なぜ本作は “父” に捧げられたか? 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』レビュー

はじめに

お疲れ様です。茶一郎です。今週の新作は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3』。2014年、今や現代スペースオペラの傑作と言って良いでしょう、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』から始まった「ガーディアンズ」シリーズも本作で完結となります。今回、ディズニー様に試写ご招待、また実費でもIMAX3D版計2回観てまいりました。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が僕にとって特別な作品という事は以前の動画でも言いましたが、もう泣きました。これ以上の完結作は望みません。素晴らしい完結。今回は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3』を、監督ジェームズ・ガン過去作、また監督の半生と重ねながら読み解いていこうと思います。お願いいたします。

ネタバレ注意

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3』(以下『VOL3』)は、作品の性質上、シリーズ過去2作とテレビシリーズ「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー ホリデー・スペシャル』のネタバレを含みます。また監督過去作の『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』、ドラマ『ピースメイカー』、特に本作は後者『ピースメイカー』を「ガーディアンズ」という題材で繰り返した作品になっています。MCUではないので申し訳ないですが、『ピースメイカー』を言及しないと本作を話したことにならない。直接的にサプライズ展開には言及しないようにしますが、一部、物語要素など多少のネタバレを含むことご了承ください。

あらすじ

『VOL3』…「ホリデー・スペシャル」でコレクターから買い取った人工惑星ノーウェアの復興もひと段落住んだようで、ガーディアンズのメンバーは新しい生活を送っている最中。前作『VOL2』のクレジットシーンから6年越しにようやく現れたアダム・ウォーロックが襲撃。「ガーディアンズ」は壊滅状態。特に瀕死の重傷を負ったのはロケット。ピーターたちがロケットを治療しようにも、ロケットを改造した何者かが情報漏洩防止のために付けたキルスイッチのせいで、治療ができない。一行はロケットを治療するため、キルスイッチ解除のパスキーを求め、ロケットを改造した大企業オルゴコープに潜入します。冒頭で、象徴的に真っ二つになった「ガーディアンズ」の看板。ロケットを救い、「ガーディアンズ」を取り戻せるかという『VOL3』基本の物語でございます。

本作のジャンルについて

冒頭から、あれよあれよという間に観客を物語に引き込んでいく『VOL3』ですが、物語自体は1作目『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』的な、“お宝”争奪戦を繰り返します。1作目では「オーブ」後に中身はインフィニティ・ストーンと判明する“お宝”を巡り、三つ巴の争奪戦が繰り広げられるマクガフィン争奪戦が軸にありました。本作もその「オーブ」をロケットないしはパスキーに置き換え物語を進行していきます。

まず驚くのは本作のルックで、『VOL3』はとにかくダークで汚れていると。今までの「ガーディアンズ」シリーズというよりは監督過去作『ザ・スーサイド・スクワッド』を意識させられます。クリス・フォスをデザインのスーパーバイザーに起用し、カラフルな色使いが印象的だった1作目、2作目はどこか『フラッシュゴードン』を思い出す大胆な金色から始まり、エゴの惑星に到着すると際立ってカラフルな色調が映画を彩りました。とにかく「ガーディアンズ」シリーズといえばカラフルなSFというのがありましたが、本作は『スター・ウォーズ 新たなる希望』に立ち返ったようなエイジングでダーティ汚れた色調でデザインされています。

そしてカメラも、俳優にかなり寄った観客に緊張感・圧迫感を与える接写が多く、印象的なのは荒々しいパン、カメラの左右の振りですね。特に冒頭は素早いパンを多用して観客の襟元を掴んでブンブンブンブン引きずり回すような、物語が常に観客の先に言って、登場人物と一緒に観客を振り回すような効果を強調しています。このパンと接写はやはり『ザ・スーサイド・スクワッド』で多用され、これはガン監督がカメラ技師のデイヴ・フリースと開発したNANOという小型カメラリグを用いたものでした。ちょっと今、収録しているのが公開日当日、全米公開前なので情報が手元に少ないんですが、おそらく本作でもNANOを使っているんじゃないかと思います。

