数万人が虐殺された韓国・済州島「4・3事件」、なぜ事件を正当化する勢力が台頭しているのか 人気ドラマ「私たちのブルース」の舞台は今

4・3事件で山へ避難した子どもたち=1948年、済州島(済州4・3平和財団提供、共同)

 日本でも人気となった昨年の韓国ドラマ「私たちのブルース」の舞台、韓国・済州島では、今から75年前に、軍などが数万人の民間人を虐殺する事件があった。島民の約1割が犠牲になったといわれ、海を渡り、日本に逃れた人も多い。最近、韓国国内では虐殺を正当化するような極右団体の動きが目立ち、遺族を不安にさせている。その一方、地元自治体や遺族は「悲劇が繰り返されないように」と、虐殺に関する記録などを国連教育科学文化機関(ユネスコ)や国の遺産として登録させる努力を進めている。(共同通信=富樫顕大)

 ▽隠された3万人犠牲

 済州島は、韓国本土から南に約100キロ、青い海に囲まれた火山島だ。自然が豊かな観光地で、近年は、韓国本土の人が数週間~数年移住する「チェジュサリ(済州暮らし)」もブームになっている。ドラマ「私たちのブルース」では、男性音楽グループ、BTSのメンバー、ジミンと歌手ハ・ソンウンによる挿入歌「With You」が世界的にヒットした。

 米国が軍政を敷いていた1948年4月3日、済州島で、共産主義に共鳴する左派の武装勢力は、朝鮮半島の南北分断に反対し、蜂起した。韓国軍、警察、極右団体が、多くの住民を同調者と見なして殺し、武装勢力の側も一部の住民を殺害した。2003年にまとめられた政府機関の調査報告書では、鎮圧作戦が完了するまでの7年ほどの間に、推計2万5千~3万人が犠牲になったとされる。
 討伐側による犠牲が8割程度を占めるが、1980年代の軍事政権時代まで真相は隠されていた。軍などに殺された人の遺族は監視され、就職で差別も受けた。一連の虐殺は、蜂起の日付から「4・3事件」と言われる。

済州島の咸徳(ハムドク)海岸。この一帯でも虐殺が行われた。=4月2日(共同)

 ▽歴史歪曲による苦しみ

 「歴史的真実の歪曲、中傷のせいで、遺族の傷はまだ癒えていないのに、再び皮膚を引き裂かれる深い痛みに苦しんでいる」。4月3日、強い風が吹き付ける済州島の公園で開かれた追悼式典で、遺族代表は訴えた。
 保守系与党の指導部メンバーで、脱北者の太永浩・国会議員が2月以降、具体的根拠なく「事件は(北朝鮮を建国した)金日成(主席)が起こした」との持論を繰り返し、3月には複数の極右系の少数政党が「事件は共産主義の暴動だ」と、住民虐殺を正当化するような横断幕を島内の各地に設置していたのだ。
 横断幕は3月末に、自治体が強制撤去した。しかし、事件当時に住民を殺害した極右団体「西北青年団」を名乗る団体が追悼式典の会場近くに押しかける騒動もあった。この団体は虐殺について「自由民主主義を守るために不可避だった」などと主張している。

追悼式典で追悼の辞を述べた遺族代表=4月3日、済州島(共同)

 ▽済州島出身者へのいじめ

 今年2月、尹錫悦大統領が韓国の警察組織ナンバー2である国家捜査本部長に任命した元検察幹部の息子による校内いじめが発覚した。この息子が数年前に、韓国の北東部にある全寮制の有名進学高校の寮で、済州島出身の同級生を「アカ(共産主義者)」などといじめ、自殺未遂に追い込んでいたというものだ。
 校内いじめとその復讐を描いた韓国ドラマ「ザ・グローリー」が大ヒットするなど、最近の韓国では、校内いじめは極めて敏感な問題だ。

ドラマ「ザ・グローリー」(ネットフリックス提供)

