G7サミット会場一帯は50年以上、日本軍の出兵拠点だった 軍都・広島が原爆の標的になった一因に宇品港の存在も 

絵葉書「(歩一八北満派遣隊)宇品港乗船ノ景」(個人蔵)=大正後期から昭和初期の撮影、広島市郷土資料館提供

 先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の会場ホテルがある広島市の宇品(うじな)地区は、1894年の日清戦争から、1945年の太平洋戦争終結まで50年以上、旧日本陸軍の出兵拠点だった。さまざまな軍事施設が集中し、日本全国から集まる兵士や物資を、中国大陸や南太平洋へ送り出し続けた。
 「兵たん基地だった宇品港があったために、原爆投下地に選ばれたのかもしれない」
 サミット会場となるグランドプリンスホテル広島が建つ元宇品町で生まれ育った地域ガイドの坂谷晃さん(63)はそう語る。戦争の始まりとなる出兵と、戦争の終わりを告げた原爆投下はいずれも宇品を含む「軍都広島」の歴史だ。世界の首脳たちが集まる場所の、かつての様子を知ろうと、当時をよく知る人々を訪ねた。(共同通信=西村曜)

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https:// https://www.youtube.com/watch?v=enic8RgCFDM

サミット会場のグランドプリンスホテル広島。広島市中心部(上奥)から約6㌔の元宇品町にある=4月(共同通信社ヘリから)

 ▽出兵の港
 地元では今も宇品港と呼ばれる広島港。港に隣接する風光明媚な元宇品町は、かつて瀬戸内海に浮かぶ島だった。明治時代以降の港湾工事で陸続きとなり、現在では広島湾に突き出す半島のような地形だ。ホテルが建つのはその先端。2016年の伊勢志摩サミットでは、外相会合の会場にもなった。

 ホテル1階の、海を臨む開放的なカフェで、坂谷さんに話を聞いた。「目の前の海が輸送船の停泊地でした。兵士たちは桟橋から小型船で出発し、沖合の大型船に乗り換え、戦地へと向かったのです」

日清戦争中、大本営が置かれた広島城内の建物=昭和初期撮影、広島城蔵

 ▽軍都の始まり
 大日本帝国が総力をかけた日清戦争では、戦場の朝鮮半島に近く、鉄道の整備も進んでいた広島が出撃拠点となった。広島を拠点とする陸軍第5師団だけでなく、全国各地の部隊が次々に広島へ集まり、宇品港から出兵した。戦死した兵士の遺骨が帰ってきたのも、この港だった。広島城には大本営が置かれ、軍を統帥する明治天皇が住み、国会も広島で開かれた。軍都の始まりだ。

  宇品港は陸軍の拠点で輸送船が集結し、約15キロ南には海軍の拠点である呉港もあった。日清戦争終結後、日露戦争や第1次世界大戦、日中戦争でも宇品は出兵拠点であり続けた。広島には軍服の工場と倉庫である陸軍被服支廠(ししょう)や、兵士用の缶詰工場など糧秣支廠、陸軍墓地など軍の施設が多く置かれた。
 「出兵だけでなく、復員や占領地への物資運搬も担った。宇品は1945年まで、いわば約50年間も戦争をしていた場所です」。坂谷さんは話す。

多くの輸送船が浮かんでいた旧宇品港。後にサミット会場となる元宇品町から東を撮影している。1894年撮影=広島城蔵

 ▽暁部隊
 宇品の陸軍の中核は通称「暁部隊」と呼ばれた船舶司令部だ。現在は海沿いの緑地に「旧蹟陸軍運輸部船舶司令部」の碑が、わずかに往時をしのばせる。
 岐阜県土岐市に、暁部隊の元隊員が存命だと聞いて取材に向かった。山田木久雄さん(99)は、はっきりとした口調でこう語る。「宇品は軍の街だった。所属していた気象教育隊だけでも多い時には500人くらいおったんじゃないか。その人数分の食料が貯蔵してあった」

陸軍運輸部船舶司令部(暁部隊)の跡地

 戦争末期の1945年1月に入隊した。気象兵として、暗号を基に毎日、天気図を作成した。船舶の運航に必要な気象情報も当時は軍事機密だったため、暗号を解読する必要があった。「兵舎は気象教育隊だけで4棟はあって、その中に仕事場と居室があった。コの字型で、外周は堀に囲まれていたな」
 気象教育隊自体も秘密保持のため、頭文字をとって「き隊」と呼ばれていたという。

 

軍人が宇品の自宅に下宿していたと話す久保田朋子さん=5月、東京都杉並区

 ▽軍人が下宿
 宇品の自宅に軍人が下宿していたと話すのは、現在は東京都杉並区に暮らす久保田朋子さん(86)だ。階級の高い軍人は兵舎の外に下宿することもできた。久保田さんは1945年3月の東京大空襲の後、宇品にあった祖母の家に疎開。そこには暁部隊の軍人2人が下宿しており、祖母は一番広い座敷2部屋を軍人に提供していた。
 「報告に来る部下の兵士には厳しかったけど、私たちには優しかった。部隊の食料を分けてもらうこともあった。近所の若い人が出征することになった時、軍人2人が部隊のコックさんをうちに呼んで宴会を開いた。子どもだった私は入れてもらえなかったけど、コックさんが『失敗したから食べて良いよ』と当時珍しかった卵焼きをくれたのを覚えている」