ともかく本作『VOL3』は、「ガーディアンズ」より『ザ・スーサイド・スクワッド』に近い「戦争ミッションモノ」「戦争チーム任務モノ」、『ザ・スーサイド・スクワッド』が元にした『特攻大作戦』とか『荒鷲の要塞』とかに近いダーティで荒々しい戦争ミッション・潜入映画の印象を受けました。こういったように今までのシリーズのテイストに甘んじない、映画の物語・主題に応じて、カラーリング、撮影を構築するデザイン力もジェームズ・ガン監督作の魅力だと思います。

驚くべき本作のプロット

とはいえダーティと言いつつ、ピーターたちが潜入するオルゴコープの本拠地の惑星オルゴスコープは、惑星ではなく有機体で、この一連の潜入シークエンスは胃カメラの映像を見ているような白と肌色と黄色が基調になっています。汚れた埃っぽい冒頭と終盤の間に、異常なまでにドギツいカラフルな画が挟み込まれるという、この色使いのコントラストも素晴らしかったです。

「戦争チーム任務モノ」の間に挟み込まれるSF要素は『2001年宇宙の旅』ですね。カラフルな宇宙服は監督がTwitterで言っているように『2001年宇宙の旅』。人類の夜明けならぬ「アライグマの夜明け」。色々な動物たちの進化が描かれ、回転するカメラ、ドッキングシーンもオマージュを捧げます。まず『VOL3』で僕が驚かされたのは、そもそもの「ガーディアンズを崩壊の危機から救う」「ガーディアンズを取り戻す」という基本プロットでした。

ジェームズ・ガン監督は「ガーディアンズ」シリーズを個人的な物語として、大作ながらインディペンデント映画のように作り上げました。そんな作り方を許された稀有な映像作家でもあります。例えば過去の動画でも言いました、前作『VOL2』において悪役として登場する「エゴ(自我)」。なぜ「エゴを悪役にしたのか?」という問いに対して、監督こう仰っています。監督が1作目『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』公開直前、「この『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が大成功を収めても、誠実に生きようと、地に足をつけて、友情と家族を大事に生きよう、自分のエゴに屈しないでいこう」とそう誓ったと。その監督の誓いが2作目『VOL2』に反映され、悪役エゴとして現れました。監督の個人的な思い、葛藤を表すように主人公ピーターは特権的な能力か?友情、愛するガモーラか?その選択に迫られる『VOL2』。このように自主映画のような作り方をシリーズでしてきたジェームズ・ガン、本作も個人的な要素を2つ感じ取ることができます。

まずは「ガーディアンズを取り戻す」という物語でしょう。これにはどうしたってジェームズ・ガン監督がディズニーをクビになった一連のキャンセル騒動を思い出さない訳にはいきません。ご存知ない方のために説明すると、トランプ前大統領を批判していたガン監督は、オルタナ右翼、トランプ支持者に攻撃され過去の非常に悪趣味なツイートを掘り起こされ、問題視したディズニーがすでに制作が進行していた3作目『VOL3』の監督からガンをキャンセル、現在は復帰となりましたが、そういったキャンセル騒動が起こりました。

映画冒頭、アルコール中毒のような何か中毒になっているピーターが寝ている隙に、ロケットは瀕死の重症を負う。ピーターはあの時、「呑んでいなければ」と嘆きながら必死の思いでロケットを救おうとする。あの時、ツイートしなければと後悔しながら「ガーディアンズ」を作り上げる。偶然と言えば偶然かもしれませんが、本作の「ガーディアンズを取り戻す」物語にどうしたって観客は現実を重ねてしまいます。シリーズ1作目からほとんど個人的な映画として「ガーディアンズ」シリーズを作ってきた監督は、一度、ディズニーに、会社にシリーズ、キャラクターを奪われています。

