Vol.24 意味体験の類型について「客観・覚醒」その2[映像表現と気分のあいだ]

今回は前回後半に引き続く形で、「客観・覚醒」内に位置する、各意味体験カテゴリー同士の関係性を扱っていく。

前回(Vol.23)

は、代表的なカテゴリーとしてざっくりと「再認識」「普遍・正義」「覚醒」という3つの意味体験カテゴリーを示した。

加えて、根本的なカテゴリーである「知識・理解」、「普遍・正義」に近しい「啓発」、危険への対応を迫る「警告」という3つを示し、これら計6カテゴリーについて、それぞれの映像表現を例示した。

図1 「客観・覚醒」タイプ内の、各意味体験カテゴリーの位置(筆者作成)

さて前回は、天気図の話を頭出しして終わっていたので、まずそこを引き継ぐところから始めよう。ここでまず言及していきたいのは「主観的な感じ方」と「知による思考」の関係性についてである。

主観的な感じ方、「腹落ち」

天気図では「陸地が固定された」状態で天気が解説される。一応フォローすれば、地球の自転周期上に張り付いた衛星から見れば、国土も固定して見えるわけなので、天気図の表現が間違っているということではない。そうではなく、それを私たちが見て、どう感じているのか?の方にフォーカスするのが目的だ。

実際、国土=地球は日々刻刻、恐ろしいスピード-日本の位置だと時速1500キロメートルで自転し、その上公転もしている。しかし、例えこのことを知っていても、日常の身体感覚に慣れてる私たちからすれば、地球が回転していることを忘れていても特に問題ない(私たちも一緒に回っているからだ)。

天気図は、そのことを思い出させるギミックをひょっとしたら盛り込める、格好のツール候補かもしれないが、もちろんそれを思い出させることはない。つまり私たちは自転を事実上忘れている。その証拠に、例えば日の出、日の入り、東から太陽が昇る、といった言い方が廃止されないのも「地球人の主観に基づく身体感覚」がまだまだ主導権をもっているからだ。

※その意味では、手塚治虫先生は、様々な主観的常識に対して戦っておられた。これなど地球的主観への挑発と捉えたほうがいいだろう。手塚先生は深すぎる。

天才バカボン OP テーマ ©KING RECORDS

「西から昇り東へ沈む」という歌詞の呈示は「地球人の主観に基づく身体感覚」への挑発だったのかもしれない(©KING RECORDS)

さて、身体感覚やそれに伴う認知は、このように、あくまで「主観的な感じ方」に基づく。つまり往々にして「主観的な感じ方」を、「啓蒙的な知・科学的な知」に優先させたがる。

例えば量子力学の説明(確率によって状態が変わる)を理解したとして、それを「体感的にわかる」という人はまずいないだろう。体感的にわからなければ、普段は気にしないでいい。日常生活では「ま、そういうことらしいね、知らんけど」で放っておけるから別にいいのだ。

量子に比べると、重力はまだ感覚的納得が容易なはずだが、それでも知識と身体感が釣り合っているとは言い難い。ニュートン以前も以降も、ほとんどの人間にとっては「物が落ちる」のであり「お、重力が引っ張ってるなあ…」とは感じない。かように、科学的な知識や真実=「知識・理解」を得ていても、私たちの日常の身体感覚は、容易には変わらない。

身体感覚と並んで、認知バイアスというものもある。二つはかなり異なる領域のものといえるが、「主観性の優越」という意味においては双璧をなすトピックだろうと思われる。「あの人は今まで信頼できる人だったから、今後も間違ったことはしないだろう」とか「最近は地震がないから、まあしばらくは大丈夫だろう」とか、そういった類いの思い込みだ。

習慣に組み込まれた感じ方・認知の仕方は、そうそう自ら否定できない。否定すれば私たちの日常認知を大変革しなければならず、そもそも「腹落ち」しない。腹落ちする・腑に落ちないなどの「内臓感覚」こそが人のこころを動かす要因だ、と解剖学者の三木成夫先生は著している。