サミット会場の裏山に残る高射砲の土台跡=4月

 ▽原爆の目標に
 

サミット会場の裏山に残る高射砲跡を示す地域ガイドの坂谷晃さん=4月

 軍の重要拠点だった宇品地区は要塞化も進んでいた。グランドプリンスホテル広島の裏山には戦争末期、高射砲が設置された。地元ガイドの坂谷さんは「山全体が高射砲の陣地だった。サミット会場のホテルの方には機銃の陣地もあったようだ」と語る。
 今はうっそうとした森の中に、コンクリートの台座が残っている。かつては6門の高射砲があったという。
 暁部隊にいた山田さんはこの高射砲が実際に使われているのを目撃している。「米軍の爆撃機に向かって撃っていたが、届いていなかった。そのうち湾内に爆弾が落とされて大きな水柱が上がった」

暁部隊に所属していた山田木久雄さん=4月、岐阜県土岐市

 ただ、広島市への米軍の攻撃はさほど多くはなかった。市民の空襲への危機感もさほど高くなかったようだ。東京から宇品に移り住んでいた久保田さんは証言する。

1945年5月に開かれた米軍の原爆投下に関する目標検討委員会の議事録。下段(2)に広島に関する記述がある=アメリカ公文書館所蔵・広島平和記念資料館(原爆資料館)提供。(画像の無断利用は固くお断りします)

  「東京に比べて防空壕も少なく、雰囲気ものどかだった。原爆投下の前夜も空襲警報が鳴ったのに、逃げたのはうちの家族くらい。祖母も『珍しいわね』なんて言って家にとどまっていた」
 しかし、米軍は着実に広島に狙いを定めていた。原爆投下目標を協議した米軍の「目標委員会」は、爆風で効果的に被害を与えられる地理的な条件に合う都市を抽出。1945年5月には横浜や京都、小倉(北九州市)と並んで広島の名前も挙がっており、当時の議事録には「広島―陸軍の重要な補給基地であり、都市工業地域の中心に位置する出港地」とあった。最終的に攻撃目標は広島、小倉、長崎と絞り込まれていく。

1945年8月6日、爆心地から約4キロ地点の宇品地区で撮影されたきのこ雲=木村権一さん撮影、広島平和記念資料館(原爆資料館)提供。(画像の無断利用は固くお断りします)

 ▽原爆投下と宇品
 1945年8月6日朝。暁部隊の山田さんは爆心地から約5キロの宇品港近くの兵舎の庭で、部隊長の訓示を聞くため整列していた。
 「爆発した瞬間、目の前が薄桃色になった。爆風で兵舎の瓦が飛んで、多くの兵士がけがをした。きのこ雲は高さ1万メートルはあって、上が黒くて下は白かった」
 久保田さんは、爆心地から2・5キロの自宅で被爆した。「白と銀が混ざったような光に包まれ、そのまま記憶を失った。(光と音の様子から)よく原爆のことを『ピカドン』と呼ぶけど、ドンという音の方を私は聞いていない」。母や兄弟は無事だったが、早朝に勤労奉仕に出かけていた祖母を亡くした。
 爆心地から離れていた宇品地区は大規模な被害は免れたため、救助活動の拠点となった。市中心部で壊滅した部隊に代わり主力となったのが、暁部隊だった。山田さんは兵舎でひたすら握り飯を作るよう命じられた。大きな釜で米を炊くのは重労働で、初年兵の仕事とされた。
 「市内に救護に行った兵士が、1カ月ほどするとみな腹をこわし始めた。中には寝込んだり、やせていったりする人もいた。当時は分からなかったが放射能の影響だった」。山田さんは振り返る。

1945年10月に撮影された広島市中心部。奥がサミット会場となる元宇品町=林重男さん撮影、広島平和記念資料館(原爆資料館)提供。(画像の無断利用は固くお断りします)
G7広島サミットが開かれるグランドプリンスホテル広島

 ▽加害と被害
 グランドプリンスホテル広島を望む宇品波止場公園には、出兵時に使われた石積みの桟橋が一部残されている。この近くに「暁部隊」(陸軍船舶司令部)の建物や兵舎があり、78年前は多くの負傷者が担ぎ込まれ、辺りを埋め尽くしていたという。
 戦争の加害と被害の両方を抱えた宇品に、G7首脳たちが集まる。坂谷さんは語る。

 「広島では被爆した1945年8月6日以降の出来事は歴史に注目が集まりがちです。確かに原爆は大変なことだったが、それだけに注目するのは危険。原因があって原爆投下という結果もあったはず。サミットを契機に軍都だった歴史も知られてほしい」

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