がない、なぜならば、大人もまた現在の社会構造に組み込まれた存在に過ぎず、その社会構造を変革しない限りは解決できないと考えていたからだ。だから、人のバイクを盗んで暴走したり、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりするのは馬鹿げたことだと思っていた。

「卒業」

人は誰も縛られた かよわき子羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか

「15の夜」

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま 暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に 自由になれた気がした 15の夜

しかし、やりきれない虚しさは同じで、高校を中退してシンガーソングライターとしての才能を遺憾なく発揮し、若者のカリスマと化して行く尾崎を横目に、私は受験勉強の在り方にも強い疑問を感じて集中できず、裕福でもなかったので、当時の成績で無試験で入れてくれる大学に入学した。

この時点で尾崎と自分の接点は日本社会への絶望だったが、当時、尾崎へのシンパシーや憧れはなかった。

同い年でやはり悪戦苦闘している男がいた

一方、早生まれで学年はひとつ上だが、同い年でやはり悪戦苦闘している男がいた。作家、結婚カウンセラー、牧師、フリースクール校長、実業家、ミュージシャンなど多彩な肩書を持ち、HEAVENESEというバンドのリーダーを務める石井希尚(まれひさ)だ。乃木希典を尊敬する父親が希尚と名付けた。

東京都世田谷区出身。明星学園小学校、明星学園中学校・高等学校に在学していた石井は音楽一家に育ち、やはり裕福なバックグラウンドを持つ。明星学園といえば、「個性尊重、点数のない教育」の自由な校風で知られていたが、その明星学園が点数重視の受験体制に移行したことに石井は激しく反発した。

尾崎のような不良ではないが、体制に抵抗する激しさは共通している。友人らの退学処分を見直させるために、デモやハンストまで行い、教育の根本を問いただす運動を展開した。

石井の性格を象徴するエピソードがある。制服もなく、服装を定める校則もないはずの明星学園高等部で、1人の級友が退学勧告を受けた。その男子生徒は、リーゼントで剃りこみを入れていたのが不適切と見なされたのだ。

規則がないはずなのに規則違反と見なすことを理不尽と感じた石井は、級友たちを誘って猛然と学校側に処分の見直しを求める運動を開始する。集会を開き、デモ隊を組織した石井はついに校長室に乗り込み、校長に向かってこう叫んだ。

「校長、こいつの目をみてやってください! こいつが悪い奴だと思いますか?」

校長はリーゼントの生徒の目を見ると、「思わない」と答えた。しかし、退学処分の決定は覆らなかった。その男子生徒は暴走族にも入っていたので、不良とみなされ、救えなかった。

絶望した石井は自主退学を決める。そして石井は尾崎と同じように、偽善的教育者を憎み、社会への怒りと復讐心を音楽にぶつけた。本人の言葉で表現すれば、反社会的な情熱の塊だった。俳優の内田良平から詩を渡され、作曲依頼を受けたこともあった。

「ゴキブリ」という曲名でライブハウスのコンテストで優勝した。

局面を変えた、中学時代の恋人からの電話

ここまでの歩みは、尾崎と類似性が高い。しかし、やがて石井の生き方を根本から変える局面が来た。それは、中学時代の恋人からの電話だった。原因不明の難病に罹ってしまった彼女は大学病院に入院し、話し相手を求めて石井に連絡して来たのだった。

彼女との再会は、誰も信じないと誓っていた石井の心を解きほぐし、病室で交際を再開した。しかし、彼女の容体は悪くなる一方だった。20歳になった石井は一念発起し、音楽活動を中断して、完全歩合制のセールスマンとなり、彼女の治療のためにお金を稼ぐ決心をした。

研修を受けて現場に出て2週間後にはトップセールスマンとなり、月収は額面で100万を超えた。彼女を助けるためだという情熱が石井を駆り立てた。難病を抱える彼女と結婚するためにはお金が必要だと思ったのだ。

しかし、彼女の病状はさらに悪化し、緊急入院の後に面会謝絶となる。彼女と会うことはおろか、話すこともできなかった。すっかり落ち込んだ石井に、クリスチャンの上司が祈ってくれた。彼に続いて祈った石井は、自分の中に鬱積した大人や社会に対する怒りや憎しみが流れ去るような感覚を覚えた。神聖な体験だった。石井は教会で丁稚奉公を始めた。

石井の祈りも虚しく、翌年の元旦、彼女が亡くなったという知らせが届いた。彼女の遺影の前で、石井は人目もはばからず嗚咽した。溢れ出る涙の中で石井は、自分の彼女への愛が、実は自分のエゴに過ぎなかったと悟る。石井の人生が大きく転換し、尾崎とは異なる精神世界への道を歩み始めた。

石井は音楽活動を再開するが、以前の復讐心を込めた音楽から、ゴスペルを中心に、神の愛や希望を込めた音楽に変貌していった。

石井は英語を猛勉強する傍ら、仲間数人と共に日本で初めてのフリースクール「寺子屋学園」を設立し、ドロップアウトした子供たちをサポートした。さらに全米フリースクール連合議長パット・モンゴメリーなどと交流しながら、教育分野で活発な活動を行う。

「学校なんて行かなくてもよい」が石井の持論だ。

「15の夜」と「イノセントマン」

その後、石井は新人歌手のバックなどのキャリアを積み、1991年、ポリドール系のレーベルよりデビューを果たす。1993年、ゴスペルミュージカルに魅了され渡米し、カルバリー・チャペルで一般カウンセリング、プリマリタル・カウンセリング、聖書学を学び、インターンを経て、1994年3月、カルフォルニア州認定の牧師の任命を受け、晴れて正規の牧師となった。ロサンゼルスでR&Bシンガーとして活動していた久美子とも結婚した。

