激動のバスケキャリアの果てに、長岡萌映子が選んだ“自分の生き方”。「私たちはアスリートである以前に一人の人間」

病気の発覚、家族の健康状態の悩み、心労によるメンタル面の不調……。女子バスケットボール界屈指のタレント・長岡萌映子は激動のバスケ人生を歩んできた。それでも彼女は「悲劇のヒロインにはなりたくない」とこれまで頑なに多くを語ってこなかった。“50年に一度の才能”といわれた彼女が直面した多くの試練と、移籍を繰り返したからこそ見えてきた境地とは?

(インタビュー・構成=守本和宏、写真提供=ENEOSサンフラワーズ)

前人未到の記録達成後の試練の日々

高校バスケ界最高峰のイベント「ウィンターカップ」決勝で50得点など、前人未到の記録を達成。2012年にWリーグ入りを果たした長岡萌映子(モエコ)。女子バスケ史上、数十年に一度の逸材は、富士通レッドウェーブでその才能・得点力を遺憾なく発揮した。だが、海外挑戦、日本代表での活躍を視野に、2017年トヨタ自動車アンテロープスへ移籍。以降、主力として使われてはいたが、以前のような得点力は鳴りを潜めていく。

その理由は、レギュラー争いに敗れたからか、自らの意思なのか。そして、タイトルに恵まれた彼女が、昨シーズン終了後、ENEOSサンフラワーズ移籍を決断したのはなぜか。高校時代を“ただの生意気な選手だった”と冷静に振り返るほど成長した彼女が、強豪3クラブを渡り歩き、その先に見た光景とは。

あふれるほどの才能に恵まれた彼女は、幸せな人生を送ってきたのか。その激動のキャリアを本人が語ってくれた。

トヨタ自動車時代に考えたプレースタイルの変化、人生の転機

2017年にトヨタ自動車に移籍した長岡萌映子。その才能・得点力に変わりはなかったが、彼女の平均得点(レギュラーシーズン)は移籍1年目11.83、2年目7.79、3年目9.60と、明らかに目減りしていく。スターぞろいのチームでプレーする難しさもあるだろう。しかし、彼女のプレースタイルは明確に変化した。それは実力的な問題だったのか、あるいは自ら下した決断なのか。その背景には、予想外のエピソードがあった。

――トヨタ自動車に入った後、切望していた優勝を2回経験します。富士通からの移籍はいい選択だったと思いますか?

長岡:そうですね。表面的に見れば、(スコアラーから)陰に入ったと受け取る人は多いと思います。ただ、自分にとってはバスケにおいても個人の人生においても、大事な判断になったと思います。

――プレースタイルの変化を感じました。それはレギュラー争いで優位に立てなかったからなのか、意識の変化からきたものか、どちらでしょう。

長岡:富士通からトヨタへの移籍が、私にとって一番大きなターニングポイントでした。富士通にはルイさん(町田瑠唯)がいて、周りで支えてくれるウィルさん(山本千夏)、リーさん(篠原恵)、シィさん(篠崎澪)、レイさん(三谷藍)もいた。その中で得点を取らせてもらっていたけど、トヨタじゃタイムシェアやメンバーの問題などあって、そうはいかない。その難しさはすごく感じましたね。

その中で、富士通と同じようにプレーして結果を残すことは、できたかもしれません。でも自分がどう生きていくべきか、考える必要があったんです。それは日本代表で学んだんですけど……。

――何があったのですか?

長岡:2017年に日本代表としてアジアカップに出た時、ベスト5を取らせてもらいました。体の融通がきいて、いろいろなプレーをさせてもらっていました。でも……2018年の世界選手権の合宿途中で、私、病気が見つかったんです。それで、手術することになりました。

――そうだったんですね。

長岡:そんな時でも、親善試合に向けた日本代表メンバーに、手術間もない状態で参加となる私を、トム(トム・ホーバス元日本代表監督)は選んでくれたんです。

――戦力にならないかもしれない選手を選んだ、と。

長岡:そう。もう1カ月ぐらいプレーできていない。その中で選んでいただいて、試合の2週間前ぐらいに復帰しました。でも、復帰戦が対アメリカ代表だったんです。もう『どうしよう』っていう状況ですね(笑)。