つまり主観・習慣に基づく認知や意味体験には「内臓感覚的な腹落ち」があり、そこには身体的・文化的・生来的な要因もすべてひっくるめて「納得感」がある。

これとは逆に、「普遍・正義」の意味体験というのは、科学的知識や理念など「頭でわかってもらう」しかないタイプのものである。

つまり、内臓でわかるか・頭でわかるかの違いが、対立関係の根幹にある。

三木成夫著「内臓とこころ」

「腹落ち」に直結する意味体験は、(

本稿Vol.13

Vol.14

で紹介した)「帰属・回帰」の意味体験に他ならない。

前回

見た通り、「客観・覚醒」内のカテゴリーにおいて「帰属・回帰」に親和的なものは「再認識」だった。

この「再認識」は丁寧にいえば、「『腹落ち』していることを、改めて頭でも理解し、その結果さらに『腹落ち』が進む、そのような意味体験」のことである。前回例示した映像からもわかるように、科学的な理解というよりは、道理的な理解、心情的な理解が主である。

さてこうして整理していくと、「客観・覚醒」内の主要なカテゴリー対立としては、

「再認識」

vs

「普遍・正義」(この場合の普遍知は、科学的知識による部分が大きい)

となる。とはいえ、幹の構図は、

「帰属・回帰」(=主観・習慣)

vs

「普遍・正義」

に他ならない。

図2 世界観の対立構図(筆者作成)

生来的世界観と啓蒙的世界観

主観・習慣vs「普遍・正義」(この場合の普遍知は、科学的知識による部分が大きい)の対立図式について見てきた。この対立図式を、さらに抽象的に捉えてれば、そこに浮き上がるのは「慣れ親しんだ、生来の慣習や文化を優先するあり方(ローカル文化=生来的世界観)」と「知識による啓蒙的な理想を優先するあり方(啓蒙的世界観)」という対立の構図だ。

前回、18世紀の啓蒙的知識人(フィロゾーフ)たちによって、宗教より人間理性や合理性が重んじられ(非合理的な啓示や神話、旧来の教会権力が否定され)、そこから人間中心主義的で合理的な近代の道徳観念体系が樹立された、という文脈を説明した通りだ。

「普遍・正義」は、普遍としての科学的知識と、統治的な理想主義が手を取り合って生来的世界観に立ち向かうことで「近代意識」を作ってきた。このムーブメントの呼称が啓蒙、と言っても大過ないだろう。

結果として、啓蒙はかなりの程度成功してきた。例外はあれど、概ね啓蒙側・知識側は生来慣習を凌駕、改変してきた。特に自然科学の普遍知は、土着信仰や迷信を改めさせ、魔術を無力化し、長い時間をかけながらも、私たちの主観や習慣に大きな変化を加えてきた。今後もこうした流れは続くようにも感じる。

ちなみに米国の歴史家モリス・バーマンは、こうした合理的な科学思考によって感動を失い、色あせてしまった今の世界を批判し、世界の再魔術化が必要だと説いている。

モリス・バーマン著「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」

余談だが、最近気になるのが飲酒についてである(筆者も酒飲みである)。古来、人は酒を嗜んできたし、「適量の飲酒は体によい」という説も支持されてきた。しかし、近年、米医学誌「ランセット」に掲載された論文によって「飲まないのが最も健康的」ということがほぼ確定したそうだ。それでもほとんどの人々は特に気にせず、飲酒を楽しんでいるので問題なさそうなのだが…

他方、以前まで皆があれほど吸っていたタバコは、体に悪いという科学的根拠(知識)によってかなり放逐されてしまった。酒ほどではないが、人類史的には1000年以上続く嗜好品であるタバコも、科学啓蒙的な言説には太刀打ちできなかった。となると…

酒が体に悪い、という科学的・啓蒙的言説が今後強まるかはわからない(そうならないでほしい)が、遠い将来にはどうなっているかわからない。酔いの気分が「魔術」として断罪されていないことを願う。

