観月ありさ「伝説の少女」で歌手デビュー!かなり初期から小室ファミリーの一員?  観月ありさ14歳で歌手デビュー!「伝説の少女」は20万枚を超えるヒットを記録

観月ありさドラマ初出演は「教師びんびん物語II」の生徒役

それほどまでには浸透しなかったと思われる「3M」は、芸能界で昔から括られる3人娘の流れで、当時人気を博していた3人のアイドル、宮沢りえ、牧瀬里穂、観月ありさのイニシャルからとって付けられた。昭和から平成になってすぐの頃のことなので、現在30歳以下の世代には認知度ゼロのワードかもしれないが、そんな言葉も生まれるほどに一時代を築いた存在であったことは認識されて然るべきだろう。

1976年12月5日、練馬生まれの東京っ子。観月ありさという名前は本名で、「あかるい」「りはつ」「さわやか」の意味を込めて父親が命名したという。芸名かと思わせるくらい素敵なネーミングだし、実際その通りに育てられたであろうことがなんとも素晴らしい。

一人娘でしかも一人っ子だというから、親御さんの愛情を一身に受けて育ったはずだ。幼少時から雑誌やCMのモデルを務めていた彼女の本格的な芸能活動は、1989年4月からフジテレビ系で放送されたドラマ『教師びんびん物語Ⅱ』の生徒役に抜擢されて連続ドラマに初出演した辺りからになる。ちなみにこの時一緒に生徒役を演じた中に、後にdosで活動する西野妙子もいた。

遂に歌手デビュー!ファーストシングルは「伝説の少女」

どこへ行っても一際目立つ長身。8頭身とおぼしき抜群のスタイルで注目を集め、その翌年には事務所も移籍していよいよスターへの道を歩き始める。のちに “ジェットコースタードラマ” と呼ばれたサスペンスドラマ『もう誰も愛さない』に出演していた1991年春には遂に歌手デビューを果たした。ファーストシングルとなった「伝説の少女」は5月15日にリリースされた。

当時は既にCD時代を迎えており、8cmシングルで発売。初回盤はジャケットが折り込み型の豪華仕様になっていた。自身が出演したキリンビバレッジ「シャッセ」のCMソングで、テレビからもかなりの頻度で聴こえていたと記憶する。

作詞・作曲は尾崎亜美に依頼された。佐藤準のアレンジも含めて、ひたすら優しく穏やかな世界が展開される。時々ささやくような台詞が入るのが印象的なミュージックビデオではまだ幼さが残るあどけない表情が見られるが、この時まだ14歳。それにしては歌唱力と表現力は充分に豊かだったといえる。

結果20万枚を超えるヒットを記録し、第33回日本レコード大賞ではポップス・ロック部門の新人賞を受賞している。前年の第32回から3年間だけ各賞がポップス・ロック部門と歌謡曲・演歌部門に分かれていた時期の2年目。同じ部門での新人賞は、中嶋美智代、槇原敬之、Mi-Keというメンバーであった。

奥居香プロデュース、シングル第2弾「エデンの都市」

8月にリリースされたシングル第2弾「エデンの都市(まち)」はノンタイアップ作品で、当時人気絶頂だったプリンセス プリンセスの奥居香にプロデュースが委ねられた。いかにもプリプリらしい抑揚の効いたノリのいいナンバーで、声質は違うのにところどころで奥居が歌っているかのように聴こえる。

デモテープの奥居の歌唱を忠実になぞった結果であっただろうが、曲調だけでなく歌唱も前作とはかなりイメージが異なる印象。この年3枚目のシングルとして11月にリリースされた「風の中で」は再び尾崎亜美の作詞・作曲で、アレンジを井上鑑が手がけた。映画初主演作となる東宝『超少女REIKO』の主題歌としてエンディングで流れた穏やかなメロディに癒される。