そこで考えたんですよ、“自分がどうしたら生きていけるか”。体の融通がきかない状態で、どうプレーすればいいか。体力も筋力も落ちている中、この代表で何をするべきか。得点やリバウンドとかも考えましたけど、さすがにできません。

――それは当然だと思います。

長岡:最終的にその試合であまり結果は残せませんでしたが、そこで一歩成長できた。いろいろな捉え方や感じ方を学んだ。それはトヨタでも一緒で、馬瓜エブリンがいて、馬瓜ステファニーがいて、安間志織、三好南穂、水島沙紀がいる。だから、自分がどう生きるか、すごく考える年になったんです。

――主張するプレーが減ったなと、見て思っていました。

長岡:だって、1on1が大好きな選手の集まりでしたから(笑)。賛否ですよね、結局。富士通の時のようなプレーが見たい人もいるけど、プレースタイルが変わったと捉える人もいる。私も考えましたが、最終的に自分で魅力を感じたのが、ディフェンスとパスでした。周りに能力の高い選手がいるなら、自分はスコアラーにこだわるより、ここぞという時に1本決められる選手になりたい。そう思うようになっていったんです。

ENEOS移籍の背景にあった家族の存在。チームへの信頼と責任

トヨタ自動車移籍と日本代表で大きな学びを得た長岡萌映子。念願のシーズンタイトル獲得、東京五輪では貴重な経験を得た。しかし、2021-22シーズン終了後に、ENEOS移籍を決断する。気になったのは、その理由だ。それはモエコがここ最近、日本代表活動を辞退している要因でもある。人間としてのモエコが下した、その決断とは。それは、他のアスリートにとっても大事なことだと思う。

――プレーヤーとして成長した長岡萌映子はトヨタで2連覇を飾ります。でも、移籍をあえて決断しました。その理由はどこにありますか?

長岡:ENEOSに移籍してきた理由に、家族の健康状態があるんです。実は姉が、オリンピックが終わった2021年9月にガン宣告されて、そこから1年間トヨタで頑張ったんですけど、さらに翌年2月ぐらいに家族の健康状態もあり、私自身メンタル面の不調があったんです。だから私、昨シーズンのシーズン後半は出ていなくて、2カ月ぐらい休んでいたんですよね。帰ってきたのがセミファイナル2週間前ぐらいで、それこそ体もできていなかった。

――でも、試合にはポイントで使われていましたよね。

長岡:以前ルーカス(ルーカス・モンデーロ前トヨタ自動車ヘッドコーチ)に会った時、『あそこでチームの質が落ちなかったのはモエコがいたからだよ』と言ってもらえた。ポイントで使ってもらえるユーティリティー性も、また自分にとっては学びですよね。

――昨シーズンのファイナル終了後に、町田(瑠唯)選手や引退した篠崎(澪)さんと泣きながら抱き合っていて、引退するのかなと思っていました。

長岡:あれ、実はルイさん(町田瑠唯)が私の家族の状況を知っていたんです。シィさん(篠崎澪)も直接しゃべってはいないけど、何かあると知っていた。あとは渡邉亜弥選手とタクさん(渡嘉敷来夢)も知っていた。それで、みんなが「よく頑張ったね」と、声をかけてくれたんです。その涙でした。

ENEOS移籍の伏線とか憶測も出ましたけど、全然そんなことはない。タクさんは、私を心配してくれていて、「大丈夫か」と話しかけてくれた。移籍どうこうじゃなく、号泣していたのは、ただタクさんや先輩たちが優しかっただけなんです(笑)

――その家族のことがENEOS移籍の決め手になった、ということですか?

