「セメント王」浅野総一郎② 埋め立て計画に抵抗勢力が勢いづく

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・総一郎は明治32年4月、東京府知事あてに東京築港と品川湾埋め立て届出を出したが却下。

・明治42年に再び、東京港築港計画をぶち上げたが、議会が反対。

・その後、150万坪を工業用地として埋め立てる計画を神奈川県庁に届け出た。

浅野総一郎はこうした体験で、大きな船が横付けできる港、それに隣接する埋め立て地が必要だと感じた。

「いや、去年の7月の出航の時に、大変立派な建物だと思って眺めていた横浜の税関の荷物検査所は、今回帰国してみると、きたない煉瓦造りの馬小屋にみえる。官尊民卑の日本では官僚は気位ばかり高いが、建物一つとっても、イギリスやアメリカに及ばない。日本は民間の会社がもっと成長しなければならないよ」。

そしていよいよ具体的な行動を起こす。最初は欧米視察から帰国後2年たった明治32年4月、東京府知事あてに東京築港と品川湾埋め立て届出を出した。その規模は21万坪。当時の民間による埋め立て工事はせいぜいで3万坪で、関係者が驚嘆する規模の計画だった。あっさり却下されたが、総一郎は「品川での埋め立て計画は失敗したが、必ずやり遂げる」と心に決めた。

明治42年に再び、東京港築港計画をぶち上げた。それは壮大なプランだった。羽田沖から、芝浦まで、幅300メートル、水深10メートルの運河を掘り、1万トンクラスの船舶が直接入れるようにする。掘削で発生する土砂を利用して、運河の沿岸を埋め立て、600万坪の工業団地を造成するものだ。ほかの実業家らと共同で事業計画を作成し、東京府に提出した。3700万円の資金調達の目途もついた。

府知事や市長は賛同したものの、市議会では「港を作るのは、国家的事業。民間の有志にまかせてはいけない。政府や東京市が行うべきだ」と反対した。さらにお隣の神奈川県からは「東京湾の築港は、横浜港の生命線を脅かす」という意見が飛び出した。横浜港の地位を脅かす可能性があると懸念されたのだ。

総一郎は不満を抱いていた。そもそも、行政による東京港の修築は20年以上にわたり放置されてきた問題だ。政争や財政難を理由に一向に進まなかった。それで、業を煮やした総一郎が計画を打ち上げたのに、市議会は「民間に任せてはいけない」という杓子定規な構えだ。総一郎はビジネスマンとして「築港しなければ、国家は巨額の経済的な損失が生まれ、他の国に負ける」と切羽詰った主張を展開したが、市議会は全く、聞く耳を持たず、握りつぶした。

埋め立て、築港計画は2回退けられたが、失敗してもくじけないのが総一郎の真骨頂だ。挫折をバネに挑戦を続ける。まずは実地調査が必要だと思い、神奈川から東京の海岸を五回にわたり実施した。特に横浜港に隣接する鶴見川の河口から多摩川までの海岸は念入りに調べた。

この場所は、東京と横浜の中間地点で、新橋、横浜間は東海道線の鉄道が走っている。それを使えば、船で運んできた物資をすぐに汽車で運ぶことができる水上交通が陸上交通に結節している利便性の高い、埋め立て地だ。それが5回の調査の結論だ。

こうした調査結果を踏まえ、総一郎は150万坪を工業用地として埋め立てる計画を神奈川県庁に届け出した。前例のない大規模な埋め立てのため、「無謀すぎる」という批判も多く、出資を希望する者もいなかった。県からは、なしのつぶてだった。

総一郎は何度も県庁を訪れた。

「私の出した埋め立て計画はどうなっているのですか」。

神奈川県知事の周布公平はこう言い放った。

「これほどの大事業、許可できない」。

総一郎は絶体絶命のピンチに陥る。ところが、救いの手を差し伸べる人物が現れた。

(③につづく。

トップ写真:浅野総一郎翁銅像(神奈川県横浜市神奈川区、浅野中学校・高等学校)ⒸJapan In-depth編集部

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