そんな余談も踏まえつつ話を戻せば、啓蒙的世界観(=科学啓蒙的な言説)によって、生来的世界観(慣習や行動)は今もこれからも、ある程度の時間をかけつつ、様々改変を余儀なくされる予感はする。

そんな中、今現在も様々な対立が起きている。さきほどの抽象化に沿ってわかりやすくいうなら、その対立は「慣れ親しんだローカル文化・作法」と「正しく科学的なルール」の間で起きる。まずはこれを身近なレイヤーから思想的なレイヤーまでに分けて、みていこう。

世界観の対立・身近な例

ホテルでチェックアウトを2分遅れたら追加料金を取られた。タイムカードをうっかり押し忘れたら、それで一切残業代が出ない。ゴミを分別し忘れたら無茶苦茶怒られる。このくらいいいじゃん、謝るから許してよ、なんでそこまで厳しいんだよ、というこの手の事象には枚挙にいとまがない。情状酌量が認められず、状況よりルールが優先され、人はそこに理不尽さを感じ、モヤモヤする。

上の例は、日常における、人間社会のルールや取り決め、を巡る攻防、と言ってもいい。「日常における、具体的な現場ルール」において、いわゆる慣習を優先するか、ルールの正義(=普遍・正義)を優先するか、である。

文化慣習を優先すれば「そのくらい、まあいいよ」ということになり、一見寛容さを感じる。もちつもたれつ、みんな仲良く、という和の精神もここに近い。だがそれが行き過ぎればナアナアの癒着が横行し、汚職や談合、ガバナンス不能につながる。体育会系のノリ、滅私奉公の精神(最近では「ブラック」とも呼ばれる)もここに近く、パワハラやセクハラの温床ともなる。

こうした、特に日本の儒教精神に基づく共同体的ルール、あるいは和の感覚は、今や旧来の感覚、昭和の感覚、ムラの感覚として、特に21世紀に入ってからは急速に糾弾されつつある。筆者もそうだが、大抵「昔とは会社のコミュニケーションが全く変わったよね」と呟いているのは80年代や90年代に社会人となった人々だろう。自虐的にいえば「守旧派」かもしれない。

さて一方で、ルールの正義や合理性を優先するならどうだろう。上の例でいえば「そんなの単にルール違反でしょ?はいアウト」で済まされる。ダメなものはダメ、なのであり、ルールに則って淡々と「粛々と」処理されればよい事象、ともなる。

「粛々と」処理する-これはいわば、人間的な感情を交えず、ルールに即し機械的に判断を行い、その判断に従って機械的に処理をする、ということだ。余計な感情や忖度など不要。極論をいうなら、この判断や処理をするのは人間でなくてもよい。コンピューターやアルゴリズムがやっても構わない。

ご存じの通り、現に決済のジャンルでは、こうした社会実装が完了している。駅の改札が良い例だ。昔のようにキセルをすることは許されず、残高がなければ粛々とゲートが閉ざされるのみだ。非常に合理的である。あーごめん財布忘れた、今回はオマケしてくれ、ツケで頼む、みたいな交渉は一切通用しない。クレームも無駄だ。「一旦お支払いいただいた代金は、いかなる理由があろうとも返金いたしません」である。

上記は「融通が利く・きかない」という対立例のイロイロ、ということができるだろう。他にも、

「責任や覚悟ばかり言う vs 権利ばかり主張する」

「本音=愚痴ばかり言う vs うわべや正論しか言わない」

「人の顔色ばかり窺う vs ルールを振りかざし、相手のことを考えない」

などなど、卑近な社会生活は、この手の対立の縮図だらけだ。図式が見えれば、対象は人でも会社でもサービスでもなんでも、かなり当てはめることができる。

会社や社会を告発・風刺する文脈は両サイドからの視点が入り混じっていて興味深い。帰属回帰の文脈が、行き過ぎたローカルルールの横行となり個人の権利が侵害される、というものもあれば、合理や正義が人間性の希薄さにつながり、包摂や安堵が得られない、というものもある。