尾崎の10代の心の叫びが「15の夜」だとすれば、石井の魂の叫びは「イノセントマン」だろう。

「イノセントマン」

15歳の時は理想主義者だった
世間知らずだったけど 戸惑いもなかった
世界を変えてやると 意気込む夢心に
理想と現実の区別なんてなかった
16歳のときさ 社会の歪みを見せつけられて
とことん失望したのは
夢を少しずつ捨てて行くことこそ
大人になることだときづき始めたんだ

信じてた奴らが大人になり急いで
変わっていくのを 僕はただ見ていた
理想は理想 現実は現実
おまえは純粋馬鹿だと 人々はそう言ったよ

I am an innocent man
I am an innocent man…

表現は違っても、あのころ、3人は同じような気持ちを抱いて生きていた、異端だった。

最も平凡な私は大学でもバブル期の学生生活を送ることもなく、奇人変人ばかり集まる弁論部に自分の居場所を見つけていた。弁論大会で優勝したこともあったが、地味な学生生活だった。

そのころ、尾崎はスランプに陥り、曲が書けず、無期限活動停止を宣言する。単独渡米するも収穫ないままに帰国し、新しいアルバムも出せず、新曲の発売がないまま始めたライブツアーは体力が持たずに途中でキャンセルとなった。

そして1987年12月22日、ついには覚醒剤取締法違反で逮捕されてしまう。警察に通報したのは父親だった。尾崎は1988年2月22日まで東京拘置所で過ごす。裁判では懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決が下った。

終焉と出立のコントラスト

そのころ大学を卒業しつつあった私はすぐにでも海外に飛び出したかったのだが、親に心配をかける気にならず、米系石油会社に就職した。自らが嫌悪した大人になるにつれ、必死にあがく尾崎とは対照的に、私は平凡な道を漫然と歩み続けていた。

しかし、社会人生活を経て私は再度「このままでは日本は必ず没落する」と確信する。そう考えた理由は、日本人はかつて私が失望した教育のなせる業なのか、ひたすら成功した前例を踏襲するばかりで、状況の変化に自発的に対応する発想が乏しすぎると感じたからだ。

やがてバブル経済が崩壊したが、大半の日本国民はしばらく実感を持てず、伝説のディスコ「ジュリアナ東京」を始めとする高級ディスコでダンスに興じていた。

私はついに日本を飛び出す決意を固める。いったん日本の外に出て、勉強も仕事もやり直してみようと思った。シドニー大学大学院への留学を決め、シドニー行の飛行機に飛び乗った。1992年4月19日のことだった。そしてその6日後の4月25日、尾崎は突然、この世を去った。

早朝、民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていた尾崎は昼過ぎに病院で他界した。あまりにも謎めいた死だった。日本社会への失望を共有していたかもしれないが、私が新しい人生に踏み出したのと同時に、天才シンガーソングライター尾崎は数々の名曲を残してこの世を去ってしまった。

そして、その翌年の1993年に石井は前述のようにアメリカへと旅立って行った。不思議な人生の交差点であり、終焉と出立のコントラストだった。

阪神・淡路大震災発生を機に、妻の久美子と帰国すると石井は、1997年12月、調布市つつじヶ丘にてカフェ「KICK BACK CAFE」を設立(後に仙川に移転)。カフェ内で高卒認定資格が取得出来る、フリースクール「コミティッド・アカデミー」を経営しながら、牧師としての活動も続ける。

2000年、処女作である『この人と結婚していいの?』(新潮社)が20万部を超えるベストセラーになる。そして2012年10月、三味線、尺八や琴と洋楽器を組み合わせたバンド「HEVENESE」のリーダー&ツインリードボーカルとして、シーラ・Eが⽴ち上げたStilettoflats Musicより世界デビューして今日に至る。

30代になって、尾崎の歌が心に響いた

尾崎も石井も、現実に直面し、悩み、虚しさを抱えながらも生きようとする心を歌っている。私が尾崎の「僕が僕であるために」に出会ったのは、すでに30代に入ったころだった。

「僕が僕であるために」

心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
(中略)
僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで

この曲は尾崎のデビューアルバム「17歳の地図」に収録されている初期の作品だから、尾崎が10代のころに作った歌である。当時、全く興味を持てなかった尾崎の歌が、30代になっていた私の耳に不意に飛び込んで来て、心に響いた。

私はすでに日本を飛び出して、オーストラリアで自分の人生を模索していた。なぜいまごろになって尾崎の歌に強いシンパシーを感じるようになったのか。尾崎が早熟だったのは間違いないが、30代になって急に尾崎が身近に感じるようになり、尾崎の歌を聴き始めた。30代になって、若き尾崎の心情が共有できるようになったのは不思議だ。

歌手としての知名度は石井より尾崎のほうが遥かに高い。しかし、石井は戦い続け、生き続けている。日本の将来を憂いて、自身の動画番組(Heavenese Style)やコンサートを通じて、かつての大和魂を取り戻せと叫び続けている。理解者の輪は確実に広がっている。

私はと言えば、あれほど失望していた日本に戻って、保守言論界の末席から「このままでは日本は消滅する」と警告のメッセージを発している。2人の声は、31年前にこの世を去った尾崎の歌ほどに人々の耳に届くことはない。

それでも、2人は叫び続ける。やがて還暦を迎えても叫び続けるだろう。

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山岡鉄秀

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