小室哲哉作曲、観月ありさ最大のヒット曲「TOO SHY SHY BOY!」

そして1991年の締め括りとなったのが、12月にリリースされたファーストアルバム『ARISA』である。これまでの作家陣に加えて、小室哲哉、小林武史、辛島美登里、高見沢俊彦、小森田実らの豪華な布陣が楽曲提供し、「伝説の少女」はシングルより少し尺が長いアルバムヴァージョンが収められた。

特筆すべきは、アルバムの冒頭を飾る「夢だけのボーイフレンド」を作曲した小室哲哉である。観月と同じライジングプロ所属だった荻野目洋子への楽曲提供が縁で曲が依頼された。ここでは1曲のみだったが、1992年5月リリースのシングル第4弾「TOO SHY SHY BOY!」は小室の作品で、観月最大のヒット曲となる。

この後訪れる小室プロデュースの一大ブームに先駆けての楽曲提供で、観月はかなり初期からの小室ファミリーの一員といえる。さらに1992年10月に出されたセカンドアルバム『SHAKE YOUR BODY FOR ME』は表題作を含む10曲中5曲の作詞・作曲・編曲を小室が手がけており、中学の頃からTM NETWORKのファンだったという観月はこの上ない幸福を感じていたに違いない。

その後も、味の素・クノール カップスープのCMソングに使われた1994年のシングル「Happy wake up!」、シングルチャートのトップ10入りでは最後の作品となる1995年の「あなたの世代へくちづけを」なども小室が手がけた。

1993年のシングル「今年いちばん風の強い午後」は呉田軽穂名義によるユーミンの作詞・作曲、ほかにも上田知華、伊秩弘将、Every Little Thingの五十嵐充ら、多彩な作家陣が楽曲を提供しながら、観月の音楽活動は2000年代前半までコンスタントに続いた。

歌手デビュー20周年にあたる2011年に久しぶりのオリジナルアルバム『SpeciAlisa』を発表して以降、新作のCDリリースは途絶えているがいつかまた新曲を聴かせてくれる機会が訪れるかもしれない。

30年連続で連続テレビドラマの主演でギネスにも認定!

本業の女優としては、1992年にフジテレビ系『放課後』に連続ドラマで初主演して以来、2021年まで30年連続で連続テレビドラマの主演を毎年務めるという偉業を達成し、ギネスにも認定された。

1996年からはドジな看護師・朝倉いずみ役を演じた『ナースのお仕事』でコメディエンヌに開眼。好評を受けてシリーズ化され、代表作のひとつとなっている。その線上にあるといえそうな実写版『サザエさん』もはまり役であろう。それら主演作品では、ほとんどの主題歌を自身で歌ってきたことを考えると、女優・観月ありさと歌手・観月ありさはずっと同時進行されていたわけである。

「じゃじゃ馬ならし」で見せた少女の面影

キャラの立った強い女性を演じる観月ありさは実に躍動的でいきいきとしているけれども、個人的には、ベストジーニストを受賞していた頃、少女の面影を残す彼女が出演したドラマ群が忘れ難い。

中でも記憶に鮮明なのが、フジテレビ系で1993年の夏に放送された『じゃじゃ馬ならし』だ。ユーミンが作曲した主題歌「君が好きだから」や、T-SQUAREによるテーマ音楽も印象的。父親代わりの中井貴一との微妙な関係性が描かれ、当時16歳だった彼女には難しい役であっただろう。ラクロスというスポーツを認識したドラマでもあった。

最終回には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のラストをさらに拡大させたような、架空の予告編ともいうべきエピローグがあった。それは決して続篇への示唆ということではなく、ドラマに対するスタッフの愛情溢れる遊びであったろうが、実際にそれきりになってしまっているのはちょっと残念。

1本だけでいいからスペシャル篇が作られないものかと思いつつ、いつの間にか30年も経ってしまった。さすがにもう叶わない夢だろうか。幸いにしてメインキャストは皆健在だから、絶対に不可能ではないと思うのだけれども…。

カタリベ: 鈴木啓之

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