邑久長島大橋 人間回復支え35年 広がる交流、年間1.5万人訪問

架橋から35年を迎える邑久長島大橋。長島(左奥側)では偏見・差別をなくしていくための取り組みが今も続いている

 穏やかな白波を立てて船が行き交う小さな海峡にブルーのアーチ橋が架かる。長さ185メートル。決して大きな橋ではないが、「人間回復の橋」と呼ばれる。

 瀬戸内市の邑久長島大橋。国立ハンセン病療養所の長島愛生園と邑久光明園がある瀬戸内海の長島と本土を結び、9日で35年を迎える。

 国のハンセン病患者隔離政策の下、1930年代に愛生園と光明園が相次いで開園した長島は長い間、「隔離の島」として知られ、ハンセン病が治る病気となっても、入所者への偏見・差別を助長してきた。

 離島隔離からの解放を訴え架橋を実現した入所者たち。その後、多くの交流が生まれ、年間1万5千人が島を訪れるようになった。

 「橋が私たちにもたらしたものは計り知れない」。愛生園入所者自治会長の中尾伸治さん(88)はそう振り返りつつ「橋で全てが解決したわけではない。偏見・差別をなくすためには語り続けねばならない」と改めて誓う。

語り部「歴史伝えたい」

 「橋のおかげで皆さんをこうして迎え、話すことができる。橋は私たちを自由にしてくれた」

 4月下旬、長島愛生園の研修室。中尾さんは、人権学習で訪れた岡山市立後楽館中の2年生約70人に語りかけた。

 国の患者隔離政策の下、離島への隔離は、人々にハンセン病を「恐ろしい病気」との意識を植え付けてきた。中尾さんは家族や古里との関係を絶たれた入所者が多いとし、邑久長島大橋で本土とつながった意義の大きさを説明した。

 架橋計画は1969年に隣の邑久光明園で持ち上がった。当初は幅30メートルほどの海峡に歩道橋を架ける構想だったが、愛生園との協議で大型バスも通れる橋を目指す計画に。両園は当時の厚生省や国会議員への陳情、世論への訴えなど20年近く運動を展開し、88年5月9日に開通した。

 開通式の後、中尾さんは、普段連絡を取っていない古里・奈良の母親から「ニュースを見たよ」と電話がかかってきたという。愛生園に新たに着任した医師が「橋ができ、ハンセン病が怖くないと分かったから来た」と言うのを聞いた。中高生らの訪問も増え始め、架橋のインパクトの大きさを実感した。

 ただ、「偏見・差別は簡単にはなくならない」と中尾さん。開通からしばらくして母と兄が亡くなった際はいずれも連絡がなく、葬儀にも参加できなかった。若い頃、兄に娘が産まれてから「娘の結婚や就職に影響がある」と言われて帰省できなくなっていた。愛生園にいる中尾さんの存在は秘密にされており、この病気に対する差別の根強さを改めて感じた。

 橋の開通した年に愛生、光明両園で計約1400人いた入所者は今年4月1日時点で計158人まで減少。平均年齢は88歳を超え、愛生園の自治会で講演依頼に応じられているのは中尾さんを含め2人だけだ。

 中尾さん自身も体調は万全ではなく、健康への不安がある。それでも「今話さねば」と体が動く限り語り部活動は続けるという。

 「偏見・差別のない社会をつくっていくために私たちの先輩が苦労して生きてきた歴史を伝えたい」。これからも一人でも多く橋を渡って長島に来てくれることを願っている。

 ハンセン病 「らい菌」により末梢(まっしょう)神経を侵される感染症で、手足や顔に後遺症が残るため偏見・差別が強かった。戦後間もなく登場した治療薬により治る病気となったが、患者の強制隔離を定めた「らい予防法」は邑久長島大橋架橋後の1996年まで続いた。全国の療養所入所者らが起こした国家賠償請求訴訟で2001年、熊本地裁は同法を憲法違反とする判決を出し、確定した。

後楽館中の生徒たちに講演する中尾さん。「偏見・差別のない社会をつくって」と語りかけた

© 株式会社山陽新聞社