偶然と言うには少し奇妙なくらいの類似で、本作『VOL3』で「ガーディアンズ」を壊滅状態に追い込み、ロケットというキャラクターの生殺与奪の権利を保有している大企業オルゴコープは、多くの知的財産IPを保有している大企業と説明がされますが…多くのIP…キャラクターを保有している大企業…あれ?と。しかもオルゴコープは動物を進化させ、動物を「ニューメン」という半人半獣にしている…某会社のお得意のアニメ表現の一つは「動物の擬人化」でした。映画を観ていて、頭の片隅にニヤケ笑いをしているネズミ人間が浮かんでしまいましたが。そんな「ガーディアンズを取り戻す」物語に監督の強い思いを感じながら、まぁこんな陰謀論じみたお話はどっちでも良くて、一番重要な監督の個人的な物語は、もう監督が過去作で何度も何度も描いている、本作『VOL3』の主人公の物語です。こちらは陰謀論ではありません。ここから少し本作の軸となる話や、予告編にない内容について言及をしますので本編ご鑑賞後にご視聴いただければと思います。

本作の主人公について

明確に、『VOL3』は主人公がロケットの映画です。「ガーディアンズ」シリーズという題材で唯一深掘りがされていなかったロケットの過去とセラピー、もっと言うとロケットのヒーローオリジンとして本作は仕上がっています。本作がロケット主役の映画になったのは必然、当然で、いかに監督がロケットというキャラクターを意識していたか、「ガーディアンズ」シリーズの影の主役としてロケットを設定していたかは、過去シリーズと監督の過去の発言を見ると分かります。

1作目『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』において、監督は初期ガーディアンズの中で「最も傷ついた人物はロケットだ」「いつもふざけて他人を馬鹿にしているが、本質的には孤独な傷ついた人物だ」と。刑務所に収監されるシーンで、ピーターは彼の傷、背中の改造の跡を目撃します。本作の冒頭でも再びその痛ましい改造跡を観客に見せました。 2作目『VOL2』は色々なキャラクターの過去と物語を描く群像劇でした。ピーターと2人の父エゴとヨンドゥとの物語。ガモーラとネビュラ、姉妹の過去と関係性。ドラックスとマンティスの間に生まれた絆。その中でロケットはヨンドゥと重ねられながら、その過去が深く描かれることはありませんでしたが、『VOL2』のラストショットはそんなロケットの顔。『VOL2』はロケットで終わりました。

長いですが監督のロケット観を引用しましょう。「彼は目的意識を持たないキャラクターだ。他者を貶すことで何とか生きてきた」。そんなロケットがヨンドゥのお葬式を見て「ロケットは自分が知る以上の何かが人生にあると悟った」と涙を流すロケットの顔のアップで終わった『VOL2』から、そのまま繋がるように本作『VOL3』は幕を開けます。改造される直前、過去のロケットの目のアップと、現在の目のアップが繋がれ、レディオ・ヘッドの「クリープ」を口ずさみながらノーウェアを彷徨うロケットから始まる『VOL3』。僕はクリープだ、傷ついても自分をコントロールしたい、完璧な体と魂・心が欲しいと。

「ガーディアンズ」シリーズのオープニングと言えば、楽しい楽しいダンスオープニングですが、本作は踊らない。この先のシリアスな物語を予感させる、踊れない孤独なロケットから開幕し、映画はロケットの過去の回想、回想というか僕は途中から生死を彷徨っているロケットの走馬灯を目撃しているような感覚が強かったですが、その走馬灯、回想と、ロケットを救おうとしているガーディアンズ一行の現在のミッションを交互に映す構造を本作は取っています。

先ほどからずっと本作が今までのシリーズとは違う点を列挙していますが、この回想も本作唯一のもので、今まで回想シーンはなく、「スター・ウォーズ」シリーズ同様、物語は過去から現在まで直線的に語られていた「ガーディアンズ」シリーズ、もちろん『VOL2』でエゴに捕まったピーターが今までの楽しかった思い出をフラッシュバック的に回想するという、ここぞという時のスポット的な回想シーンとかはありましたが、本作ほどの多用っぷりは初ということで、本作は今までのシリーズとは一味違う感覚を与えます。