長岡:その背景があり、私自身が家族を近くでサポートしたいと思って、移籍を決めました。チームにはサポート面も考慮してもらって、それでも私を必要だと、言っていただいたんです。

――クラブや監督が個人を尊重するのは、働く上で、すごく重要なことだと思います。だからこそチームに貢献したいという気持ちも大きくなりますよね。

長岡:そうです。私の状況を考えていただけたのは、本当にありがたかった。チームにはすごく感謝していて、恩返ししたい気持ちがあるから、必然的に力は入る。私は、バスケ以外のことを優先したかった。だからこそバスケで貢献したい、目標に向けて何があってもプラスになりたい。そう考えています。

キャリアで手にいれたもの「自分を隠さず生きていきたい」

僕は、ただただ、さらにモエコに惹かれ、応援したくなった。天賦のスター性を持ちながら、生身の人間であるところに。

「病気や家族のことで、悲劇のヒロインになるのはイヤだし、美談にしたいとも思わないんです。でも、こういうことを経て、“私たちも人間なんだよ”とは言いたい。アスリートだから強い。何をしてもいいじゃない。アスリートである以前に、私たちは人間。どれだけ有名で強く見える選手だってそう。みんな一人の人間なんだよっていうのは伝えたいです」

自分は弱いけど、承認欲求は強く、そこを捨てられないのが弱点だと、自分のことを冷静に分析する、その聡明さに。

「アンチの声に耳を傾けていたら仕方ないけど、自分は特にそこが弱い。承認欲求も強いし、評価は気になるし、心配性。それは今でも弱点だと思いますね。自分が陰に隠れるプレーを始めてから、エースでなくセカンド(2番手以降)に落ちることを、気になりつつ気にしないようにしてきた。自分軸で生きてない感覚があるんです。だから『キャリアのゴールとは何?』の質問に対しては、『もっと自分らしく生きていく』ですね。自分のやりたいこと、信念を持ちたい。自分は自分なんだと、思える器が欲しいです。自分を隠さず生きていきたい。自分が楽しく、自分らしく、後悔のない人生を過ごしたいと、今は思っています」

誰もがうらやむ才能を持ち、飽くなき努力で誰にもできないことを達成してきた長岡萌映子。そんな彼女が望むのは、「自分らしく生きたい」という、ごく普通の願いだ。世間やSNSの声に左右されず、自分を好きになるのは、思いのほか難しいことなのかもしれない。ただ少なくとも、自分を信じ、仲間を信じ、支えてくれる誰かを思って、涙してきたモエコには、自分のことを好きでいてほしい。僕は心から、そう願っている。

長岡萌映子のバスケ人生は幸せだったのか、最後に聞いた。

「一言で言えば幸せでした。幸せばっかりじゃない、むしろキツイことのほうが多かった。でも、だからこそ学べたことは、普通に生きている中では絶対に得られないものがたくさんあった。それは本当に幸せなことで、大きく成長させてもらえたと、人生を振り返って思います。喜びも悲しみも。挫折も含めて」

「セカンドキャリアでは、本当はスポーツ心理学とかを勉強しに、海外にも行きたいんです。自分の人生、これだけすごい波があったから、絶対この経験を生かせると思う(笑)。アスリートも私と同じような境遇の人もみんな、自分をもっと理解して、自分を許し、豊かな人生を送ってほしいと思う。私の経験談を伝えて、少しでもその手助けができればいいなと思っています。もちろん、家族の状態も考慮しながらですけどね」

あと1年か4年か。日本女子バスケ史上、屈指のタレント長岡萌映子の現役生活は終盤に入っている。強豪3クラブを渡り歩き、特別な経験をしてきた彼女。願わくば、その現役生活が最後の瞬間まで、大事な仲間や好きな人たちに囲まれた“幸せな生き方”となることを願いたい。

<了>

[PROFILE]
長岡萌映子(ながおか・もえこ)
1993年12月29日生まれ、北海道出身。WリーグのENEOSサンフラワーズ所属。札幌山の手高校時代に3冠を達成。高校卒業後、2012年に富士通レッドウェーブへ入団し、加入1年目より主力として活躍。2017年にトヨタ自動車アンテロープスへ移籍し、2度のWリーグ制覇に貢献。2022年オフよりENEOSサンフラワーズでプレー。2022-2023 Wリーグ優勝。日本代表としても長年活躍しており、リオデジャネイロ五輪のベスト8、東京五輪の準優勝に貢献。

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