「セメント王」浅野総一郎物語④ 「九転十起」の男の原点

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・日本経済は総一郎が埋め立てた京浜工業地帯をスプリングボードに急発展。

・明治維新から40年あまりで列強に肩を並べる大国となった。

・ポストコロナでは総一郎の「九転十起」の精神を思い出すべき。

「銀行王」安田善次郎は、東京市長だった後藤新平にこんな話をした。

「浅野総一郎という男は、なかなかの大胆な計画な計画をたてて、金を投ずるのに苦労している人です。私は浅野以上に金を使う人が世に多くでなければ、国の仕事ができないのではないかと思います。大きな仕事をする人に大きい援助を与えることは国家的にも意義があり、慈善博愛の根本精神にも叶うのではありませんか。まず2億ぐらいの金ならば、私は身代を投げ出してでも他人に迷惑を及ぼすことはないという覚悟です」。

写真:後藤新平 安政4年6月4日〜昭和4年4月13日(1857年7月24日〜1929年4月13日)

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

この2億円という安田の資産。当時の国家予算は16億円だったので、実に8分の1ものお金を持っていたのだ。恐らく日本の歴史上最もお金を持った男だろう。

さらに驚くべきは、それを、まるごと一人の事業家、総一郎に貸し出しても構わないとまで言い切ったのだ。乱暴な計算かもしれないが、現在の予算は90兆円ほどなので、当時の2億円は今でいう「10兆円以上」。そのカネを一人の事業家に融資することになる。

日本の歴史を振り返れば、総一郎の慧眼は驚くべきものだ。日本経済は、この埋め立て地をスプリングボードに、急激に発展した。

1914年(大正6年)に第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパの大国は戦火に影響を受けたものの、新興国の日本は経済成長した。

生産拠点として大きく羽ばたいたのだ。とりわけ、世界的に品不足になった影響で、造船業や製鉄業が伸びた。日本は、明治維新からわずか40年あまりで世界の列強に肩を並べる大国となった。

昭和に入り、日本は第二次世界大戦で敗戦。焦土となったが、そこから奇跡の復興を実現した。その際も、この京浜工業地帯が大きな役割を担った。重厚長大産業の躍進が、世界第二位の経済大国を押し上げた。

京浜工業地帯は、工業立国の日本の土台を築く。

貿易立国ニッポンを夢見た男、浅野総一郎。七転び八起きならぬ「九転十起」の男と呼ばれた。その理由は何か。

総一郎は今から160年余り前、嘉永元(1848)年3月10日に、今の氷見市で生まれた。この年は、ペリーが浦賀にやってきて開国を日本に求める5年前だ。しかし、北陸の漁村ではそうした時代の変化とは縁遠かった。

写真:浅野総一郎翁像(九転十起の像)生誕地の氷見市にて)筆者提供

総一郎は次々に事業に手を出したが、失敗続きだった。その時、地元の顔役に相談しました。

「わしは七転び八起きでは足りないほど、失敗しとるわ。ダメな人間なのかもしれません」。

「それでもいいわいね。七転び八起きで足りんなら、八転び九起き、九転び十起きでもしたらいいわ。大事なのは起き上がることだ」。

「九回転んで十回起きる」。総一郎はこの言葉を聞いて、奮起できそうな気がしてきた。くじけず、また挑戦するぞ。

七転び八起きじゃない「九転十起」(きゅうてんじゅっき)だ。ともあれ立ち上がることが大切だ。

ポストコロナでは、浅野総一郎の「九転十起」のスピリッツを思い出すべきだ。

(了。①、②、③)

トップ写真:浅野総一郎翁銅像 神奈川県横浜市神奈川区 浅野中学校・高等学校 ⒸJapan In-depth編集部

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