その回想もとい走馬灯で描かれるのは、ロケットの悲惨な過去、小動物だった彼はオルゴコープ、本作の悪役ハイ・エボリューショナリーによって改造を施され、実験に利用される。ほとんどホラー映画のような恐怖を感じさせる残酷な映像を見せながら、収監された檻で出会ったバッジ89の3人、3匹の改造動物との美しい友情を描きます。

本作で初めて描かれたロケットの半生に込められたのは、ジェームズ・ガン監督が何度も描く監督ご本人の人生そのものです。ジェームズ・ガン監督は本作のプレミア上映時のインタビューでロケットは自分なんだと言っています。「ロケットのような男は自分の地元に沢山いた。自分もそうだ」「かつては怒りとユーモアで周りの人を遠ざけてきたが、歳を取ってみて、他者を信頼してもいいし、弱くてもいい、寂しさを隠さなくてもいいんだと気付いた。本作のロケットの物語はそんな自分の感情の変化が込められている(意訳)」と。今まで自分の弱さを隠し他人を遠ざけてきた監督=ロケットが本作で初めて隠してきた過去と心の傷を露わにする、それを他人に見せて良いんだと気付いた、自分の弱さを見せても良いと思える仲間に出会えた、そのご自身の成長物語を本作のロケットの物語に込めたと。

監督が繰り返すモチーフ

ロケットは、ハイ・エボリューショナリーという生みの“親”の虐待によって大きな傷を心に抱えている人物だと本作で初めて描かれます。そしてジェームズ・ガン監督作ではこの「親に虐待を受けている子」というモチーフは何度も繰り返されます。ガモーラとネビュラは父であるサノスによって誘拐、改造、虐待されてきました。『ザ・スーサイド・スクワッド』の主人公ブラッドスポートも父親にスパルタ、虐待を受け、ネズミにトラウマを持っている人物。同じくポルカドットマンというキャラクターは母親に虐待を受け、一生治らない病を背負ってしまいました。『ザ・スーサイド・スクワッド』においてブラッドスポートの鏡写りとして描かれていたピースメイカーも虐待の過去を持っているということが、ドラマ『ピースメイカー』で描かれました。

『ピースメイカー』は主人公クリスがあるミッションに従事する現在と、過去の父親から虐待を受けてきた過去の回想を交互に映すドラマでしたが、この構造はそのまま本作『VOL3』のロケットの物語に流用されています。『ピースメイカー』において主人公はかつて父親から兄弟と殺し合い、殴り合いをさせられていたことが分かるのですが、これはガモーラとネビュラの関係性の反復です。そしてこのドラマの悪役=ヴィランは父親、主人公は父親を倒すことで自身のトラウマから解放されます。本作は『ピースメイカー』の主人公クリスの物語をロケットで再現したものでした。

なぜジェームズ・ガン監督が何度も何度も「親に虐待を受けている子」を描くのか、これは過去の動画でも言いましたが、監督ご自身のお父様がそうだったからです。酷いアルコール中毒だったジェームズ・ガンの父親は酔って、自分と家族、兄弟によく暴力を振るっていた。ガン監督には兄弟が3人います、その一人はロケットのモーションリファレンスを担当している監督作常連の俳優ショーン・ガンですが、本作ロケットにも収監されていた時にほとんど兄妹(兄弟)に近い、3人の親友がいたことが分かります。これは監督ご本人の3人兄弟の反映でしょう。

監督は自身の父から受けた虐待と、それをサバイブした兄弟の物語を実体験から基づいて反映していたということです。「個人的なことが最もクリエイティブなことである」。改造動物の中で唯一暗記ではなく「ひらめき」「クリエイティビティ」を持ったロケットの物語にガン監督は自分を重ねた。多くの監督が個人的な体験を基に物語を作りますが、他の監督同様、きっとガン監督にとって個人的な体験を語ることがご自身のとってのセラピーにもなっていたと思います。