 尹政権は事態収拾を急ぎ、この元検察幹部の任命を取り消したが、済州島では、いじめで済州島出身者が「アカ」と呼ばれたことに多くの人が憤った。
 4・3事件を研究している済州研究院の玄恵慶・副研究委員は「加害者が軽い気持ちで言ったのだとしても深刻だ。『済州の人はアカだ』として虐殺を肯定する考え方に、済州は70年以上苦しんできた」と指摘する。

 ▽歴史館になった収容所

 済州島の人たちを不安にさせる、そうした動きの一方で、虐殺の記録を残そうという取り組みが進んでいる。今年3月、武装勢力側と見なされた島民の収容所になったアルコール工場の跡地が、事件を伝える歴史館として開館した。
 ここに一時収容されていた金昌柱さん(85)は、農民だった父が討伐側に銃殺され、家族で島の中央部にある漢拏山へ逃れて数カ月暮らした。「もう昔のことだが、あまりにも恨みが心の中に固まっている」。山を歩いて移動中に、後ろに付いてきていたはずの弟、妹が倒れて亡くなったと話し、深いため息を繰り返した。

歴史館になった収容所前で話をする金昌柱さん=3月14日、済州島(共同)

 収容者の一部は、その後、韓国本土の刑務所などに移送され、処刑された。だが遺骨が見つからない人も多い。犠牲者の一部は遺体となって長崎県対馬市にも流れ着いたとされる。日本の市民団体「漢拏山の会」は2014年から対馬で4・3事件の慰霊祭を開いており、今年4月2日、工場跡地の歴史館で慰霊祭を行った。

 ▽ユネスコの世界記憶遺産に

 「済州が被った国家暴力による悲劇が世界で繰り返されないよう、記録を残さなければいけない」。済州特別自治道の呉怜勲知事はこう訴え、遺族会と共に、事件の裁判資料や被害者の証言などをユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録させることを目指す。
 4・3事件では、村ごと焼き払う「焦土化作戦」もあった。漢拏山の中腹にある観音寺では、避難してきた住民が軍に殺され、建物が焼かれた。寺一帯には軍の宿営地や詰め所などの跡があちこちに残る。特別自治道は、これらを事件の遺跡として国の指定文化財にするよう求めている。

済州島、漢拏山の中腹にある観音寺。済州研究院の玄恵慶・副研究委員(右)は、写真中央の跡地は、韓国軍の詰め所だったと見ている=4月4日(共同)

 ▽虐殺と日本

 下貴里という地区に住む高昌善さん(87)は、農民だった兄が、軍警側に「薪の準備を手伝え」と呼び出されて殺された。済州島の中でも被害が多かった地区の一つだ。「下貴里では日本植民時時代に独立運動が盛んだった。(植民地支配からの)解放後、日本時代の特高警察の人材を主軸にして韓国の警察が作られたから、下貴里は警察からにらまれていた」。高さんは虐殺の背景の一面として、そう話した。

朝鮮半島南側だけでの単独選挙が「南北分断につながる」と反対してボイコットして山に入り、選挙後に下山する住民ら=1948年、済州島(済州4・3平和財団提供、共同)

 太平洋戦争末期に、旧日本軍は米軍との「本土決戦」に備え、島内に飛行場や地下壕を多数造った。武装勢力と討伐側いずれもが、これらの施設を活用したことが知られている。
 1970年代後半に4・3事件を描いた小説を出して軍の拷問を受けた、小説家の玄基栄さん(82)は「少し変な話だが、日本も4・3事件と無関係だとは言えない」と話し、こうつぶやいた。「日本が朝鮮を支配した結果、解放のすぐ後に米ソにより南北が分断されたのだから(南北分断へ反対した人々の蜂起で事件が発生したので)もし日本が朝鮮を支配しなかったのなら、どうなったのだろうか」

小説家の玄基栄さん=3月29日、ソウル近郊(共同)

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