世界観の対立・政策的な例

より大きな領域をみれば「政策的に決めるルール」などをめぐる攻防もある。

例えば環境に悪い(とされている)レジ袋が有料になる、地球環境を守るために昆虫食や代替肉を強制導入するなど、ある共通規範、普遍の正義に基づいた政策的判断・ルールがここにあたる。理屈や大義は一応理解できるとしても、いままでの生活習慣・やり方が強制変更される。だからどうもしっくりこない、などモヤモヤが残る場合がある。

職場でいえば、例えば「社内公用語をいきなり英語に決定する」ようなケースはここに該当するだろう。もちろん英語はビジネス上重要だから、できるに越したことはない。「でもそれを社内の公用語にまでするか?」という感情は「帰属回帰」的なメンタルに起因しているだろう。一方で、「海外展開を強化すべきなのはロジカルに明白、大胆に断行しよう」と思うなら「普遍・正義」側に近い考え方といえる。やや極端かもしれないが図式的にいえばこうなる。

国家単位での意思決定においては、例えば昨今議論がかまびすしい、EV普及などのカーボンニュートラル関連の政策、あるいは昆虫食をめぐる議論などもここに該当するだろう。

こういったルールは政府や企業が法令、法律、通達で決める類のものが多く、やや抽象的かつ政策的テーマなため、生活目線では直ちにその意味が把握できない場合も多い。しかし実は社会的な影響は非常に大きい。大店法や規制緩和によって、街の風景が一変したのも、外資系の企業が激増したのも事実だ。

こうした変化をどんどん受け入れる世界観(政策的感性)もあれば、頑なに拒む世界観もある。前回触れた通り、実のところ当然ながら、私たち個人個人の中でだって、両方の世界観が常にせめぎあっている。対立・戦いはそもそも私たちの内部で起こっている、といってもよいのだ。

そして大概、時代の進化に対応して旧来のやり方を変えようと、ルールが変更されるそのときに、大きな対立・戦いは起きる。

多くの場合、ルール変更に反対する根本には「帰属・回帰」的な気分・感情がある。そこには「利他的な感性・共存的な感性・共同体的な一体感(・いままで築いてきた有形無形の蓄積)」が失われることへの危惧が、無意識のうちにある。

昨今の状況に翻訳すれば、「グローバルルールによって個人主義が増長し、共同体意識がバラバラになる(文化が破壊される)」ことへの直観的な危機感がある、という風にもいえるだろう。

世界観の対立・普遍や正義について

さて、いよいよ本丸である。ずばり「普遍や正義」をめぐる対立である。最近ココは特に、容易に発言してはいけない、アンタッチャブルな領域になりつつある。対立が鋭く、すぐに双方から敵認定され炎上するからだ。人権や市民利に関するルール、昨今ホットな、差別や男女平等、LGBTQ、パワハラ、モラハラなどのテーマ、これらは概ねここに収まる。

そして頻出する論議のポイントとして、その「正義」は誰のためのものか、その「正義」の先にどのような幸せが描けるのか、というものがある。例えば綿野恵太氏は、アイデンティティとシティズンシップの対立、という図式で昨今の正義を巡るムーブメントを解題していて、かなり考えさせられた。

綿野恵太著「『差別はいけない』とみんないうけれど。」

「人類共通・世界普遍」の正義を普及させていけば、当然それぞれのローカル文化との衝突が(構造的に)起きてしまう。「普遍正義を行きわたらせ、世界全体が理想の社会となるようにすべき」と考えるか、「地域ごとの歴史、伝統、生活思想があるのだから、各固有文化の多様性を認めるべき」と考えるか。いろいろな小テーマや見方、利害も絡んで、まさに今も世界中の人々が四分五裂しているように見える。

表現上の特徴

ところで、こうした「普遍・正義」・「帰属・回帰(再認識)」それぞれにおける表現に注目すると、その方法がかなり異なっている。以前の例から引用してみる。

「普遍・正義」よりの表現

「帰属・回帰」より(=「再認識」)の表現

主題や感じる印象を、思いつくままいくつか、対比的に挙げてみる。

「普遍・正義」よりの表現

  • 社会規模である。理想である
  • 視る側の日常意識よりやや「高い」世界認識
  • 能動や未来への意志がある
  • トーンはややお洒落で、デザインフル
  • 「明日」や「未来」をイメージさせる
  • 考えさせる 未来や理想志向の気分になる