自分に、家族に暴力を振るったお父様、そのお父様が亡くなった際、「寂しいよ」と愛のメッセージを送っています。ジェームズ・ガン作品には最悪な父親の一方、それでもそんな父を愛したいという登場人物も多く描かれます。『ピースメイカー』のクリスであり、最も分かりやすいのはピーターとヨンドゥ、そして本作で描かれるのはピーターにとってほとんど義兄弟とも言って良いクラグリンとヨンドゥの擬似的な父と子の関係性における「継承」の物語です。

ガン監督が何度も描いている最悪な父、その父から受けた虐待の過去、それでもその父を愛したいという複雑な感情、監督の個人的な思いを知ると、なぜ本作『VOL3』のスペシャル・サンクスが監督の亡き父「ジェームズ・ガンSr.」に捧げられているか、エンドクレジットで過去の名場面の切り抜きが流れる中、監督の親の写真が挟み込まれていたのか、理由が分かると思います。監督が自分の体験、過去、親との関係をロケットに込めて描いた、大作ながら自主映画のような、インディペンデント的な要素を実現した奇跡のような作品でもある『VOL3』です。

本作の悪役について

しかし残念ながら本作『VOL3』の父は、ジェームズ・ガン監督のお父様のように、ヨンドゥのように、同情できない最悪の親です。本作の悪役ハイ・エボリューショナリーは個人的MCU史上でも『ブラックウィドウ』のドレイコフに匹敵する胸糞悪役でしたね。言っている事はサノスタイプのスモール版なんですが、サノスと異なり、とにかく精神が不安定で、『ピースメイカー』に引き続き出演したハイ・エボリューショナリー役のチュクーディ・イウジの顔が本当に怖い、不愉快(誉めています)。

サノスのスモール版と言っても惑星規模、文明規模で「自分の理想の文明」「完璧な社会」を目指して、最低最悪な方法で『ズートピア』みたいな世界を作っている、これを「カウンター・アース」と言っていますが、ここには自由の女神のような像がある地球というよりアメリカオマージュの文明「カウンター・アメリカ」と呼んだ方が正しいですね。しかもそのハイ・エボリューショナリーが理想とする「アメリカ」は、現在、今のアメリカではなく50年代・60年代風のアメリカというのが妙に不気味で、庭付き一戸建ての郊外住宅が広がっている一方で、郊外を離れると、そこでは薬物売買、暴行が行われている。

『普通の人々』、『アイス・ストーム』、『アメリカン・ビューティ』等々、多くの映画で描かれている通り、ハイ・エボリューショナリーが理想とするアメリカの風景、かつてのアメリカが掲げていた「アメリカンドリーム」「理想の郊外住宅」はかりそめ、欺瞞だったと暴かれていきます、この「カウンター・アース」にはアメリカの理想と現実が分かりやすく象徴化されていました。過去作『ザ・スーサイド・スクワッド』においてヴィランは「アメリカ」そのものだと。アメリカの国旗をスクリーンに大写しにしてアメリカ政府の内政干渉、イラク戦時下での拷問、自国アメリカの問題を描きましたが、再び「アメリカ」をかなり批判的に描いています。本作は『猿の惑星』オマージュもあって、まさしく「猿の惑星」新三部作は動物実験を問題視しましたが、そんな動物実験、黒人奴隷、ハイ・エボリューショナリーの描写を社会問題と重ねるのは容易でしょう。

監督作悪役あるある

ロケットの物語がジェームズ・ガンの個人的な物語の集大成だとすれば、ハイ・エボリューショナリーもジェームズ・ガン作品の悪役集大成で、ガン作品の“悪役あるある”は、「商業主義/金持ち」と「市民を均一化する奴」、「虐待する父」です。

