プロ野球のレジェンドに現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第19回は小笠原道大さん。シーズン打率3割と30本塁打を9度目もマークした強打者だ。ある剛球投手との対戦がなければ、代名詞のフルスイングは完成しなかったかもしれない。(共同通信=中西利夫)
▽凡打を褒められてモチベーションに
高校時代(千葉・暁星国際)の本塁打はゼロ。当てるのはそれなりに自信がありましたが、いかんせん非力でした。骨と皮の体だったので。ホームランを打ちたいと狙ってもフェンス直撃止まり。ミートというか最短でバットを出してボールにぶつけるだけ。守備の間を抜ければヒットという感覚。しっかりインパクトで力を入れているんですけど、フォロースルーとか考えてないですし。
(社会人野球の)NTT関東時代は金属バットで、大人が筋力、体力が付いてくればホームランを打てるのが普通です。それでもプロに入った時に少なからず弊害がありました。いいところをアピールしようとして力みもあったでしょう。日本ハム1年目のキャンプは内外野の芝の切れ目、あそこをなかなか越えませんでした。加藤秀司さんがコーチで、初めて声をかけられ「しっかり振りなさい」と。バットの先に当たろうと根元で当たろうと、スイングを完結しなさい、振り切りなさいと言われたんです。1年たって、やっと振り切れるようになってきたかな。それで少しずつ結果も出るようになりました。
やっぱり、これがスタートでしょうか。1年目のオープン戦で(中日の)宣銅烈さんの真っすぐをどん詰まりして、ぼてぼてピッチャーゴロ。ずしっときて、振り切った後にバットが根元から折れてバックネットに突き刺さりました。ショックですよ。頭をかきながらベンチへ帰ったら、加藤さんが「今の良かったぞ」って。こんな凡打で、この人は何を言うのかなと思ったら「詰まっても振り切ったから、あそこにバットが飛ぶんだ。途中でスイングをやめていたら、あそこに飛ばない。やってきたことが身に付いて、結果としてそうなった。内容は良かったんだから、続けていきなさいよ」と。その一言で心が折れずにいられました。それがなければ、今があるかどうか分からない。モチベーションにできたきっかけであって、一つのターニングポイントでしょう。
フルスイングは4年目の2000年に皆さんがイメージしているものになりました。モデルがあるわけではないです。1年目のしっかりと振り切りなさいよ、から始まっています。フルスイングでないと打球は飛んでいかないです。身長が170センチ台はプロ野球で大きい方じゃないので。力負けしないようにするには、全身で自分の使えるものは全部使わなきゃいけません。
握力はないです。60キロぐらいで精いっぱい。他の選手は80、90キロです。みんなが思い描いているようなパワーではなく、持っている力を効率よく使う、バットからボールに伝えるという感覚。力で持っていけるんだったら、ボディービルダーが全員ホームランバッターになってしまいます。力というのではなく、理にかなったもので。最初から力を入れてたら打てません。その辺は中村紀洋と似ています。
▽自分が一番下手だと思って
ある先輩からは「1軍はプロであって、2軍はプロじゃない」と教わり、何が何でもしがみついて1軍に残らないといけない、という気持ちでした。レギュラーで試合に出てない時期は、そういう思いで必死に過ごしました。3年目である程度結果を出せたけど(翌年も)できるかどうか分からない。だから、オフも練習をやっていました。保証がありませんから。
日本ハムには捕手で入っていません。内野手登録。当時は広瀬哲朗さんがいて、その後のサードで、という話でした。片岡篤史さんが肘の手術明けで、そこに落合博満さんが入ってきました。肘が良くなってきた片岡さんが一塁から三塁へ回るという形になったと思います。自分はプロに入った時に一応、打力を買われましたが、1軍に残るには(社会人時代までと同じ)キャッチャーをやっておきなさいということで始まりました。
でも、周りの首脳陣は後々は野手で、なんて感覚はないわけです。捕手として、しかない。たまたま代打で3割打ち、上田利治監督が1打席ではなく4打席立たせたいというので、コンバートになりました。外野か内野かという話になり、野手コーチの古屋英夫さんが「両方は勘弁してくれ。責任は取るから」ということで、一塁一本でやるようになったんです。
2年目の秋のハイサイリーグ(現教育リーグ)はフルイニングで一塁を守り、翌年2月(春季キャンプ)も一塁でとことんやって、3月のオープン戦もフルイニング出ました。その結果、オープン戦は12球団で5番目ぐらいの打率を残し、開幕スタメンを手に入れました。
それでもシーズンで結果を出せなかったら駄目だから、毎日必死にやっていました。疲れたという問題じゃない。クラブ活動じゃないんですから。仕事だから、駄目だったら周囲がお手上げになってしまいます。責任という意味では(NTT関東時代に結婚しており)養っていかないといけないわけですから。自分なんか野球をとったら何にも残りません。12球団の一塁手の中で自分が一番下手だと思って練習しました。三塁手にコンバートした時もそうです。常に一番下手だと思って練習したと、はっきり言えます。
▽2割9分9厘では成績が落ちたと思われる
日本ハムが北海道に移転し、選手会長になり、(06年に)日本一にもなって北海道が盛り上がりました。ある種、一段落というのがあったので、じゃあ次に向かうものは何なのかなと。モチベーションの中で、ちょっとポカンと空いてしまいました。気力を持続するために環境を変える。そこに巨人が手を上げてくれました。(北海道時代は単身赴任で)家族のことは少なからず要因になった部分はあります。ただ、実際に手を上げたのは巨人だけです。
巨人独特のものは少なからずあります。独自に雰囲気をつくっている部分です。そこは伝統でしょうね。なおかつ周りがつくり上げたイメージがあるでしょうし、いろんなものが入り混ざっているかもしれません。(移籍1年目からの活躍は)初心に返るじゃないですけど、結局駄目だったらたたかれるわけでしょ。だからもう、がむしゃらにやるしかない。実際、格好つけてプレーしたわけじゃないですから。それは前から変わらず、一つのアウトを取る、一つの打席で結果を出すの積み重ねでした。
確かに周りの目が3割打って当たり前、30本塁打が当たり前になって、目安になっていたと思います。だから2割9分9厘じゃいけないわけですよ。3割打たなきゃA級戦犯みたいな、駄目だ、成績が落ちたみたいな。29本でもそうです。1本しか違わないのに。(打率3割、30本塁打を)最低ラインとは考えていましたけど、だんだんハードルが高くなってくる。なおかつチームを勝たさなきゃいけない、結果を出さなきゃいけないというものはありました。
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小笠原 道大氏(おがさわら・みちひろ)千葉・暁星国際高―NTT関東からドラフト3位で1997年に日本ハム入団。2002年から2年連続首位打者。06年は本塁打と打点の2冠でMVP。巨人移籍1年目の07年に史上2人目のセ・パ両リーグMVPに輝く。11年5月に名球会入り条件の2千安打を達成。14年から中日でプレーし、翌年限りで引退。通算2120安打、378本塁打。73年10月25日生まれの49歳。千葉県出身。