「帰属・回帰」より(=「再認識」)の表現

  • 普段の生活の、ちょっとした断章(容易に共感できる)
  • 包摂的な「まなざし」がある。それは視聴者のまなざしでもある
  • ささやかな幸せの再認識がある
  • トーンがやわらかい、色彩感が淡い
  • 「イマ・ココ」を丹念に、ボトムアップに丹念に描く
  • 感じさせる あたたかい気持ちになる

このように、世界観の違いによって、当然ながら表現に織り込む「意識」や「まなざし」、みつめる「時制」などが変わってくるように思う。逆にいえば、表現を少し目にすれば「ああ、この世界観だな」ということがある程度わかってしまう。

もう少し踏み込んでいえば、別の表現=別の世界観ももっと欲しい。

こんなとき、表現するサイドはどのような視点をもつのが良いのだろうか。そこに解答があるわけではないが、ひとつ押さえておくと良さそうなのは、現実に起きている世界観の相克に対して「世界観=フィクション」と捉える視点・立ち位置を確保する、ということだ。

このことは、表現者が自分のよって立つ世界観を、すでにあるフィクションに依存するのではなく「開発」する、ということにもつながる。

フィクションとして見る立ち位置

ここまで主に「生来的世界観」と「啓蒙的世界観」の対立を3つのレイヤーで見てきた。「客観・覚醒」のカテゴリー関係でいえば「再認識」と「普遍・正義」の対立である。

しかし大きなカテゴリーとしてまだ言及していないものがある。それが「覚醒」のカテゴリーだ。このカテゴリーは、未だ認知されていない世界観=フィクションの領域である。

「普遍・正義」がより普遍的で正しい次の世界を目指す世界観=フィクションであると考えると、「覚醒」は「まだあまり考えられていない独創的な、ありうる世界」のようなものと捉えればよい。哲学用語的には可能世界、「ありえる世界」だ。「こんな世界があったらいいな」でもよい。

19世紀ロシアの哲学者であるニコライ・フョードロフは、人間の不老不死や、死者の復活を真剣に考え、その結果として地球外部へのフロンティア開拓を唱えた。そのためのテクノロジーは、もちろん当時はまだない。

ニコライ・フョードロフ(1829-1903)

ということは今風にいえば「アナタの脳内ストーリー」である。しかし、彼の書が後にロケット科学者のツィオルコフスキーらに影響を与え、ロシアは20世紀屈指のロケット大国となっていくのである。

「こんな世界があったらいいな」でいえば、ドラえもんのストーリーはこれに酷似している。よく言われるように「ほんやくコンニャク」や「もはん手紙ペン」はすでにChatGPTやその他のAIで実装されつつある。ひみつの道具箱の例では、すでに40アイテム前後が実装されたともいわれている。「脳内ストーリー」が実現され始めているということだ。

こういった「誰かの発想・ストーリーが、その後テクノロジーによって実現された」系の文脈には昨今注目が集まる。確かに現実社会に実装する、という目標を置きやすいし、わかりやすい。ただ、「テックが進化する未来」としてそのビジネス展望や可視化も進む中、もはやこの文脈の多くは「可能世界」ではなく、むしろ「次の普遍」のような位置を占めているように思える。

すると、だいぶ見方が変わってくる。

先述したとおり、啓蒙的な「普遍・正義」は、普遍としての科学的知識と、統治的な理想主義とが手を取り合って、「近代意識」を作ってきた。土着的な信仰や迷信を改めさせ、魔術を無力化し、私たちの主観や習慣に大きな変更を加え、今後もこうした流れは続く、と書いた。

しかしながら「テックが進化する未来」が「次の新しい普遍」としてスタンバイされているとなると、これまでのものと、新しいものと、「普遍」が2つあることになる。となると…