商業主義を悪とする考えは、これも過去の動画と重なって恐縮ですが監督初期の脚本作やはり落ちこぼれヒーローチームを描いた『MSⅡ メン・イン・スパイダー2』から一貫しています。特にジェームズ・ガンは、理想を押し付けて外れものを均一化しようとする悪役が大嫌いなんですね。市民を洗脳して均一化しようとする悪役は、『スリザー』、『VOL2』のエゴ、スターロは厳密には悪役ではないですが、『ザ・スーサイド・スクワッド』のスターロ、ドラマ『ピースメイカー』の宇宙人。人々の「ありのままの姿」を受け入れず、知性を持たないものを見下し、均一化しようとするガン作品過去作で描かれた悪役の良い所、いや悪い所を煮詰めたキャラクターとしてハイ・エボリューショナリーが造形されているように見えます。

まとめ

ここまで丁寧にお時間頂いて、汚れたルックと荒々しいカメラワークで観客を振り回していく「ガーディアンズ」を取り戻す奪還任務映画。監督がお父様に捧げたロケットの物語。あとは最低最悪の悪役と、悪役が目指している「アメリカ」の欺瞞。と3点で本作の要素をまとめてみました。確かにシリーズ最終作として描かないといけない要素が多くて、物語の軸もこういった“お宝”争奪戦にありがちな行ったり来たりが多い一本の映画として見ると、まだ整理できる所はあるかもしれませんが、ごめんなさい、僕「ガーディアンズ」シリーズが好きなんですよ。何と言われようと本作が大好きなので、シリーズも大好きなので「ありがとう」という感情しかない、沢山いるキャラクターそれぞれにしっかり「居場所」を用意して終わらせた完結作としてはもうベストの出来だと僕は思っています。

感動ポイント

ジェームズ・ガン監督はロケットの物語を描きながら、シリーズ最終作、もう他の人に描ける余地がないくらい、それぞれのキャラクターにそれぞれの居場所と優しさを与えて本作を締めています。これも、もう最後の動画ですから、ここからは僕も悔いの残らないように良い点の列挙です。

まずはおそらく皆さん褒めると思います。「ガーディアンズ」集結してからのアクション。もうミッションが終わっているのに、宇宙船に取り残された子供たちのために立ち上がるという、人助けシーンはヒーロー映画の王道ですが、これをしっかりやってくれて嬉しい。監督過去作では『ザ・スーサイド・スクワッド』でもやっていましたね。しかもロケットが先陣を切って「ガーディアンズ」を引き連れていく。そこからのワンカット(風)アクションは、『VOL2』のそれを遥かにパワーアップさせた特にMCUにおいて『アベンジャーズ』『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』を筆頭にジョス・ウェドン監督がよくやっていた演出ですが、それをも強化させたような出来栄えで、見せ方を工夫して直線上の限定された空間を最高のアクションフィールドにしていました。

「ホリデー・スペシャル」でバッキーの左腕をもらって、ワカンダの技術を搭載されたネビュラの、自分の体を労わらない無茶苦茶な闘い方も良かったです。ネビュラ関係で言うと、しっかり「ガーディアンズ」のメンバーとして馴染んでいて嬉しかったですね。ロケットが助かった時に泣く彼女の姿とか、本作ではドラックスとのやり取りも、無知だと一見見下していた相手とコミュニケートする、対話することの大切さ。ドラックスも、ドラックスで妻と娘を亡くして、とても悲惨な過去を背負っているキャラクターですが、彼がその家族を殺された怒りを「デストロイヤー」としてではなく、父親として今後、子供たちと接していく未来が想像できて、本当に嬉しかったです。ようやく心の底から踊れているドラックスを見れて良かった。