そうなのである。面倒なのは「新しい普遍」と、「これまでの普遍」がどうも対立的になっているのだ。「これまでの普遍」とは、人間中心主義的な従来啓蒙理念であり、これまで言及してきた「普遍・正義」である。グローバルなリベラル世界観といってもよいだろう。「普遍・正義」と「新しい普遍」の対立、それはAIや、生命倫理や、アルゴリズム統治やデータ監視など、様々な文脈で先鋭化し始めている。

ややこしいこの状況を以下、いったん表にまとめてみた。

フィクション1が冒頭から出ている生来的世界観、「帰属・回帰」よりのものである。さらに「これまでの普遍・正義」をフィクション2、「新しい普遍・正義」をフィクション2のNEWとしている。「覚醒」がフィクション3である。

図3 「客観・覚醒」タイプ内の、各意味体験カテゴリー・「フィクション」としての各カテゴリーの特徴分類

ここまで主に見てきた関係性は、フィクション1とフィクション2の対立だった。優先される価値の違い、共有のされ方、重視する対象世界などは述べた通りである。また、それぞれが惹起する感情、ネガティブな印象もある。

フィクション2の新旧は、もとは一心同体で共同戦線を組んでいたふたりが分離中、のようなイメージだ。

フィクション2の新旧対立は、主に「人間の権利を重視するのか」vs「効率的な遂行、処理を重視するのか」の価値観の違いともいえる。「人間中心主義」と「テクノロジーによる合理主義」の対立といってもよい。

AIや、生命倫理や、アルゴリズム統治やデータ監視。大学におけるChatGPTの利用の可否、パンデミックにおけるトリアージュの問題、あるいは遺伝子操作によるデザインベイビーの自由化など…テックの進展により、これまでとは異なる課題が噴出中だ。

これまでフィクション2は、フィクション1の非合理さや誤謬を正して「近代的な意識」を浸透していけばよかった。ところが、ここに新しいフィクション2(NEW)が出てきて、それはまさにブーメランのように、今までのフィクション2自体の非合理さや誤謬を正しはじめる。

これは食物連鎖のようだ。そして重要なのは、フィクション2はフィクション1と2(NEW)の両側から攻勢を受ける形になってしまっていることだ。世界のナショナリズム勃興などを見ると、フィクション1は明らかに力を増しているし、フィクション1と2(NEW)が結託する可能性もないわけではないだろう。

フィクション3「覚醒」の方向性はどうだろう。ここは何でもアリではあるが、テック至上主義的なSFはもはやフィクション2(NEW)の範疇に限りなく近づいている。となるとフィクション3は、今の私たちには想像もつかない(共感もしようがない可能性がある)これからのメンタルや人生動機の方に焦点をあてる向きが強まる気がしてならない。

さらにいえば「常識」が成立しない世界や、人間でない生物・物体への憑依など、フィクション1を根本的に問い直しつつ、その改良系であるフィクション2とは全く別の道を探る、という方向もありそうだ。

そんなことを考えつつ、それぞれのフィクションを支える条件とは何か、について最後にまとめてみた。

図3 「客観・覚醒」タイプ内の、各意味体験カテゴリー・各カテゴリーの「フィクション」条件と今後の表現例

フィクションには、それぞれを成立させる条件がある。前提とされるインフラや欲望としてのライフスタイル、人生動機。言語や相互理解のあり方。優先される考え方や常識。

こうした「世界を覆うフィクション」を整理・通覧してみると、そもそものフィクションとしての、「私たち個々のフィクション」というものに思いいたる。

私たちは100年足らずの短い人生を生きているが、その時間において私たちを駆動している「人生を生きる動機」というのは一体何なのだろうか、そう考えるとき、それが現行の「世界を覆うフィクション」に思い切り左右されていることに思い当たる。

そんな閉塞感から救ってくれる可能性は、やはりリフレームを伴う斬新なアート性、未知を描画する力だろう。テックの勢いに巻き込まれず、「覚醒」カテゴリーをもっと掘っていく先にこそ、フィクション2(NEW)をさらに変更するような、新しい次のフィクションが生まれてくるはずだ。

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