個人的に涙が流れたのはアダム・ウォーロックでしたね。今回のアダム・ウォーロックは未成熟な、感覚でいうと4歳児、5歳児くらいのまだまだお母さんの事が大好きな小さな子供みたいな人物で、それを童顔のウィル・ポールターが見事に演じていました。1作目の刑務所脱走シーンを思い返す、ピーターがZUNEを取りに戻って爆破する宇宙船から逃げ遅れてしまう。それを救うアダム・ウォーロック、ここの映像はミケランジェロの「アダムの創造」を思い起こすアダム違いのギャグになってる、ちょっと宗教的な美しいイメージになっていましたが、宗教的なイメージといえば最後の展開は「ノアの方舟」も想起させられる。ガーディアンズを壊滅させた彼にも「セカンド・チャンス」を与えると。これがジェームズ・ガンの優しさですよね。誰もが過ちを過去に犯すと、それを許して、やり直しの機会と居場所を与える優しさです。

最もほろ苦い後味を残すのはピーターとガモーラの別れで、静かに二人が目を合わせて、それぞれがそれぞれの居場所に帰っていく。『マリッジ・ストーリー』のラストじゃないですが、『ラ・ラ・ランド』の男女、二人が愛し合った過去、別の世界線の未来を夢想して、それぞれ別の人生を生きていくラストみたいな。きっとこれからもピーターとガモーラは戦友であり続けると思いますが、きっと愛に発展しないだろうなと、でも二人はどこか愛し合った世界線も想像しながら生きていくんだろうなと、ちょっとビターな大人な着地になっていて感動しました。あのガモーラがラヴェジャーズで、しっかり仲間として認められて居場所を見つけているだけでも、本当に涙止まらなかったです。

他にもエゴからようやく解放されたマンティスとか、まさかのアビリスクにまで居場所をあげたり、監督作常連のネイサン・フィリオンのゲスト出演。本当に何度も言ってしまいますが、しっかりキャラクターの一人一人に向き合って、本当に丁寧にそれぞれが心安らかに生きられる居場所を用意してあげるジェームズ・ガンらしい終幕だっと思います。

ロケットのオリジン

何よりロケット、本作の主役であるロケットですよ。今まで「アライグマ」「ラクーン」と呼ばれるのを嫌っていた、ラクーンという言わばファミリーネームを否定していた男が、本作でようやくポケットにずっと閉まっていた鍵を使い動物を助け、生みの“親”を倒すことで自分の出自、ファミリーネームを肯定する事ができた。ロケットのロケット・ラクーンとしてのオリジンとしても本作『VOL3』を見ることができます。

ジェームズ・ガンの優しい物語の魅力は、キャラクターだけではなく観客をも巻き込んでハグしてくれる「包容力」だと思うんですよね。それこそ1作目『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では“We Are Groot”と言って、我々観客を“We”の一人だと言って受け入れてくれた。『ザ・スーサイド・スクワッド』では何とか人生を生き延びている我々をネズミとして受け入れ、画面上に登場するネズミの一匹として映画に登場させてくれた。本作『VOL3』ではこのロケットの物語。再び、ジェームズ・ガンの言葉を引用しますが、「ロケットのような男は地元に沢山いたんだ」と。ロケットはジェームズ・ガンであり、自分だ、観客一人一人の投影だと。

生死の境を彷徨うロケットに、ライラが言う「これは“あなた”の物語だ」と。あれはロケットに言いながら、観客に言っているわけですよ。「観客一人一人の物語よ」と。そんな過ちを犯した人にでも、導いてくれる手があって、居場所とセカンド・チャンスがある、本当にジェームズ・ガンは絶対に、観客を受け入れてくれる、本当に優しい作家だなと思います。

さいごに

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3』監督の個人的にお父様に捧げられた物語としても、我々観客一人一人“わたしたち”の物語としても素晴らしい映画だったと思います。終わってしまうのは悲しいですね。大好きなシリーズでした。愛しているぜお前らということで、今週の新作は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3』でございました。

【作品情報】
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』
2023年5月3日(水・祝)公開
© Marvel Studios 2023


茶一郎
最新映画を中心に映画の感想・解説動画をYouTubeに投稿している映画レビュアー

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